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竹久夢二 ~ 森口多里 ~ 村山知義
【森口多里:46才】雑誌「アトリエ」1937年(昭和12年)3月号より
森口多里(もりぐち たり)[1892.7.8 - 1984.5.5]美術史家・美術評論家、民俗学者。1914年(大正3年)早大英文科卒業(日夏耿之介と同期)後、『早稲田文学』を中心に美術評論活動を始める。1923年(大正12年)から1926年(昭和2年)にかけて早稲田大学留学生として渡仏。帰国後は母校の教壇に立つ傍ら、美術分野の編集執筆活動、新聞雑誌での展覧会評など幅広く手掛ける。戦後は郷里の岩手を拠点とし民間伝承の研究をはじめ郷土文化の調査研究に尽力、多くの功績を残した。 私が竹久夢二について調べていくうちに出会ったのが森口多里だった。森口の著書「明治大正の洋画」(昭和16年刊)の中で「竹久夢二」について一項を設けているが、森口は既に早大の学生時代から夢二と知合いであったようだ。 …以下、「竹久夢二 -追憶-」より抜粋。※原文は旧仮名遣い 〈~夢二の女は非常に空想的のもののようでありながら、明治大正の時代性を確実に持っている。彼の若い女性は旧幕時代に逆戻りしたニンフでもなく、西洋の借着した植民地的なニンフでもなく、はっきりと明治大正のニンフである。 ~しかし秋の遺作展を見て感じたことだが、彼が最もよい作品を生んだのは大正中期までで、なかんずく大正初期がよい。これらの作品には豊かな情緒を裏づける忠実な自然の研究があったからよかったのだ。大正後期になるとそれが失われて、ただ手なれた三味線を繰返し弾くにとどまるような単なる情緒の放出があるに過ぎない。〉 森口はその著書「美術五十年史」(昭和18年刊)が、日本画・洋画・彫刻・工芸の各分野にわたって総合的に日本美術の史的変遷を記述したものであったように、当時の日本美術については多岐にわたり執筆している。 フランスに留学していた事もあり、当時の前衛美術の動向及び版画・デザイン活動についても詳しかったようだ。 …以下、「明治大正の洋画」の中で「未来派から構成派」より抜粋。※原文は旧仮名遣い、※人名は原文に従った。 〈~未来派美術協会の第二回展は大正10年10月15日から28日まで上野公園前の青陽楼上で開かれた。主導者は木下秀一郎に変った。出品の会員はヴ・パリモフ、ダヴィッド・ブリュリック、木下秀(秀一郎)、普門暁、重松岩吉、浅野草之助、彫刻の浅野及び戸田久輝(海笛)、会友はリュバルスキー、バルフラバン、フェアラ、尾形亀之助、種市良寛、入選は上野正之助、稲垣足穂、笠置季男、大浦周蔵等19人であった。 ~彼等のある者は凡庸の写真に未来派の分解とダイナミズムとを穏和に取交ぜた一種の折衷的未来主義によって日本の風俗を写しなどしていた。~〉 (※ここで稲垣足穂が未来派展に入選したいきさつについては、自伝的エッセイ「未来派へのアプローチ」の中で詳しく述べられている。) 〈~大正11年には未来派美術協会の木下、尾形等は「三科インデペンデント」の名の下に10月15日から31日まで青陽楼上で美術展覧会を催した。新たに露人ブブノーヴァ女史が加わった。 ~三科の方には、ドイツから構成主義の理論を携えて帰った村山知義が加わり、村山と尾形が主となって三科の別働隊のようなマヴォを組織した。~〉 この後には村山知義の「芸術の究極としての建築」(大正13年)の文章を紹介しており、村山知義著の「演劇的自叙伝」と併せて読むと、この時代の前衛的美術状況がひしひしと伝わってくる。 森口多里は、今日ではほとんど忘れ去られた美術評論家だが、1920-30年代の美術・デザインの動向を知る上では村山知義などと共に重要な人物であると思う。 【3びきのこぐまさん】雑誌「子供之友」誌上に1924~28年に連載 ◆今日は「雛祭り」◆
by suzu02tadao
| 2012-03-03 12:21
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