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1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
by 大阪モダン
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さぬきや旅館とグレート大阪

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 前回に続いて戦前にあった旅館のパンフレット。今回は「さぬきや旅館」です。
 これは片面全体が大阪市の地図になっていて、部分的に大正13年発行「大阪市パノラマ地図」が使われています。
 下図は、その一部を拡大したものですが、ちょうど「日本橋」の表示がある左側に「さぬきや旅館」があります。
 また、前回の「稲田家旅館」は印のところだと思われます。
さぬきや旅館とグレート大阪_c0239137_1134113.jpg
 地図の「さぬきや旅館」の手前の緑色のところは現在も公園になっていて、「贈従五位安井道頓・安井道卜紀功碑」(大正4年建立)が建っています。
さぬきや旅館とグレート大阪_c0239137_1192538.jpg
 公園の向こう側に見える駐車場の所に「さぬきや旅館」があったようで、パンフレットでも次のように紹介しています。

 安井道頓の碑はさぬきや旅館前の公園にあり本館客室より見る事を得。
 安井道頓は慶長十七年、秀吉の許を得て木津川まで廿二丁の堀り半にして秀吉の奮恩に報ゆる為め大阪役に立ち戦死、大阪道頓堀は三百年の歴史を伝ふ。


 なお、この碑は安井道頓・道卜兄弟の紀功碑となっていますが、その後の考証により道頓・道卜兄弟説は否定され、道頓の姓は成安というのが現在では定説になっているようです。

 さて、このパンフレットのパノラマ地図には当時の道頓堀から千日前、難波の辺りまでの部分が載っています。
 参考までに、「大阪市パノラマ地図」は国際日本文化研究センターが所蔵しており、ネット上で閲覧可能です。
さぬきや旅館とグレート大阪_c0239137_11144479.jpg
 この当時の道頓堀や、「楽天地」の近くにあった千日前常盤座の様子は以前にも当ブログで紹介してますが、ちょうどこの図の真ん中やや下あたりにある、最近話題の織田作之助『夫婦善哉』の舞台にもなった法善寺界隈については、北尾鐐之助も『近代大阪』の中で紹介しています。

 細い横道から、ちょっと南に入ると、暗い法善寺の境内にぽかりと出る。全くぽかりと云った感じである。~(略)~
 こっぽりと、日和下駄と、フェルトの音が毎日毎夜、絶間なくそこの長い石鋪道に響き渡ってゐる。花櫛の半玉から、丸髷の仲居から、銀杏返しの姐さんから、どうかすると断髪の女給たちから、絶え間なく、これ等の神様、仏様に浄財、不浄財が捧げられるのだ。~(略)~
 周囲をかこむ不夜城の明りが、高く塀越し来て、小さな堂の屋根瓦を照らすところ、洗心水の傍らで、空に向って何かくどくどと願文をとなへながら、拝んでゐる男がある。どこかで見た顔だがおもひ出せない。やっと、おもひ出してみると、何とかいふ一度聞いた落語家であったり、弁財天の堂の前に立ってゐると、突然堂の背後から、白いショールの、目覚めるやうな高島田が風のごとく現れて、またすっと暗に消える。
 いまの法善寺の夜の風景である。


 ところで、パンフレットの中で「大阪城」の案内には<大阪市は御大典記念として天守閣を築き本丸址を公園とする計画あり>とあるところから、これは昭和3~4年頃のものかと思われますが、下はパンフレットの大阪市の地図の一部で、この当時には、御堂筋は南御堂の辺りまでしか出来ていないことがわかります。
 ちなみに全線が開通したのは昭和12年5月です。
さぬきや旅館とグレート大阪_c0239137_11193819.jpg

 前回の「稲田家旅館」同様に当時の大阪観光の目玉は<東洋一の商工業地>だったようで、このパンフレットでも「グレート大阪と概説」と題した中で次のように述べています。

 都会を観察するならば第一に都会の裏面からそして表面を観察してこそ最も有意義、如何に苦境にあるか、商工業としての大阪を目察し顧慮以って万金を期せねばならぬ、それら観察団の便宜としてグレート大阪概説に筆を染め以下名所、旧蹟、商工業の中心地、東洋一の大阪、その大阪の中心、道頓堀の楽園より歩みを運ばんとす。裏より表の大阪実地御踏査を斬界の為め希望し以って歓迎す。
by suzu02tadao | 2013-09-26 11:35
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