1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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五色の酒 ~法善寺横丁

◇下高原健二:挿絵 「五色の酒」(『笑説 法善寺の人々』)より
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 先日、「法善寺横丁」について調べようと思って、今までほとんど目を通してなかった『笑説 法善寺の人々』長谷川幸延(1965年刊)を読んでみたら、以前とりあげた「キャバレー・ヅ・パノン」について詳しく書いてあるではないか・・・何を今さらなんですが…

 ここでは「キャバレー・ドゥ・パノン」と表記しているが、以前当ブログで紹介したことはもちろんのこと、次のような記述もあって、ワクワクします・・・
 <しかし、宗右衛門町の方からパノンを見れば、若い女性をつれてよく来てはブランデーをのんだ長髪・白皙の竹久夢二。祇園の芸妓をつれて来た吉井勇や長田幹彦が、ジンフィズの盃を上げていたのも見えたろう。>

 パノンの他には、「カフェー・パウリスター」「カフェー・クレナヰ」「スタンド・ライオン」などについて記されているが、こういった店の雰囲気を今も残しているのはこの界隈では「丸福珈琲店」だろうか・・・
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 更にパノンでは・・・
 <ことに道頓堀五座の櫓に芝居のハネ太鼓が鳴るころ、観客の中のえらばれた何人かが、さそいあうともなくここにつどういろどりは、その卓上に見る五色の酒にも似た。当時の筆者のフトコロでは手が出なかったが、それでも
 「僕にもあれを・・・・・」
 時々は小声で、しおらしく注文する時、胸がときめいた。
 五色の酒---。
 今思い出しても、それこそ青春の夢である。一つのワイングラスに、色と比重のちがう五つの酒をつぎつぎに注いで、あざやかな五つの層をつくる。
 赤(ストロベリー・リキュール)・緑(ペパミント)・白(マラスキノ)・黄(キュラソー)・茶(ブランデー)というように・・・・・>

 とあるが、その当時の長谷川幸延(1904-1977)は、まだ14~15歳位だったはずで、なんともマセていたものだ・・・

 それについては、ちょうど藤沢桓夫らが波屋書房から雑誌『辻馬車』を創刊した大正14年、波屋書房主人の宇崎祥二に結婚資金ねん出のために蔵書を買い戻してもらった際の次のようなエピソードがある。
 <その時祥二は、辻馬車の人々をかえりみて
 「あの人たちは『辻馬車』を出す資本あつめに狂奔してるが、あんたは愛人と世帯もつ金で苦労してるねんなア」
 しみじみといった。さびしかった。が、筆者は昂然と
 「ナニ。オレの方が大人じゃ」
 と、胸をはった。>


 そして、道頓堀のパノンやパウリスターなどに集った人々が洋酒に飽き、コーヒーでは話し足りない時、南下して法善寺裏(当時は法善寺横丁とは言わなかった)に流れ、辻馬車の同人で酒徒だった武田麟太郎や崎山猷逸らは北上して、法善寺裏にあった大衆酒場「お多福」の顔なじみとなり、長谷川幸延とも飲み友達だったという。

 この「お多福」とともに値の安さが魅力だった「正弁丹吾」はオダサク『夫婦善哉』で有名になったが、なんと、織田作之助を初めて「正弁丹吾」に連れていったのは長谷川幸延だったのだ!
 <しかしあの晩、いっしょに正弁丹吾で語り、彼はあまり盃を口にせず
 「僕、ここはじめてやねん」
 と、いささか照れ気味にいって、しきりに煙草をふかしていた織田を思う時、その窓の下に彼のただ一つの句碑が建つ、妙な皮肉を感じるのだ。>

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 北尾鐐之助の『近代大阪』(昭和7年刊)の中にも「正弁丹吾」は登場している・・・

 <それから法善寺横町、寄席の花月によつて、赤く色どられる飲食街をあるく。
 二間とはない細い路次の両側は殆ど飲食店。敷きつめた石畳みは、いつも水に濡れて光つてゐる。
 ~(略)~
 西のはづれに行つて、新地に出ようとするところに、正弁丹吾の関東煮屋がある。暖簾の下から満員の足だけが見えて、さかんに、野球の話がはずんでゐる。中を覗くと、主人が箸で鍋をつつきながら、「伊達はなぜ投手板(プレート)に立たぬか?」といふ問題について議論した。>

 この当時は、まだプロ野球もなく、当然ながら阪神タイガースもできていない・・・しかし、すでに大阪の居酒屋では野球談議に花が咲いていたのだった・・・!

 さて、ここで問題は「法善寺横町」なんですね・・・
 私も、何の疑いもなく「ほうぜんじよこちょう」と読んでいた。
 しかし、この当時は「ほうぜんじよこまち」だったのだ。

 この路次が、「法善寺横丁」と表記され「ほうぜんじよこちょう」と呼ばれるようになったのは、長谷川幸延が小説『法善寺横町』(音感がいいので「よこちょう」と読ませた)を発表してからだという・・・
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 ところで、この『笑説 法善寺の人々』で、軽妙な挿絵を描いているのは下高原健二(しもたかはら けんじ、1914-1992)で、代表作には司馬遼太郎『坂の上の雲』の挿絵がある。
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【おまけ】
その昔、竹林寺があった頃「縁切り小路」といわれていた場所から見た法善寺・・・
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by suzu02tadao | 2013-12-04 11:50 | Comments(0)
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