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1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
by 大阪モダン
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「三科展の弁」 村山知義

「三科展の弁」 村山知義_c0239137_1110455.jpg

 前回、ジョージ・グロスの評伝を書いた柳瀬正夢にふれましたが、柳瀬と共に「マヴォ(MAVO)」を結成するなど前衛美術運動を展開していた村山知義が、1925(大正14)年10月号『中央美術』の中で、「三科展の弁」と題して、この年の9月に上野の自治会館で公募展として開いた第二回三科展の紹介をしており、ご覧のとおりの不鮮明な図版と主な作品の批評を載せています。
「三科展の弁」 村山知義_c0239137_1115812.jpg

 <今迄は何一つ展覧会が無かつたのである。三科展が開かれて人々はほつと息をついた。
 「我々はやつと見るべきものを持つた!」
 凡庸な人間共の狭い趣味に従つてぬたくられた絵画又は彫刻と称するあまり利巧でも便利でもない因習的表現様式の生気無き羅列は人々にとつてはもうビタ一文にも値しなかつたのである。>


 冒頭から、このような調子で既成の美術表現を否定しており、ベルリンから帰国後すぐに前衛芸術家としての活動を開始した村山知義の面目躍如といった感じがします・・・そして、次のようにも書いています。

 <私は来年の三科は、物凄い博覧会(!展覧会ではありません!)になるに違ひないと思ふ。その中には劇場芸術もあり、講演会もあり、運動器具もある。
 今度の展覧会が成功を見れば私達はきつと活動写真を撮影するであらう。
 それが全く断然たる映画になることを私達はもう今から知つてゐる。>

「三科展の弁」 村山知義_c0239137_1116227.jpg

 <三科がいろいろの点(推せん制度、会員制度、入場料の件等)で不完全な組織をとつてゐることは疑ひない。しかし無暗に現想論を追ふ者は、社会がどんなにナマコのやうな、殆んどハシにもボウにもかゝらないものであるかとうふことを知らないのだ。
 三科はなすべきことをたくさん持つてゐる。
 三科の将来は決して予測されない。
 三科は揉める。
 三科は急転する。
 そして三科は、三科は、三科は、進行してゆく。>


 ・・・と結んでいますが、思想的にも様式的にもさまざまな立場やグループの集まりであった三科は、内部対立によって展覧会の会期中の9月20日には解散広告を出しており、この記事が人の目に触れる頃には既に三科は存在していなかったというわけです。
 しかしながら、この後、劇作家、演出家、美術家、舞台美術家、小説家などとして八面六臂の活躍で、「日本のダヴィンチ」と呼ばれた村山知義をはじめ、柳瀬正夢など三科のメンバーのマルチな活動の足跡を見れば、けっして間違ったことは言っていないようにも思えるのです。
「三科展の弁」 村山知義_c0239137_11175368.jpg

 ところで、この時の出品作品は122点だったのですが、批評の中に次の記述もあり、後に日本を代表するグラフィックデザイナーとなった、若き日の原弘も出品していたことが分かります。

 <原弘氏の石版術の始祖、アロイス・セネフエルダー氏への感謝はたゞ新しい石版であるといふだけのことで、それ以上には行き兼ねてゐる。>

 また、ワルワ―ラ・ブブノワの出品作についても批評していますが、それは下図のものではないかと思われます。
「三科展の弁」 村山知義_c0239137_1126799.jpg
 <ブブノワ女史の版画、殊に自像のはひつた石版画は面白い。女史は産業芸術の立場から、一枚々々の作業を棄てゝ大量生産的版画へはひつて行つた人だけに、暇つぶしや他に何にも出来ないためにやつてゐる人達の版画とは全く異つたりんりんたるものである。>
by suzu02tadao | 2014-02-04 11:30
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