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1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
by 大阪モダン
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【初詣】織田作之助「わが町」をゆく

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 オダサクの銅像がある生国魂神社(いくたまさん)。
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 敬愛した井原西鶴像も鎮座するこの神社のすぐ近くの生玉前町に、オダサクこと織田作之助は生れました。
 家業は「魚鶴」という鮮魚店兼仕出屋でした。
 その当時、「魚鶴」は谷町筋に面していたようですが、後に父親が商売に失敗。この界隈を転々とした後、大正15年に一家は、谷町筋の家からいえばその裏町にあたる銭湯日の丸湯横の路地で暮らしたのでした…

 銭湯日の丸湯と理髪店朝日軒の間のせまくるしい路地を突き当ったところの空地を凵の字に囲んで、七軒長屋があり、河童(がたろ)路地という。その空地は羅宇しかえ屋の屋台の置場であり、夜店だしの荷車も置かれ、なお、病人もいないのに置かれている人力車は、長屋人の佐渡島他吉の商売道具である。もちろんここは物干し場にもなる。けれど、風が西向けば、もう干せない。日の丸湯の煙突は年中つまっていて、たちまち洗濯物が黒くなってしまうのだ。

 小説「わが町」の中に、オダサクが生まれ育ったこの界隈が登場します。

 日の丸湯の主人というのは、先代より引続いて、河童(がたろ)路地の家主であり、横車(ごりがん)も通した。河童路地は只(ただ)裏ともいい、家賃は只同然にやすかったが、それさえ誰もきちんと払えた例しはなかったのだ。

 しばらくぶりに「私」が、かつて暮らした町を訪れる「木の都」の中にも、次のように記されています。

 下駄屋の隣に薬屋があった。薬屋の隣に風呂屋があった。風呂屋の隣に床屋があった。床屋の隣に仏壇屋があった。仏壇屋の隣に桶屋があった。桶屋の隣に標札屋があった。標札屋の隣に……(と見て行って、私はおやと思った。)本屋はもうなかったのである。

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 大正13年発行「大阪市パノラマ地図」です。
 矢印で示しているのが日の丸湯の煙突だと思いますが、まさに「わが町」の「河童路地」の描写にピッタリです…
 この辺りは、空襲で焼きつくされてしまい、日の丸湯の釜と煙突だけが残ったようです。
 また、この界隈の谷町筋は現在のような大通りではなかったことがわかります。

 「木の都」で口繩坂を登ってきた「私」はこの谷町筋に出ます。

 北へ折れてガタロ横町の方へ行く片影の途上、寺も家も木も昔のままにそこにあり、町の容子(ようす)がすこしも昔と変っていないのを私は喜んだが、しかし家の軒が一斉に低くなっているように思われて、ふと架空の町を歩いているような気もした。しかしこれは、私の背丈がもう昔のままでなくなっているせいであろう。

 「夫婦善哉」の中にも、「ガタロ横町」は登場しています。

 よくよく貧乏したので、蝶子が小学校を卒(お)えると、あわてて女中奉公に出した。俗に、河童(がたろ)横町の材木屋の主人から随分と良い条件で話があったので、お辰の頭に思いがけぬ血色が出たが、ゆくゆくは妾にしろとの肚が読めて父親はうんと言わず、日本橋三丁目の古着屋へばかに悪い条件で女中奉公させた。河童(がたろ)横町は昔河童(かっぱ)が棲んでいたといわれ、忌(きら)われて二束三文だったそこの土地を材木屋の先代が買い取って、借家を建て、今はきびしく高い家賃も取るから金が出来て、河童は材木屋だと蔭口きかれていたが、妾が何人もいて若い生血を吸うからという意味もあるらしかった。

 この「ガタロ横町=河童横町」は下図の昭和10年「大大阪市街全図」では公設市場のすぐ北側の通りのように示されているのですが、「大阪市パノラマ地図」で描かれた「河童路地」の南側の表通りにあたる細い通りが「ガタロ横町=河童横町」ではないかと思われます。

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 この地図で、はオダサクの生家、は「河童路地」の家、はオダサクが通った東平野尋常小学校(現・生魂小学校)と思われる場所です。

 現在の地図に置き換えてみました。
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 の小学校だけが今もありました(もちろん、校舎は建て直されていますが…)。
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 路地は情けないくらい多く、その町にざっと七八十もあろうか。いったいに貧乏人の町である。路地裏に住む家族の方が、表通りに住む家族の数よりも多いのだ。地蔵路地はLの字に抜けられる八十軒長屋である。なか七軒はさんで凵の字に通ずる五十軒長屋は榎路地である。入口と出口が六つもある長屋もある。狸裏(たのき)といい、一軒の平屋に四つの家族が同居しているのだ。

 今では「わが町」に書かれたような面影は全くなく、お洒落な店もあって、谷町筋のタルトケーキが評判の店で一休み…
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 高津宮にも初詣。
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 帰り道、
 ふと傍らを見ると寺の門前に「梶井基次郎墓」と表示されていたので、中に入ってみると…
 元日から、新鮮な「檸檬」が供えられていました。
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by suzu02tadao | 2017-01-05 08:30
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