1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
by 大阪モダン
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
以前の記事
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
more...
お気に入りブログ
ヴォーリズを訪ねて
近代建築Watch
レトロな建物を訪ねて
Books & Things
最新のコメント
そうですね… 黄葉..
by モダン周遊 at 10:40
こちらの重厚さも良いです..
by 雪だるま at 06:00
普段の屋上テラスは、 ..
by モダン周遊 at 16:03
芝川ビル 雪だるまもこ..
by 雪だるま at 05:53
それほど見栄えのするもの..
by モダン周遊 at 12:46
これは知りませんでした ..
by 雪だるま at 22:45
内部はイケフェスの時に撮..
by モダン周遊 at 06:49
こちら 外観は何度も撮..
by 雪だるま at 05:46
そうなんです 見所が随..
by モダン周遊 at 11:10
元はホテルだったこの建物..
by 雪だるま at 05:56
メモ帳
最新のトラックバック
シャガール、ピカソ、マテ..
from dezire_photo &..
シャガール、ピカソ、マテ..
from dezire_photo &..
マルモッタン・モネ美術館..
from dezire_photo &..
美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..
【姫路の老舗映画館が消え..
from ジョニー暴れん坊デップの部屋
個性的なビルがいっぱい:..
from 本読みの記録
ライフログ
検索
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2012年 05月 ( 11 )   > この月の画像一覧

足立源一郎 ~ 奈良にて

◇旧足立源一郎邸 1919(大正8)年
c0239137_1271667.jpg

c0239137_1272037.jpg

 足立源一郎(1889-1973)は、日本を代表する山岳画家として国内外に足跡を残し、数々の名作を描いたことで有名であるが、自身の設計により建築した奈良市高畑町の旧足立邸(中村邸)は国の登録有形文化財に登録されている。
【参考】レトロな建物を訪ねて

※以下、「登録有形文化財」説明板より
<登録有形文化財
 中村家住宅(旧足立家住宅)主屋・塀
 ~ 主屋は、赤瓦を葺き、外壁をモルタルで仕上げた洋風住宅です。フランスから帰国した足立自ら南プロバンス風に設計したと伝わっています。内部にはステンドグラスで飾った玄関、吹抜けのアトリエ、サンルーム等があります。土塀にも赤瓦を使用し、瀟洒な門柱を構えています。~>


 足立源一郎は1914(大正3)年、フランスに留学して、4年半パリで画業に励んだ後、1918(大正7)年、帰国して翌年にはこの自邸を建てている。
c0239137_12134171.jpg

 1920(大正9)年に日本美術院第7回展終了後、足立をはじめ洋画部会員は連袂脱退する。そしてこれ以降、日本美術院から洋画部は無くなる。

◇「カスク ノワール」日本美術院第7回展 出品作
c0239137_121741.jpg

 題名の「カスク ノワール」とは婦人の被っている黒い帽子のことのようだが、この絵は留学時代にパリで描かれたものであろうと思われる。

 1922(大正11)年1月、日本美術院の元洋画部会員が中心となって春陽会を組織する。主要メンバーは足立の他、梅原龍三郎、山本鼎、小杉未醒、岸田劉生、木村荘八、萬鉄五郎、中川一政などであった。
 足立源一郎は文筆家としても定評があり、その年の8月には、専門的に洋画を描こうとする人や研究者のために『人物画を描く人へ』を著しており、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ルーベンス、ドガなど巨匠の作品に加えて自身の作品をまじえて解説している。

◇伊太利の男[1915(大正4)年]『人物画を描く人へ』より(東京国立近代美術館 蔵)
c0239137_12261875.jpg

◇自画像[1916(大正5)年]『人物画を描く人へ』より
c0239137_1223962.jpg

 その一方で同じ頃、共著ではあるが、『古美術行脚 大和』を著しており、内容は大和地方にある東大寺や法隆寺などの仏像を中心とした文化財のガイドブックである。
 当初は洋画家の足立が何で?と思ったが、序文を読んでみると、当時の先駆的な役割を担って海外に留学した芸術家の意識が見てとれて興味深い。
c0239137_12311045.jpg

『古美術行脚 大和』 序 より(※抜粋)
 <明治末期以来とみに盛んになった泰西芸術の移植は、大戦の終結と共にさらに急激になった。~
 しかし果たして、セザンヌ、ルノアールを賛仰し、ロダン、マイヨールを崇敬することのみによって吾々の心は完全に充たされるであろうか。~ 新進国民としての発展にのみ喜悦し、何ら祖先の偉業を追慕する事なしに満足できるであろうか。
 彼等が常にその伝統を誇るごとくに、吾々も誇るべき多くの祖先の偉業と伝統を保有しているのである。ただ惜しい事には、維新以来既に日浅しとにはあらねど、軍国の事に急にして今日まで彼等のごとくに完備した美術館の設置を見る事なく、ために一般にせっかくの国粋に親しむ機会がなかったのである。
 大和が古美術の郷土であるとは皆人の知る所であって、奈良はさながらの一大美術館である。美術館に入って誠実な目録のないのは何よりも口惜しい事である。吾々奈良に在住する者さえも常に遺憾としておったのはそれであった。~
 古美術を鑑賞せんとする人々の便宜ともなるべくこの書を著すことになったのである。~
   大正十一年夏       奈良にて
                       著者>


 1923(大正12)年、再度ヨーロッパに向け出発した足立は、スイスのグリンデルワルドなどに入り山の絵を描きはじめる。1925(大正14)年帰国するが、この年の第3回春陽会展後に岸田劉生と梅原龍三郎が脱会するなど、春陽会での会員間のごたごたがあり、嫌気がさし、山への傾斜がより強くなる。

 足立源一郎がこの高畑の家に住んだのは1927(昭和2)年までで、翌年には中村義夫(画家、1889-1957)に譲り渡している。
 その後、ついには日本各地の山岳いたるところにその跡を残すことになり、1年の大半を北アルプスで過ごすようになる。

 旧足立邸の隣には「志賀直哉旧居」がある。
 志賀直哉はここで『暗夜行路』や『痴情』などの作品を執筆した。
 志賀を慕って武者小路実篤や小林秀雄、尾崎一雄、入江泰吉、亀井勝一郎、小林多喜二、桑原武夫ら白樺派の文人や画家・文化人がしばしば訪れ、文学論や芸術論などを語り合う一大文化サロンとなり、いつしか「高畑サロン」と呼ばれるようになった。
c0239137_12342481.jpg

 旧足立邸「登録有形文化財」説明板には先の文章に続いて
 <なお、この一帯には、明治初頭まで、春日大社の神官たちが、土塀で囲った屋敷に暮らしていました。当家の土塀も、そうした歴史を受け継ぐものです。>とあるが、なるほど周辺には土塀の家が今でも残っている。
c0239137_12352760.jpg

[PR]
by suzu02tadao | 2012-05-31 12:30 | Comments(0)

吉原治良 「図説」 -抽象美術運動のエポック-

c0239137_1331176.jpg

 先日の「吉原治良」展では展覧会図録がなかったので、絵ハガキを探していたら、古書店で第24回二科展出品作「図説」を見つけることができた。

 この作品は先日の展覧会には展示されていなかったものだが、調べてみると、吉原治良及び日本の抽象美術運動にとっては重要な作品だということが分かった。
 昭和9年に制作されたこの作品は、同年に二科展デビューを飾った吉原治良が、それまでのデ・キリコ風のスタイルから脱却して抽象絵画への転向を図って、昭和12年の第24回二科展で発表した中の一点である。

 下の写真は第24回二科展会場のもので、ちょうどこの「図説」が展示されている前にいるのが吉原治良(右)と長谷川三郎(左)である。
c0239137_13313189.jpg

 吉原治良が抽象絵画に転向した1937(昭和12)年は、戦前の抽象美術運動がひとつのエポックをなした年であり、長谷川三郎や村井正誠、山口薫らが中心となり抽象美術を標榜する「自由美術家協会」が結成された。
 また長谷川三郎は同年に日本ではじめての本格的な抽象美術の解説書『アブストラクト・アート』を著している。

長谷川三郎 「蝶の軌跡」 1937(昭和12)年
c0239137_1334576.jpg

 このような動きの中で吉原治良は、翌1938(昭和13)年には二科会の前衛画家らと「九室会」を結成する。
 「九室会」という名は、東京府美術館で開かれる二科展で前衛画家たちの作品が第九室に集められていたことに由来する。

 抽象美術運動は戦時中には中断を余儀なくされるが、終戦後、吉原治良は1954年に前衛的な美術を志向する「具体美術協会」を結成し、リーダーとなって国際的に活躍する。
 長谷川三郎は1950年にイサム・ノグチを日本に紹介するなど、日米の現代美術交流で活躍した後、サンフランシスコ美術大学客員教授として渡米し、各地で個展等を開催し制作活動も意欲的に行なったが、1957年、アメリカで客死する。
[PR]
by suzu02tadao | 2012-05-28 13:30 | Comments(0)

芦屋市立美術博物館

c0239137_1452735.jpg

 芦屋市立美術博物館で開催されている(終了間近!)「没後40年 吉原治良」展は、「具体美術協会」時代の作品をはじめ、「具体」結成以前の作品も一堂に介して、約50年におよぶ創作活動の精髄の展覧ということで、以前もここでとりあげた第35回二科展出品作の「少女と七羽の鳥」や、吉原治良が20~30代だった頃に制作された戦前の作品も多く展示されており、なかなか良かった。
 ただ、惜しむらくは展覧会図録がなかったことが残念でならない…。

 芦屋市立美術博物館の建物(1990年)は、坂倉建築研究所大阪事務所の設計ということで、大変モダンなものだが、ポスター(パンフ)の貼り方も建物にうまくマッチしていた。
c0239137_1474950.jpg

c0239137_1481273.jpg

c0239137_1484196.jpg

 敷地内には小出楢重の復元アトリエがあり、楢重の作品のモチーフとして登場する家具類やイーゼルなどの画材を展示して一般公開している。
c0239137_1410289.jpg

c0239137_14104568.jpg

 当時の写真と比べてみると、レイアウトやイーゼルの向き等は実際に制作をしていた時と展示とでは若干違っているようだ…。
c0239137_14114234.jpg

c0239137_14153480.jpg


 帰りの道すがら、「具体」の作品集や先日の「村山知義展」を観たせいか、人家の板壁も「作品」に見えてしまうのだった…。
c0239137_14194869.jpg

c0239137_1420619.jpg


 最寄の阪神芦屋駅近くの「芦屋警察署」も、モダン建築【1927(昭和2)年】です。
【参考】近代建築Watch 
c0239137_14263376.jpg

c0239137_1425353.jpg

[PR]
by suzu02tadao | 2012-05-24 14:25 | Comments(0)

東京電力下谷変電所

 上野駅~御徒町駅の間にあるアメ横の辺りを、例によってブラブラと目的もなく歩いていた時に偶然発見したのが「東京電力下谷変電所」だった。

【表側】
c0239137_10265398.jpg

c0239137_10294028.jpg

c0239137_10283415.jpg

 町歩きの楽しみは、なんと言っても散歩の途中で、その町の近代化や歴史の痕跡を発見することである。
 もちろん、ガイドブックや案内図などを頼りに目的のものを探索する楽しさというのもあるけれど…。が、しかし、やはりブラブラと歩きながら、偶然にそういったもの…思わず「何だ!これは!?」と言ってしまいたくなるようなものに遭遇した時の喜びに勝るものはない。
 この建物が「東京電力下谷変電所」だと分かったのも数日後のことだった。
 また、竣工年【1931(昭和6)年】以外は設計者などの詳細が分からないというのも気にいった。
 設計者はドイツ表現主義の影響を受けたような感じだが、いやみな造形もなくて、全体的なまとまりも良く、なかなかの実力者だと思える。

【裏側】
c0239137_1033894.jpg

c0239137_10354110.jpg

 こういった佳作が、ごちゃごちゃとした繁華街の中にさりげなく佇んでいるというのも、町の歴史の証と言えるのではなかろうか…。

 これだから、町歩きはやめられない…。


【追記】
 すぐ近くにはこんなものを売っている店もありましたヨ…。
c0239137_1037963.jpg

[PR]
by suzu02tadao | 2012-05-22 10:41 | Comments(0)

「平和記念東京博覧会」Part 2

◇平和記念東京博覧会パノラマ図
c0239137_1113864.jpg

 前回とりあげたこのパノラマ図には、【五姓田】サインが入っていたのだが、いろいろと調べてみると、二世・五姓田芳柳(ごせだ ほうりゅう、1864-1943)の作品であることが判明した。
c0239137_1122776.jpg

 二世芳柳は下総国(茨城県)の出身。1878(明治11)年に上京して、明治期を代表する洋画家のひとりである五姓田義松(初世芳柳の二男)や英国人画家ワーグマンに師事し、1885(明治18)年には、初世芳柳の養子となり二世芳柳を名乗った。1889(明治22)年に明治美術会の創立に参加。1900(明治33)年のパリの万国博には作品を出品した。さらに1910(明治43)年の日英博覧会の際は、渡英してジオラマ(背景画の前に立体模型を置く見せ物)を描くなど、洋画、日本画、またそれら諸技法を融合させた独自の画風を展開、幅広い分野の絵画を柔軟に手がけ、明治から昭和の画壇で活躍した。

 さて、平和記念東京博覧会について、前回には呼び物のひとつの堀口捨己が設計したパビリオンをとりあげたが、もうひとつ話題を呼んだのは、会場の一隅に設けられた、「文化村」と呼ばれる14棟のモデルハウスからなる住宅展示場だった。

◇文化村出品住宅
c0239137_116464.jpg

 平和博が開催されたこの年には本格的な郊外の洋風住宅街が東京の下落合と洗足に誕生しており、展示されたモデルハウスはそれら新興住宅街に建てられるべき、日本人の新しい生活様式を踏まえた住宅群の雛形、あるいはミニチュアモデルともいうべき役割りを果たし、その後に「文化住宅」と称されるイメージの源となったのだが、この辺のいきさつについては、『消えたモダン東京』(内田青蔵著)の中で詳しく説明されている。

 ところで、「文化村」は新生活の場として話題は呼んだものの、会期中に売れたのはわずか数戸という寂しい結果に終っており、平和博は全体的にみても興行的には失敗であった。
 『ランカイ屋一代(わが博覧会100年史)』(中川童二著)の中でも、「不景気平和博」として、当初は好評だった水上飛行機の滑走も、会期の終わりごろには入場者が少なくなり、<お客が行列をつくって待っているという光景は見られなくなり、プロペラの音が空しく池面に響いていた。>と記されている。

◇水上飛行機
c0239137_119630.jpg

 豪華な夜のイルミネーションも、1914(大正3)年の東京大正博覧会ほどの話題は呼ばなかったという…。
c0239137_11112098.jpg

c0239137_11114311.jpg

[PR]
by suzu02tadao | 2012-05-20 11:00 | Comments(0)

「平和記念東京博覧会」Part 1~ 堀口捨己

◇平和記念東京博覧会パノラマ図(部分)
c0239137_1340524.jpg

 平和記念東京博覧会は、1922(大正11)年(※関東大震災の前年)3月10日から7月20まで東京上野公園内で開催された博覧会で、第一次世界大戦後の平和を祈願して、文化性や娯楽性が盛り込まれたもので、戦前では最大の規模であり、期間中1100万人の入場者で賑わったという。
 
 このパノラマ図を手に入れたのは、もう20年近く前だが、購入した理由は、手前にあるパビリオンのデザインが見てのとおり大変モダンであったからで、大正時代、しかも関東大震災以前の日本に既にこういった建物(たとえパビリオンであっても)が存在したことに、ちょっとした驚きと共に好奇心を抱いたからだ。

 これらのパビリオンが、堀口捨己(ほりぐち すてみ、1895-1984)の作品(しかもデビュー作!)であることを私が知ったのは、ほんの数年前になってからだ…。
 堀口捨己は岐阜県に生まれ、東京帝国大学建築学科に進み、卒業を控えた1920(大正9)年、石本喜久治、瀧澤眞弓、森田慶一、山田守、矢田茂等の東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成する。

 <堀口にとって最初の仕事は平和記念東京博覧会のパビリオンの設計であった。上野の不忍池に面した第二会場の建物として中央に放物線状の屋根を持つ塔を中央に据え、両翼の一方に動力・機械館、もう一方に交通・航空館と林業・鉱山館などが実現した。放物線状の屋根や開口部などの分離派特有のモチーフや幾何学抽象的な形状で各建物の性格を差別化する表現が試みられている。>
分離派建築博物館--堀口捨己 -- より
【参考】分離派建築博物館・・・JAPANESE 1920'sARCHITECTURE・・・

◇動力・機械館
c0239137_1346023.jpg

c0239137_13462892.jpg

◇交通・航空館
c0239137_1348167.jpg

c0239137_13481981.jpg

◇林業・鉱山館
c0239137_1349118.jpg

 さて、ここにもう一人、堀口捨己のデビュー作ともいえるパビリオンに魅せられた人物が、同じ年に写真家としてデビューしている。
 戦前の写真界を代表する先駆者として、土門拳、森山大道をはじめ多くの写真家に影響を与えている安井仲治(やすい なかじ、1903-1942)である。

 <~安井が生まれた年の翌年、一九〇四年に創設された伝統を誇る浪華写真倶楽部に入会するのは一九二二年である。この年の浪展には、東京、上野公園で開催されて人気を集めていた平和記念東京博覧会の動力・機械館(設計 堀口捨己)を撮影した「分離派の建築と其周囲」を出品している。~実質的なデビュー作といえる作品に、このようなモダンな被写体を選んだところに、安井の時代に対する鋭敏な感覚を見ることができるだろう。>
『都市の視線(日本の写真 1920―30年代)』飯沢耕太郎著 より
◇安井仲治「分離派の建築と其周囲」

c0239137_13562261.jpg


 その後、堀口捨己は1923年渡欧してバウハウスやオランダのアムステルダム派の建築に直接触れ大きな刺激を受けた。翌年に帰国するとアムステルダム派と数奇屋建築を融合したようないくつかの小住宅を実現する。その代表例が現在、江戸東京たてもの園に移築保存されている小出邸(1925)である。

 <小出邸は帰国直後の設計でありオランダ建築の各派の影響をそのままひとつの住宅に集約した様子がうかがえる。外観は田園住宅的なアムステルダム派的で、内部はロッテルダム派的な抽象的な構成が室内造作に採りいれられている。>
分離派建築博物館--堀口捨己 -- より

◇小出邸(江戸東京たてもの園)
c0239137_1401999.jpg

c0239137_147391.jpg

【参考】http://www.bunkouken.com/b_koidetei.htm

 小出邸の2階の窓から見えているのは、隣の前川國男邸の屋根(下の写真)。
 私がこれらの写真を撮った頃には、堀口捨己にはあまり興味が無く、小出邸の室内写真はほとんど撮っていない。(… 前川邸の室内写真は結構あるのだが…。)
c0239137_147848.jpg

 堀口捨己については、後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図ったとされ、その作品も、大島測候所(1938/現存しない) や旧若狭邸 (1939)などのモダニズム建築がある一方で、八勝館 御幸の間(1950)のような数寄屋造りの傑作もあり、「和」と「洋」の問題を直視し自らの感性で建築のありかたの本質に迫ろうとする姿勢は戦前の分離派時代から生涯貫き通されたといわれている。
[PR]
by suzu02tadao | 2012-05-18 14:30 | Comments(0)

京都モダン漫歩<2>

c0239137_1317263.jpg

c0239137_13133875.jpg

c0239137_13135893.jpg

 以前、京都は近代化遺産の宝庫…と記したが、「村山知義の宇宙」展が開催されていた京都国立近代美術館【1986(昭和61)年】も、設計は代官山ヒルサイドテラスやスパイラル等を手掛けた槇文彦である。
 この近代美術館を疏水べりに東山・南禅寺の方に向かって歩いて行くと、「インクライン」【1890(明治23)年】がある。「インクライン」は琵琶湖疏水の大津からの舟運ルートの途中、水路落差のあるこの地に敷設された傾斜鉄道で、現在は使用されていないが、今も残る線路沿いの坂道には見事な桜並木があり、京都では定番のお花見スポットとして、多くの観光客で賑わうということだ…。
c0239137_1315797.jpg

c0239137_13195080.jpg

c0239137_13201110.jpg

c0239137_13203854.jpg

 『図説 アール・デコ建築』(吉田鋼市著)によると、昭和初期に建てられた鉄筋コンクリート造の建物で、表面にタイルやテラコッタを張ったり、モールディング等の装飾があるものは、みなアール・デコといってもそれほど間違いではないという。
 アール・デコ建築は日本全国津々浦々にあり、この本の中では、京都にある代表的な例として武田吾一設計の「1928 ビル(旧・毎日新聞京都支局)」が紹介されているが、このビルから歩いてすぐの「アスタルテ書房」に行く途中にある建物もアール・デコといっても間違いではないのだろう…。

◇「1928 ビル」『図説 アール・デコ建築』より
c0239137_13224865.jpg

c0239137_13253877.jpg

c0239137_13232583.jpg

[PR]
by suzu02tadao | 2012-05-16 13:20 | Comments(0)

「村山知義の宇宙」

【左】ベルリン留学前(1921年)、【右】(1923年6月)
白川昌生編『日本のダダ 1920~1970』より
c0239137_10181764.jpg

 「すべての僕が沸騰する―村山知義の宇宙―」展は、村山知義の多彩な活動の足跡をたどる回顧展ということで、たいへんに見応えのあるものだった。
 展覧会図録を見ているだけでも楽しいが、関連する資料をいろいろと取り出してきて、改めて眺めてみるのも楽しい…。
 展覧会及び図録でもふれているが、村山知義は当時のファッション・リーダーでもあり、そのおかっぱヘアや服装はまさに時代の先端を行っているものだった。

◇1925年当時の村山知義夫妻(1926年6月発行の『婦人公論』に掲載された写真と記事)
c0239137_10203745.jpg

夫婦同頭
 こんな例に、いやしくもわが新芸術運動の大家を借りてくる事は失礼かも知れないが、男と女とが形の上に於いて次第に接近してきつつある事を示すために村山知義、同籌子(かずこ)夫人の御夫婦を借りてくることにする。
 習慣で何とも思わないものの、今のように女が髪を結ったり男が髪を切ったりしたのもその初めは変なものだったに違いない。さすれば、男が長髪にし、女が断髪にするのも、今でこそ異様に見えるが今に不思議でも何でもない時代が来るのかも知れない。「変な恰好なものを頭に戴いていた時代もあったのね。」などと云って笑う時代がそれも近い内に来ないとも限らない。そういう時代が来れば、さしあたり今の丸髷などはさっそく珍奇博に出品されるはずのものだが、男女の区別を頭の形で見分け慣れている地方の人などは、未だに異様の思いをされることであろうと思う。
 どっちが男? どっちが女?―などと言って騒ぐほど、これなどは見分けのつかないこともないが、肩まで布団を被った寝姿などを想像したら、ちょっと戸惑いそうにも思う。―それに、今に性質までが変わってこないとも保証できないから、そうしたら、男も女も同じようなのが出来上がるような時が来るかも知れない。 


 モダンボーイ(モボ)とモダンガール(モガ)の出現には、その当時の文化の大衆化及び都市化といった現象が背景にあったという。

◇「モダンガールとモダンボーイ」細木原青起【1928(昭和3)年】より
男?女?モガは髭が欲しかろう?
      モボは乳房が欲しかろう?
おれ達の銀座だと言わんばかりに幅をきかして歩くモボとモガかな。

c0239137_10262127.jpg

◇「モガ子とモボ郎」田中比左良【1929(昭和4)年】より
c0239137_10283091.jpg

 さて、時代の最先端を行く前衛芸術家として出発した村山知義はその後、プロレタリア芸術運動として演劇活動を中心に活躍し、1957(昭和32)年4月に新劇代表団として中国を訪問しているが、雑誌『テアトロ』の9月号には「周恩来会談記」、10月号には「園遊会・潮劇・話劇」を掲載している。
 尚、この『テアトロ』の表紙の装丁は勅使河原蒼風である。
c0239137_10285970.jpg

[PR]
by suzu02tadao | 2012-05-11 10:35 | Comments(0)

終戦後の前衛<美のアヴァンギャルドの温床>

「第32回二科展(名古屋)目録」表紙【1947(昭和22)年】
c0239137_10333697.jpg

 この「第32回二科展目録」及び次の「第35回二科展解説」は、古本市ではなく、最近、ネットオークションで手に入れたもので、主にこの時代のクラシック・コンサートのパンフレットを数十種類一括で出品されていた中に紛れ込んでいたものだが、これがなかなかおもしろい。

 既にこの頃の二科会は東郷青児が中心となっており、表紙に使用されている絵も東郷青児のもの(青児サイン)になっている。
 内容は出品作品の他に会員名簿が載っており、その頃の会員には岡本太郎をはじめ当時の前衛芸術家の多くが名を連ねている。

 岡本太郎はこの年に「夜」という作品を出品しているが、翌年に結成された前衛芸術の研究会「夜の会」は、この作品にちなんで命名されたもので、岡本太郎の画業において重要な作品であることがうかがえる。
 ちなみに「夜の会」のメンバーは、岡本太郎のほかに花田清輝、埴谷雄高、野間宏、安部公房、佐々木基一、関根弘などであった。

 その他、絵画部でその後に国際的にも高い評価を受ける芸術家としては、前衛美術集団「具体美術協会」を1954年に結成する吉原治良、1950年に渡米してニューヨークを中心に活躍する岡田謙三、サンパウロ・ビエンナーレやヴェネツィア・ビエンナーレ等で日本代表として活躍する山口長男などがいる。

 彫刻部では、戦前に「アクション」や「三科造型美術協会」等で前衛美術運動を展開した浅野孟府がいる。浅野孟府は、同じく二科会の絵画部会員の鈴木信太郎高岡徳太郎(戦前には大阪高島屋でデザイナーとして活躍した)と共に1955年に一陽会を結成する。また、堀内正和はこの年に会員になっている。

 おもしろいと思うのは工芸部で、バウハウスに留学した山脇巌や後に前衛華道で活躍する勅使河原蒼風は分かるとして、千宗室千宗左が会員になっていることだ…。

 さて当時の二科会には、理論部がありその会員は、次の通りとなっている。
c0239137_10581442.jpg

 この中では、鈴木崧(たかし)はアンフォルメルの画家で、「アンフォルメル中川村美術館」には鈴木崧の作品のほか、鈴木崧の収集したアンフォルメル作品を展示しており、吉原治良の作品も展示しているようだ。
【参考】「アンフォルメル中川村美術館」

 山中散生(ちるう)は1929年に、北園克衛らが参加した前衛詩誌『CINE(シネ)』を主宰。フランスの超現実主義者のエリュアールやブルトンらと交流して、日本のシュルレアリスム運動を推進し国際的にも名が知られる。著作に「山中散生詩集」「シュルレアリスム 資料と回想」などがある。

 北園克衛植村鷹千代については次の「第35回二科展解説」【1950(昭和25)年】でふれてみたい。
c0239137_10532535.jpg

 「第35回二科展解説」では、主な会員作品及び入選作品についての解説と、第三十五周年記念展覧会ということで、植村鷹千代が「日本の近代美術と二科会の歴史」を載せている。
 会員作品の代表的なものについては図版も載っており、以下その一部を紹介する。
c0239137_1104289.jpg

c0239137_1105937.jpg

 <岡本太郎氏は最近一連の社会風刺的な作品をかいてゐるが、「森の掟」もまたそのカテゴリイに入るものである。内容の平易な提出は氏の作品の理解に役立ってゐる。>

c0239137_1125628.jpg

 <吉原治良氏の「少女と七羽の鳥」はシュルレアリストとしての氏の豊富な才能を遺憾なく示した快心の作であらう。>

c0239137_1145895.jpg

 <中原實氏の「神々の飜譯」は例によって一捻りした作品であるが、氏の透抜な手法は、ギリシャの神々を近代のサイエシフィックなイデのなかに把えて興味ふかい。>

 戦前から前衛美術の評論を中心に活躍していた植村鷹千代は、「日本の近代美術と二科会の歴史」の中で、
 <~現在の二科会は、同会を美のアヴァンギャルドの温床にしたいという信条を表明しているが、二科会の創業は、事実上、日本の美術の近代化の母胎としての役割を演じてきたのであるから、創業二科の精神をつぐには当然そうあらねばならない。>として、二科会創業時からの歴史の概要を述べた後、
 <二科が、典型的に美のアヴァンギャルドの温床であった創業期においては、二科の対近代美術、ならびに対美術界の態度は、はっきりと進歩的であり、しかも、決意的であった。したがって、これから、美のアヴァンギャルドの温床たろうとする現在の二科会が、この希望をほんとうに実現するためには、二科会の会員たちが協力して二科の進歩性を促進しなければならないのは当然である。そのことは二科会の歴史が、一番よく教えているところでもある。>と述べている。

 そして、ここで私が最も注目したのは、この「第35回二科展解説」の編集責任者が北園克衛であることだ。
c0239137_1183290.jpg

 この冊子では冒頭に「二科会趣旨」として次のように述べられている。
<~一貫した二科の伝統精神は、現代を認識する徹底性に於いて、一流一派式に会の方向を限定する態度を採らない。このことは、新しい価値の創造に向って不断の発展を期する本会の必然の信条であると共に、全会員に対する制作上の自由をあくまで擁護する所以である。
 流派の如何を問はず、新しい価値の創造者は抜擢され待遇されるであらう、かくて本会を新しい美の温床たらしめようとする努力は我々の不変不動の鉄則である。~>


 北園克衛が編集責任者として名前を記載しているということは、この「二科会趣旨」及び前述の作品の解説文は北園克衛のものであろうと思われる。
 北園克衛についてはモダニズム詩人、前衛詩人あるいはデザイナーとして評価が高いが、その代表作の機関誌「VOU」の出版は二科会会員の中原實の出資に拠っていたことを考えると、この当時の北園克衛のはたした役割というものについても興味深いものがある。
 さて、「第32回二科展目録」及び「第35回二科展解説」の装丁も北園克衛が手掛けているように思われるがどうであろうか?
[PR]
by suzu02tadao | 2012-05-07 11:30 | Comments(0)

京都モダン漫歩

c0239137_11192569.jpg

c0239137_11195117.jpg

c0239137_11203247.jpg

 昨日は、京都市勧業館「春の古書大即売会」に行ってきた。
 いつもとは違うルートで、神宮丸太町駅から疏水べりに沿って歩いたが、途中には夷川発電所【1914(大正3)年に建設され、現在も稼働中!】や、1924(大正13)年竣工の橋などがあり、京都は近代化遺産の宝庫であることを改めて実感させられた。
 「古書即売会」のほうは雨ということもあり、割と空いていてじっくりと見る事ができたためか、別に今ここで買わなくてもいいではないかと思いつつも、結局数冊の本を買ってしまった…。
 帰りは小雨の中、典型的なアール・デコ建築の元・立誠小学校【1928(昭和3)年】などを見ながら、ブラブラと四条通まで歩いた。
c0239137_1955988.jpg

c0239137_11232388.jpg

仏もまた塵、神は細部に宿る…?
c0239137_1124657.jpg

[PR]
by suzu02tadao | 2012-05-03 11:30 | Comments(0)