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<   2012年 06月 ( 8 )   > この月の画像一覧

夢の未来 「1969年」版

◇『2001年の日本』 加藤 秀俊・真鍋 博・朝日新聞社 共同編集
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 この本の発行は1969(昭和44)年の1月で、同年7月にはアポロ11号の宇宙飛行士アームストロングとオルドリンが人類として初めて月面に降り立っている。
 そのような時代だったから、宇宙への夢は限りなく広がり、2001年には月旅行は一般的になっているとされている。

◇宇宙旅行
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 <一九七〇年までに、米ソの人間宇宙船が月に到着し、月面に人間が足跡をのこすことができたあと、まるで将棋だおし的に、太陽系内の開発がすすんだ。
 ~西暦二千年。月には恒久的な月基地が開発されて、米ソそれぞれ独自な方法で補給と探検をおこなっている。
 ~西暦二千年を記念して、人気タレントを送りこみ、一大ショー、月ドラマを中継するプランも、やっと実現した。
 ~観光用の月旅行船が二十一世紀からスタートすることになった。
 ~月へゆく宇宙船の発着は、国際管理をうけているが、違反者がいて危険な月旅行をする。~特に一人乗りのロペットという、かんたんなロケットが製造されるようになって、拍車をかけた。若者の間では、ロペットで月をかすめて帰ってくる危険なスポーツが人気を呼び、宇宙カミナリ族と称してあばれまわるようになった。~>

 … と、表現は古くさいが、想像(妄想?)をふくらませている。

 この本の編集とイラストを手がけた真鍋博(まなべ ひろし、1932年7月3日 - 2000年10月31日)は、結局、21世紀を見ることなくこの世を去ったが、この本に描かれた予想がそのとうりになったかどうかは別として、自身の描く未来のイメージは、人と自然が共存する世界と語っていたとおり、多くのイラストは今でも楽しめるものになっている…。

◇遊園地
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◇カメラ
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◇流通機構
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◇電気
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 感心したのは、この本の「コンピュータ」の項で、既に、来るべき情報化社会を予測していたことだ。
 …やはり、スティーブ・ジョブスを生みだす土壌はあったのだった…。

◇コンピュータ
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  <~コンピュータによる情報ネットが、国の隅々まで張りめぐらされ、社会情報の共有が拡大した場合、個々人の社会行動は、“受動的”なものから、“能動的”なものへと、転換していく契機を与えられる。
 ~恐らく、今日、電話やラジオ、TVが、民衆のものになったと同じ状態で、コンピュータも、それに直結する送信・受信装置を、家庭に、職場に、散在させることになるだろう。~今日の情報手段(TV・電話・郵便・各種出版物など)の役割も、このコンピュータ・ネットと何らかの形で融合していくにちがいない。そして、国家的、世界的な情報網が、家庭の茶の間とも密着した形で、形成されることになる。>


 ただし、情報化社会…そして国際化社会を予測していたとしても、具体的にどこがどのように変わるのかまでは予測できない…。
 例えば、「遊園地」の項では、ディズニーランドやUSJのようなテーマパークの発想はないし、あるいは、日本のアニメ文化がここまで世界を席巻するなどということは予想もしていなかった…。

 しかしながら、この本の編集者のひとり、加藤秀俊氏も関わった、翌1970年開催の日本万国博覧会こそ、その後の日本の国際化に多大な影響を与えたようだ。
 「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、77ヵ国が参加し、未来都市の実験場となった会場は人種のるつぼと化し、至るところで国際交流の輪が広がった。
 「ケンタッキー・フライド・チキン」が初上陸したのも万博会場だったということで、その後、ハンバーガーやホットドッグなども登場し、日本の食生活の国際化も一気に進んだのだった。
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by suzu02tadao | 2012-06-28 15:30 | Comments(0)

夢の未来 「1956年」版

 1956(昭和31)年は太田道灌が江戸城を築いてから500年目ということで、この年の10月7日発行の「週刊読売」では、五百年祭記念 特集「大東京」の中で、未来の世界を紹介している。
 この年の6月には、「首都圏整備法」が施行されており、
-実現するアノ夢コノ夢-「首都圏整備法」の楽しい構想と題して、20年後の1975(昭和50)年の未来図が描かれている。

◇昭和50年の渋谷付近
 <国鉄、私鉄は地下にもぐり(絵の下の部分)地上にはレールなしの空中カー、地上数メートルの高速道路を時速120キロでハイヤーがすっ飛ぶ。広告はすべて中央の拡大テレビから放送される。ビルの屋上はヘリコプターの発着所だ。>
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◇昭和50年の東京・中野付近
 <左上方は住宅地とスポーツ・センター、中央やや上方の建物は煙突のない工場、右上辺が文教地区、右端中央緑地に囲まれたアパート群、その下の地下鉄と駅、屋根にはヘリコプターの発着場がある。>
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◇昭和50年の住宅内部
 <右壁の時計の隣りははめ込んだ天然色テレビ、その上のヨコ穴は暖房、その下のタテ穴は冷房装置、女の人が立っている台は移動流し、足のペダルをふむと温・冷水が出る。坊やが掛けているのはテレビ電話。>
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 東京は、第二次世界大戦で壊滅的な被害を受け、がれきの山と化した。その後、経済の復興に伴い、東京を中心とする首都圏への人口、産業の集中は著しいものとなった。このため、市街地の無秩序な拡大、居住環境の悪化、交通混雑、公共施設の不足、住宅不足などの過密・過大都市の弊害が深刻化しつつあった。
 こういった問題に対処するために、1956(昭和31)年に制定されたのが「首都圏整備法」であったのだが、やはり、ここにある未来図は、夢というよりは、現状の問題解決といった意味合いが強く、記事の中でも次のように述べられている。
 <~将来の大東京を、少なくとも現状のような無秩序のまま放っておくことは絶対にできないから。
 最近来日したフランスの建築家ル・コルビジェ氏は東京を評してこういった。
 「現代日本の混乱が、そのまま東京に集中されている」~>

 ※ル・コルビジェ(1887-1965)は前年の秋に来日している。

 この特集記事には、当時の東京の写真も載っており、ある意味ではこちらの方が興味深い…。

◇今の東京ビッグサイトの辺りから見た東京港~正面岸壁は竹下桟橋、黒い森は浜離宮、はるかに国会議事堂、そして右手に微かに日本テレビの電波塔が見える。
 ※この時点ではまだ東京タワーはできていない。
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◇浅草六区
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参考:「永井荷風」【浅草にて】(1956年)角川写真文庫より
 ※永井荷風(1879-1959)もまだ健在で、浅草の町を徘徊していた。
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参考:「東京文学散歩(下町篇)」【日本橋】(1955年)角川写真文庫より
 ※首都高もまだできていない…。
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by suzu02tadao | 2012-06-25 16:50 | Comments(0)

夢の未来 「1931年」版

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 1931(昭和6)年10月1日発行、少女倶楽部十月号附録「最新科学博物館」では、この当時の最新科学技術を駆使した最新鋭の交通手段である汽車・電車、自動車、豪華客船、飛行船・飛行機などと共に、予想される未来の世界を紹介している。
  「未来の都会」ということで、ちょうど、この1931年は、エンパイア・ステート・ビルが竣工した年でもあり、既にニューヨークでは高層ビルが建ち並んでおり、未来の都市もニューヨークと同じようになるだろうと予想しています。
 <~しかしこれから後は、世界中のどの都会も、段々高くなって行くばかりでせう。かうして建物が高くなりますと電車や汽車は谷底のやうな道の上から姿を消して、地下線と高架線にかはる筈です。そして道路には歩く人と自動車のみが残り、又ビルデングの屋上からは飛行機も飛び出したり、降りたりするやうになるでせう。>

◇テレビジョンの時代
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 <~たとえば、宝塚少女歌劇団のレビューが阪神宝塚劇場の舞台でやってゐるのが日本全国到るところで今日のラヂオ同様見物する事が出来ます。もうその時代も決して遠くありますまい。>
 … と予想しており、その後の歴史をみるとまことに的確な判断をしていることがわかります。

◇ロボットとロケット
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 <今日の科学の力で我々が実行するのに一番むづかしいものは、我々と少しも変わりない機械で働く人間を造ることと、今一つは我々の地球から空に輝くお星様のところへ旅行する、この二つの事であります。~>
 … とありますが、まさにロボットとロケットの開発は、現代においても、夢の未来社会へ向けての最重要テーマです。
 しかしながら、そのようなロボットが交通整理をしているというのも、当時のレトロ・モダンな様子を表わしているようで、微笑ましさを感じさせてくれます。ちなみに、この当時は、信号機のことを「ゴー・ストップ」と、ちょっとお洒落に言っていたようです…。

◇漫画「未来の世界」より(部分)
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◇漫画「未来の世界」より(部分)
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 ここに表現されている未来の世界は、今日でも最新鋭の技術と、当時のいまだ田園的な生活風習とが奇妙に混ざり合い、牧歌的ともいえる雰囲気を醸し出していますが、現在、最大の課題であるエコの要素も盛り込まれており、あんがい本来の意味での「夢の未来」の姿なのかもしれません。
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by suzu02tadao | 2012-06-21 14:45 | Comments(0)

『嗜好』

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 明治屋のPR誌『嗜好』1930(昭和5)年4月15日発行(第23巻、第4号)。

 この号では、「コーヒの話」と題して、コーヒーについての特集をしており、表紙もそれをテーマにしたデザインのようで、【SAB.】サインがあるので、誰だろうと思ったら、これが何と…宮本三郎だった。
 宮本三郎(1905-1974)はこれより少し前、1927(昭和2)年に二科展に初入選しており、また3年後の1933(昭和8)年には、東京朝日新聞連載の小説「三家庭」(菊池寛)へ挿絵を描き、その類まれな描写力を活かした画風で、その後に活躍する。この表紙はそれとはまた別の表現で、なかなか洒落たものになっている。

【参考】小説「三家庭」(菊池寛)挿絵より
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 さて、この号の「コーヒの話」のカットは<まさを画>となっており、これもなかなか洒落ているが、どちらかというと「ヘタウマ」の画風で、美人画の「加藤まさを」ではないようだ…。
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 PRページには、明治屋の主要店舗のショーウインドーが掲載されていて、当時の様子が偲ばれる。
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 明治屋のPR誌『嗜好』は1908(明治41)年に創刊され、2008(平成20)年に百年を区切りに、いったん休刊しているが、1958(昭和33)年6月1日発行の『嗜好』では、ちょうど400号ということで、巻頭で創刊当時の様子を紹介している。

◇『嗜好』1958(昭和33)年6月1日発行(第400号)
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 <本号をもちまして、『嗜好』も四百号を重ねました。創刊は明治四十一年四月ですから、今から数えてちょうど五十年です。これを機会に、この小さなPR雑誌のたどった足跡をたどるために、紙面を割くことをお許し下さい。
 明治十八年、横浜で創業した明治屋は、四十一年頃には既に基礎もすっかり固まり、東京、大阪、神戸、門司、それから当時まだ日韓併合前の京城にまで店をもち、発展の一途をたどっていました。
 しかし、なんといってもそのころは、明治屋の取扱っていたハイカラな食料品、洋酒の類はごく限られた需要しかありませんでした。一手販売をしていたキリンビールにしてからが、まだ大衆の酒とは申されない時代でした。啓蒙宣伝、即ちPRの必要度は今日の比ではなかったと思われます。~>


 さらには、創刊号表紙及び歴代の表紙も紹介している。

『嗜好』創刊号表紙 (明治41年4月)
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【左】(昭和15年3月)、【中】(昭和2年6月)、【右】 (大正4年7月)
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◇明治屋本社(京橋ストアー)【1933(昭和8)年3月竣工】
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by suzu02tadao | 2012-06-16 22:30 | Comments(0)

モダンガールの旅 「汽車の旅」編

◇展望車 「汽車の旅」(鉄道省)絵ハガキより
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◇食堂車 「汽車の旅」(鉄道省)絵ハガキより
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 この「汽車の旅」絵ハガキは1935(昭和10)年頃のもののようですが、この当時の展望車や食堂車はご覧のような、1・2等車(現・グリーン車)であることが多かったようです。また、このような食堂車の場合はセレブな旅客の利用が前提であったため、洋食専門のいわゆる「洋食堂車」がほとんどだったといいます。
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 絵ハガキは全部で5枚セットで、他には「奈良ホテル」、「上野駅」、「青函連絡船」となっています。

◇奈良ホテル 「汽車の旅」(鉄道省)絵ハガキより
<鉄道省の直営に係り奈良朝時代の建築に則った総檜の二層楼で宿泊は欧式、米式併用である。>と解説されています。
 ちなみに、1909(明治42)年10月に竣工、営業開始しており、建物の設計は辰野金吾と片岡安です。
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◇上野駅 「汽車の旅」(鉄道省)絵ハガキより
1932(昭和7)年4月2日に落成、同月5日より営業を開始した。
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◇青函連絡船 「汽車の旅」(鉄道省)絵ハガキより
1908(明治41)年)3月7日 、運航を開始。1988(昭和63)年3月13日、青函トンネルの開通に伴い、同日をもって廃止された。
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by suzu02tadao | 2012-06-13 21:30 | Comments(0)

モダンガールの旅 「熱海」編

◇熱海海岸「玉乃井旅館」ダイレクトメール(部分)
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 タイトルは「海水浴と温泉・熱海」となっており、文面は挨拶文に続いて…
 <~海山の懐しい頃となりましてそれぞれ御避暑の御計画も御有りの事と存じますが夏の熱海は涼風太平洋の海原より吹き大変涼しう御座います水清く波も静かに遠浅にて砂浜も広く - 魚釣り舟遊びボート波乗り砂遊びなぞ至極理想的の海水浴場で御座います、特に弊館は庭続きに海に接しておりますので海水着のまま直ちに砂浜に出られます。~>
となっています。

 このダイレクトメールは、全体がアール・デコ調のモダンなデザインで、とてもお洒落なものです…。消印の日付は昭和6年7月26日となっています。 
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 この当時の熱海は首都圏からの保養客が押し寄せ一大保養地になっていました。

 田中比左良の漫画「モガ子とモボ郎」【1929(昭和4)年】では、銀座で落ち合い、意気投合したモダンガールの「モガ子」さんとモダンボーイの「モボ郎」クンの二人が出かける行き先が熱海になっています。
 時代の最先端を行くアバンギャルドな「モガ子」さんは水着で温泉に入った後、そのまま浴室の窓から海に飛込み、脱いだ水着を「モボ郎」クンに投げて渡すというシーンがあります。
 二人の宿泊先は、「玉乃井旅館」だったのでしょうか?
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 昭和10年頃でしょうか?「玉乃井旅館」の絵ハガキです。ここにもモダンガールが登場しています。
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◇客室より魚見崎を望む 「玉乃井旅館」絵ハガキより
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 かつては新婚旅行や職場旅行などの定番となって大型ホテル・旅館が数多ひしめいていた熱海も、その後は斜陽化したものも多く、「玉乃井旅館」のあった場所も今では更地になっているということです。
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by suzu02tadao | 2012-06-09 11:30 | Comments(0)

モダンガールの旅 「琵琶湖」編

◇「名勝の近江へ」表紙(デザイン:河野鷹思)
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 今では当たり前に使われる「観光旅行」という言葉は、「余暇活動としての娯楽的な旅」を意味するtourismの訳語として、デモクラシーの大きなうねりと共に、観光への関心が高まった大正時代になってから一般的になったという。
 そのような時代の流れの中で登場した最新のライフスタイルを享受するモダンガールの姿は、旅行ガイドやパンフレットの恰好のイメージモデルであったのだろう。

 当時、誰もがあこがれたコンパクト・カメラを構えるモダンガールが表紙の「名勝の近江へ」(昭和10年頃?)の中で琵琶湖は次のように紹介されている。

麗湖琵琶
 これは日本人にとってあこがれの湖です。こんなにも大きな、こんなにも美しい湖がどこにありましょう。山の富士に対して、湖の琵琶は、秀麗そのものであります。この湖をめぐって、史跡と名勝は点在し、近畿観光地の中心となっております。

 そして…
 ~豪華な近代船で湖上のハイキングをすることもできます。一周船は浜大津港から出航します。そして湖上の島々をめぐります。

湖上の島々をめぐる、「島めぐり」の内容は「太湖汽船」(現・琵琶湖汽船)のパンフレットに詳しい。
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びわ湖の帝王「京阪丸」による「島めぐり」

 世界の公園麗湖琵琶の雄大壮麗な風光、名高い竹生島の崇厳さ等はこの一日の「島めぐり」によって心ゆくまで味わえます。

◆就航期間:三月十五日より十月三十一日まで毎日
        (以後、十一月二十三日までの日曜祭日 出航)

◆発着時間:大津 午前十時出航
          同  午後五時半帰着

◆上陸地:竹生島(五〇分)、長命寺(六〇分)
       (七、八月は近江舞子にも寄港)

◆運賃: 大津より、二円三〇銭(普等)
            三円五〇銭(特等)


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ここではモダンボーイも登場…。まるでハリウッド映画の1シーンのようですね…。
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by suzu02tadao | 2012-06-07 19:40 | Comments(0)

モダン・伊勢名所

◇伊勢名所之図 1917(大正6)年4月5日発行
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◇伊勢名所史料 1937(昭和12)年8月25日発行(部分)
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 伊勢神宮といえば、堀口捨己や丹下健三をはじめ日本を代表するモダニズムの建築家によって、日本建築の原型であるとの主張がなされ、「日本人の魂」の原風景とも言われてきたが、この「伊勢名所之図」と「伊勢名所史料」を見ると、それとはまた別の意味で、伊勢は近代化遺産の宝庫であることが分かる。
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 江戸時代より、庶民の間で伊勢神宮参詣は盛んであったため、1897(明治30)年には、参詣客を見込んで山田(現:伊勢市)まで鉄道が開通し、伊勢神宮への参詣路線として戦前は幹線同等に扱われ、東京や大阪などからの直通参詣列車が運転されていたという。
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 路面電車も、1903(明治36)年に運行を開始しており(東京都電より17日、大阪市電より1か月早い開業で、日本では7番目!)、ターミナル駅から伊勢神宮・二見浦へ向かう観光・参詣客輸送の役割を果たしていた。その後、1961年1月、バスに転換して全廃となった。
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 宇治山田郵便局【1909(明治42)年】は、明治期に建てられた唯一現存する木造の普通郵便局舎ということで、重要文化財に指定されており、現在は愛知県犬山市にある明治村に移築保存されている。
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 徴古館【1909(明治42)年】の設計者は赤坂離宮(現・迎賓館/国宝)や東京・奈良などの国立博物館(重要文化財)を手がけた当時の第一人者、片山東熊(1854-1917)。(※木造建築の農業館(重要文化財)も片山東熊の設計)
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 徴古館は1945(昭和20)年に戦火をうけ、建物と収蔵品の大部分を焼失したが、1953(昭和28)年、式年遷宮を記念して、建物は外部の花崗煉瓦石積の壁面はそのまま、二階建に改装され、重要文化財に指定されている。
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 1925(大正14)年には、標高555メートルの朝熊(あさま)山頂上にある金剛證寺への参詣客輸送のために朝熊登山鉄道(ケーブルカー、平岩 - 朝熊山間)が開業した。
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 「伊勢に参らば朝熊を駆けよ 朝熊駆けねば片参宮」と言われ、神宮へ参詣すると必ず金剛證寺へ参詣したため、鉄道開通の翌年には、年間52万人が登山鉄道に乗ったという記録があるという。
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 1944(昭和19)年1月10日、太平洋戦争の激化と共に、登山鉄道の運転は休止となり、同年8月にはケーブルカーの線路が軍用のため金属供出により徴収され廃線となった。
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by suzu02tadao | 2012-06-03 17:00 | Comments(0)