1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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<   2012年 07月 ( 10 )   > この月の画像一覧

『停車場の趣味』 岡本綺堂

 駅のことを「停車場」と云わなくなって久しい。
 私なぞは、その昔の石橋正次のヒット曲「夜明けの停車場」がなつかしく思い出される…まさに「停車場」は昭和とともに過ぎ去っていった言葉なのかもしれない。

◇品川駅(明治30年代)
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 岡本綺堂といえば、その歯切れのよい江戸ことばの語り口が魅力の『半七捕物帳』が代表作ということで、「江戸」のイメージが強いが、『半七捕物帳』が書かれたのは、1917(大正6)年から1936(昭和11)年で、まさに近代化の渦中であり、綺堂の随筆を読めば、明治の終わりから関東大震災を経て、移りかわる東京の町の様子がよくわかる。1926(大正15)年に発表された『停車場の趣味』はそんな中でも私が好きなものの一つである。
 まあ、『半七捕物帳』自体も、『シャーロック・ホームズ』という近代探偵小説が元になっており、モダン文学と言えなくもないのだが…。

以下、『停車場の趣味』抜粋…

 <これは果して趣味というべきものかどうだか判らないが、とにかくわたしは汽車の停車場というものに就て頗(すこぶ)る興味を有っている。汽車旅行をして駅々の停車場に到着したときに、車窓からその停車場をながめる。それが頗る面白い。尊い寺は門から知れるというが、ある意味に於て停車場は土地その物の象徴といってよい。
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 そんな理窟はしばらく措(お)いて、停車場として最もわたしの興味をひくのは、小さい停車場か大きい停車場かの二つであって、どちら付かずの中ぐらいの停車場はあまり面白くない。殊に面白いのは、一(ひと)列車に二、三人か五、六人ぐらいしか乗降りのないような、寂しい地方の小さい停車場である。~>

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 <夏から秋にかけては、こういう停車場には大きい百日紅(さるすべり)や大きい桐や柳などが眼につくことがある。真紅に咲いた百日紅のかげに小さい休み茶屋の見えるのもある。芒(すすき)の乱れているのもコスモスの繁っているのも、停車場というものを中心にして皆それぞれの画趣を作っている。駅の附近に草原や畑などが続いていて、停車している汽車の窓にも虫の声々が近く流れ込んで来ることもある。東海道五十三次をかいた広重が今生きていたらば、こうした駅々の停車場の姿を一々写生して、おそらく好個の風景画を作り出すであろう。>
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 <大きい停車場は車窓から眺めるよりも、自分が構内の人となった方がよい。勿論、そこには地方の小停車場に見るような詩趣も画趣も見出せないのであるが、なんとなく一種の雄大な感が湧く。そうしてそこには単なる混雑以外に一種の活気が見出される。~>
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 <~わたしは麹町(こうじまち)に長く住んでいるので、秋の宵などには散歩ながら四谷の停車場へ出て行く。この停車場は大でもなく小でもなく、わたしにはあまり面白くない中位のところであるが、それでも汽車の出たあとの静かな気分を味わうことが出来る。堤の松の大樹の上に冴えた月のかかっている夜などは殊によい。若いときは格別、近年は甚だ出不精になって、旅行する機会もだんだんに少くなったが、停車場という乾燥無味のような言葉も、わたしの耳にはなつかしく聞えるのである。>

◇東京市街図(大正14年)部分
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by suzu02tadao | 2012-07-28 16:50 | Comments(0)

敦賀にて -夏紀行-

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 敦賀は古代より日本海側の玄関口として港湾を中心に栄え、北陸道と畿内を結ぶ位置から交通の要衝とされ、かつては、シベリア鉄道に接続するウラジオストク航路の日本側の入口となっていた。
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by suzu02tadao | 2012-07-26 10:37 | Comments(0)

藤沢桓夫と「大阪」

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 もうすぐ「天神祭」だからという訳でもないのだけれど…、引続き大阪…そして大阪を代表する小説家の藤沢桓夫(ふじさわ たけお、1904 - 1989)についてふれてみたい。

 上図の『大阪手帖』【1946(昭和21)年刊】の装丁は吉原治良ということで、ちょっと意外で…藤沢桓夫と接点があったことが嬉しく思えたのだが、戦前からこの時代にかけては、藤沢桓夫をはじめ、画家と密接な交流があった小説家は多く、この本の「わが交友録」の中で、画家では田村孝之介(1903 - 1986)を紹介している.
 後には、田村と共著の『大阪 我がふるさとの』を著しており、こちらでは『大阪手帖』で発表したものを再載した随筆もあるのだが、同じ大阪出身ということで大変にうまが合ったようで、『淡雪日記』の装丁や朝日新聞に連載し大評判となった『新雪』の挿絵を田村孝之介が担当している。

◇田村孝之介:画 「道頓堀」(『大阪 我がふるさとの』)より
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 そして、藤沢桓夫にとっては、学生時代の同人誌「辻馬車」の表紙を手がけた小出楢重との交流が一番忘れられないものだったようだ。(※田村孝之介は信濃橋洋画研究所で小出楢重に学んでいる。)

 私が藤沢桓夫にハマるきっかけとなったのは『大阪自叙伝』だが、私は小出楢重の絵「市街風景」(中之島風景)が表紙になっている中公文庫版のほうが好きだ。それは、この本の「大阪文化と中之島」に次のようなくだりがあるからだ。

 <大阪が生んだ天才洋画家、小出楢重が好んで描いた中之島風景の画面でも、裁判所その他の青銅の円屋根は不滅の美しさを観る者の心にしみこませる。あの文明開化調の蒼古美を後世につたえるためにも、中之島風景は、破壊するなどもっての他、府市民によって保護され、生きつづけて行くべきである。
 ≪追記≫ 私がこの文章のこのあたりを書いたのは、昭和四十七年の暮れ頃だったと思うが、中之島の裁判所の建物は、直後の四十八年に取り壊されたと聞く。地下の小出楢重がこのことを知ったら、きっと、「無茶しよるな」と眉を寄せるに違いあるまい。>

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 余談だが、小出楢重をはじめ鍋井克之、足立源一郎など大阪出身の画家には文章のほうでも筆がたつ人が多かったのも事実である。

 ところで、私が本当に藤沢桓夫にハマったのは以前に東京にいた時だった。
 東京古書会館で『傷だらけの歌』【1947(昭和22)年刊】を見つけて購入した後、さわりだけ読んだだけで放っておいたのだったが、大分経ってからのある日、池袋界隈を探索しようと思って、『池袋モンパルナス』(宇佐美承著)を読みなおしていたら、唐突に『ローザになれなかった女』のことが出てきたのだった。そこで、改めて『傷だらけの歌』を読んでからは、藤沢桓夫に対する認識も深まったのだった。神保町の東京堂書店で『回想の大阪文学』(なにわ塾叢書)を購入したのもこの頃だった。(※本当に神保町はスゴイ所ですね…)
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 ここで、話は少し飛ぶが、『モダン・シティふたたび』(海野弘著)の中で、大阪出身でフランスで活躍したグラフィックデザイナー、里見宗次(さとみ むねつぐ;ムネ・サトミ、1904 - 1996)についてふれているが、里見は今宮中学校で藤沢桓夫と同学年だったはずであり、また里見がパリに留学したのは、小出楢重の勧めであったことを考えると、お互いに全く知らなかったはずはないともいえるが、藤沢桓夫の著書(回想録)の中には里見の名前は出てこない…。

 それにしても、藤沢桓夫の著書のタイトルには「大阪」が付くものが多い。
 ここで取りあげた以外にも、『大阪の話』、『大阪物語集』、『大阪千一夜』、『大阪五人娘』、『大阪八景』、『新・大阪物語』、『私の大阪』など…。
 そして、『大阪 我がふるさとの』の「あとがき」では次のように語っている。
 <私は、大阪で生まれ、大阪で育ち、現在も大阪に住んでいる。大阪以外の土地で暮らしたのは、東京での学生生活の前後の数年間だけだ。三十歳以後はずっと大阪を離れたことがない。そして、もう少し具体的に言うと、私は、明治の大阪に生れ、大正の大阪で育ち、昭和の大阪を生きて来たことになる。~>
 まさに、藤沢桓夫はミスター・モダン大阪そのものである。

◇田村孝之介:画 「夏祭の思い出」(『大阪 我がふるさとの』)より
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by suzu02tadao | 2012-07-23 16:20 | Comments(0)

富田屋八千代

◇山田伸吉:画 「富田屋八千代」(『道頓堀物語』三田純市著)より
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 船場~中之島のモダン建築巡りをした後、少し北に歩いて天神橋の古書即売会をのぞいた。
 そこで、上図の挿絵に惹かれて買ったのが『道頓堀物語―小説上方芸人譜』(三田純市著)で、この本の装丁及び挿絵は(やはり!)山田伸吉であった。
 なお、山田伸吉については、絵は独学で学んだとされているが、この挿絵などをみると、美術学校には通わなかったにせよ、しっかりとした絵画の基礎(デッサン)は学んだと思われる。そうでないと、ここに在る奥行は表現できないはずである。
 ところで以前、山田伸吉と同じ絵の系統と書いた画家の木村荘八(1893 - 1958)が、その著書『現代風俗帖』の「美人変遷史」で、富田屋八千代(とんだや やちよ、1887 - 1924)をとりあげている。
 この『現代風俗帖』には『濹東綺譚』の挿絵のいきさつや、「モダンといふこと」の考察などが載っていて興味は尽きないのだが、それらについてはまた機会を改めるとして、私は何故か、この『現代風俗帖』を2冊持っており、というのも、木村荘八は同じ頃、『東京今昔帖』など似たような内容のものを著していて、既に所有しているかどうかあいまいだったため、値段の安さもあって、購入してしまったのだった…。
 ところが、この2冊、「再版:昭和27年3月25日発行」と「三版:昭和27年4月20日発行」とでは、富田屋八千代の写真が下図のとおり違っているのだった。

「再版:昭和27年3月25日発行」
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「三版:昭和27年4月20日発行」
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 最初は、再版の写真が間違っていたので、差し替えたのだろうと思ったのだが…、おそらく再版のものはブロマイド写真であって、実際のところはこんなお茶の入れ方はしない筈で、内容にふさわしくないと判断したためであろうと思われる。

 以下、「美人変遷史」の内容は次のようなものだ…
<~又「美人」は云ふ迄もなく「顔」の問題だけでなく挙措風姿全体の問題だと思ふので――昔阪地で富田屋八千代(第一図)がモンダイだった頃に、或る人が語って、或る旗亭で八千代に逢ったさうだ。八千代は静かに合ひのからかみを開けて、一座の案内へ入って来ると、その襖の開け閉てのところで、畳半畳とは動かない居周りの挙措動作に決まり決まりが〆まって、精彩奕々とし、「これは美人だなア」と、その人は思った、と、話した。その人はその時まだ「顔」はろくに見なかったさうである。>
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 一方の『道頓堀物語』では、八千代がまだ見習いとして本名のミキ(美記)と呼ばれていた頃、後の姉芸者豆千代と銭湯で出会った時のこんな場面が出てくる。
 <「ごめんやす…」
 誰にともなく口にする挨拶に、えもいわれぬ愛嬌がある。ミキが思わず見惚れたのは、豆千代の着物の脱ぎ方だった。ミキが養母のタマから教わったとおり、ということは、結局ミキとたいして違わない手順で着物を脱ぐのだが、その様子(さま)がまるで違うことにミキは気がついた。ハラリ、まるで牡丹の花弁が落ちるように、豆千代は着物ごと脱衣籠の傍に蹲み、蹲んだかと見ると、ふうわり手拭を前に当て片手に金盥を抱えた裸身が立上がる。まるで一分の狂いもない名人の舞を見るような鮮やかさである。>

 こういった経験を経る中で、芸事や立居振舞を身につけてゆき、日本三名妓の一人と云われた富田屋八千代ができ上がったのであろう。
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  さて、富田屋八千代といえば、様々な逸話が伝えられていて、エピソードには事欠かないが、なんといっても当時無名であった日本画家の菅楯彦(1878 - 1968)との結婚は、世間を驚かせ、また大変に話題になったという。
 私が菅楯彦の作品を初めて観たのは、5年程前に「湯木美術館」であったと思う。
 その作品は軽妙洒脱な趣をもつ大和絵風の風俗画といったもので、「湯木美術館」のような小美術館にはピッタリで、挿絵にも適したものだが、そういった作品の特長は山田伸吉にも、また木村荘八にも当てはまる。
 ところで、菅楯彦は大阪の名誉市民第一号だったにもかかわらず、没後に遺族が作品を一括寄贈しようとしたところ、大阪市に拒絶されたということだ…。 と、前回に続いてまた大阪の悪口を書くはめになってしまった…。

 最後は、楯彦・八千代夫婦とも、また木村荘八とも交流のあった吉井勇の歌で閉めることにする。
 これらは、『随筆大阪』錦城出版社(昭和18年刊)の中で、「浪華抄」と題して、吉井勇が既出の<浪華をうたへる歌の中より、今なほ心に残れるもののみを>選んだ中からの2首である。

 
 筆取りて達磨大師の絵を描きぬ八千代が春の夜のたはむれ
 いまの世に在るべく惜しき絵だくみは浪速にひとり菅の楯彦

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by suzu02tadao | 2012-07-19 15:45 | Comments(0)

陽気過ぎる大阪

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 1920年代のモダン大阪を探訪する『モダン・シティふたたび』(海野弘著)では、北尾鐐之助の『近代大阪』をはじめ、織田作之助、藤沢桓夫、宇野浩二などの当時の大阪を題材にした作品からの引用が多いが、画家でありながらも、谷崎潤一郎をして座談の名手と感嘆せしめた小出楢重の随筆からの引用も多い。

◇小出楢重「帽子をかぶった自画像」
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 小出楢重が生まれ育った島之内及び船場には、1920年代にはまだ伝統的な和風の商家が多く、実際に楢重が住んでいたのも和風の住宅で、かつて日本画家・北野恒富の住居だったという。
 このような中で、大阪にモダニズムはあるかと問いつづけ、まさに格闘しながら絵を描いたのであった。
 1921年にフランスに行ってから、楢重は生活様式を和風から洋風に一変させた。
 代表作のひとつであるこの「帽子をかぶった自画像」の背広姿は、そのような画家の立脚点を求めようとする決意の表明であったという。

 しかしながら、当時はそんな洋画を飾るべき空間もまだあらわれておらず、そこでまた楢重は悩むのであった。
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 今日からみれば、様式のごった煮のような建物も、モダニズムとの格闘の結果であり、また新しい時代へ踏み出すための啓蒙の現場でもあった。
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 『モダン・シティふたたび』の中でもふれているが、楢重は、モダン文化の特質を、毎年新しいものを求めて古いものを捨てていくものであるという。
 しかしながら、年輪によって磨かれて出てくるつやや、さびのようなもの…それを「新しき雅味」と呼び、
 <巴里(パリ)なぞにはこの新らしき雅味が至る処に存在する。それが巴里の羨やましい処で仏像を洗い落したような尖端は発祥しない。それが芸術家をして巴里の生活を憧れしめる重大な原因の一つでもあるといっていいかも知れない。>
と書いている。
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 楢重自身もモダン建築を見て歩くのが好きだったようだが、「西洋館漫歩」(『めでたき風景』)の中で、次のように書いており、私はとても共感してしまう。
 <近来大阪の都市風景は日々に改まりつつあり、新しき時代の構図を私は中之島を中心として、現れつつあるのを喜ぶけれども、同時に古き大阪のなつかしき情景が消滅してしまうのを惜むものである。
 私は本当の都市の美しさというものは汚いものを取り捨て、定規で予定通りに新しく造り上げた処にあるものでなく、幾代も幾代もの人間の心と力と必要とが重なり重なって、古きものの上に新しきものが積み重ねられて行く処に新開地ではない処の落着きとさびがある処の、すくい切れない味ある都市の美しさが現れて行くのだと思っている。
 私はそんな町を眺めながら味わいながら散歩するのが好きだ。>

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 <ところが学術、文芸、芸術とかいう類の多少憂鬱な仕事をやろうとするものにとっては、大阪はあまりに周囲がのんきすぎ、明る過ぎ、簡単であり、陽気過ぎるようでもある。簡単にいえば、気が散って勉強が出来ないのだ。>
「陽気過ぎる大阪」(『大切な雰囲気』)

◇小出楢重「六月の郊外風景」
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 結局、小出楢重は1926年に、当時まだ漁村であった面影を残す芦屋に、洋風の本格的なアトリエを建て、移住してしまうのであった。
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by suzu02tadao | 2012-07-17 14:30 | Comments(0)

船場モダン漫歩

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 前回も少しふれたように、多くのモダン建築が、大阪・北浜の近くの船場界隈には今も生きていて、この街を歩くと、いきなり北尾鐐之助が著した『近代大阪』【1932(昭和7)年刊】の世界にタイムスリップしてしまう…。
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 <船場の中でも、北方の中之島に接する北浜から、今橋、高麗橋にかけての一角は、昔の金相場、秤(はかり)座、両替店などの名残りが、銀行、ビルブローカー、交信所などの大建築物となって、船場というよりも、大阪の町の中で、最も力強い、立派な近代都市の建築層をつくり出してゐる。中之島-北浜、-堺筋、-高麗橋、南北線-この一画は、大阪における大建築物の集合するところとして、恐らく代表的なものであらう。
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 冬の日の晴れた朝など、この辺を歩いてゐると、掃き清められたコンクリートの道路には、冷え冷えと美しく水が打たれ、建物が高く町並が狭いので、日がまだ上の方より照らさず、ところどころビルディングの一角から、まぶしい朝の光が、片側の石壁に細くスポットライトのように落ちる。そんなところには、胴着にすっぽりと幼児を背負った子守女などが、日向ぼこをしてゐる。その前をポケットに両手を突込みながら、白い息を吐き散らして、靴音高く歩いて行く若い会社員や、タイピストの群れをみてゐると、何かしら身内の引しまるやうな気がする。>
 子守女以外は、現在の風景とほとんど変わりない。…いや、角を曲がったら、子守女と出会いそうな気分になってくる…。

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 今も残る建物のディテール、あるいは目の前にある情景とほとんど同じものを、北尾鐐之助も見ていたはずなのだ…。
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 もともとこの辺りは商家がたち並んでいた所で、和風モダンな洒落た店も目につく。
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 当初、「資生堂」が入っていた「高麗橋野村ビルディング」に、今では「サンマルクカフェ」が入っているように、ここにあるモダン建築は国や大阪府の登録有形文化財に指定されていても、現在もオフィスや飲食店などとして機能している…つまりは、生きているものばかりなのだ。
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 さながら、ここは街全体がモダン建築の美術館といえる。
 今、大阪には近代美術館は無いが、いっそのこと、この街全体を絵画などのアートやデザインを含めた近代美術館にしてしまえばおもしろい…などと勝手に思うのであった…。
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by suzu02tadao | 2012-07-14 13:30 | Comments(0)

「丹平ハウス」…そして「丹平ビル」

◇「丹平商会」社員用NOTE BOOK【1926(大正15)年】
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 丹平商会(現・丹平製薬)は、1894 (明治27)年の創業で、「健のう丸」、「今治水」、「アスター軟膏」などの長年にわたって発売され続ける医薬品を取り扱っている会社で、これは当時(1926年)の社員用手帳のようだ。
 表紙の女性の絵は赤松麟作(1878-1953)のものではないかと思う…
 この手帳にも載っている大阪・心斎橋2丁目にあった「丹平ハウス」は、1924年にできており、1階にハイカラな喫茶ソーダファウンテンがあり、階上には赤松麟作の「赤松洋画研究所」があって、佐伯祐三などもここで学んでいる。
 また、他には上田備山や安井仲治が参加した「丹平写真倶楽部」があり、手塚治虫の父である手塚粲もここの会員であった。
 このように「丹平ハウス」は当時の先端的な文化スポットであった。

◇「丹平ハウス」
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◇「丹平商会」社員用NOTE BOOK 見開き
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 大阪・北浜の近くの船場にはモダン建築が現在も多く残っており、2年前、この辺りをうろうろとしていた時に、見つけたのが「丹平ビル」だった。
 先日、久しぶりに行ってみると、なんと!ビルは跡形も無くなくなっていて、更地にクレーン車が入っており、マンション建設中となっているのだった…
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 すでに、昨年の秋には取り壊されることが決まっていたようだ…
【参考】BMC丹平ビルお別れ会
    「丹平ビルお別れ会」

 1957年築で、ヴォーリズ事務所の設計…知らなかった。
 1950~60年代のモダン建築は取り壊されるものが多いようだが、残念なことだ…

◇「丹平ビル」(2年前に撮影)
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◇「丹平ビル」(2年前に撮影)
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by suzu02tadao | 2012-07-11 10:30 | Comments(0)

モダン TOKYO 案内

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 アール・デコ調のモダンなデザインの「TOKYO 案内」。
 おそらく、1935(昭和10)年頃のものだと思われるが、なんと!発行は東京市役所内にあった東京市設案内所となっている。
 1920~30年代については、復興小学校や逓信省の建物など、公的なものでも、建築ではモダンなものが少なくないが、当時の東京市役所もなかなかやるもんだ…と思ってしまう。

◇見開きA-1
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◇見開きA-2
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◇見開きB-1
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◇見開きB-2
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 まるで、ルネ・ラリック(1860 - 1945)作の東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)【1933(昭和8)年】の客室扉を思わせるデザインである。
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 内容は、
 <~日本帝国の興隆を反映して伸びゆく我等の帝都は、世界のメトロポリスとして、輝かしい将来へ力強く踏み出したのであります。
 そびえ立つ巨大なビルディング、坦々たる舗装路、完備せる交通機関、あらゆる近代的都市施設をもつ東京は、一方また古代文化を代表すべき数多の名所旧跡を擁しております。近代と古代、新しきものと古きもの、これらの対称的な美を、渾然たる調和の裡に包含しているのが東京のもつ最大の魅力でしょう。>

 と当時の東京を紹介している。
 最後は案内所の紹介で終っており、案内所で無料で配布されていたもののようだ。

 そして、この全体のアール・デコ調のデザインだけでなく、表紙の「二重橋」をはじめ掲載されている写真も、当時の写真表現の新潮流であった「新興写真」的な表現になっている。
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 雑誌『主婦之友』【1932(昭和7)年9月号】の附録の絵ハガキにも、やはり同じように「新興写真」的な表現のものがある。
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【参考】「新興写真」の代表的な作家である堀野正雄(1907 - 1998)の作品
「鉄橋」(1932年)
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by suzu02tadao | 2012-07-08 08:30 | Comments(0)

『 ニコニコ 』-第35号-

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 最初、ヤフオクでこの雑誌『ニコニコ』を見た時、何だこれは?と思い、【ニコニコ】でググっても、ニコニコ動画ぐらいしかヒットせず、よく分からないままに、表紙の絵がなかなかこなれていて気に入ったので、とりあえず入札したら、なんとも、初値200円のままで私の所有するところとなった…。
 『ニコニコ』(第35号)は1913年(大正2年)12月1日発行で、表紙は平福百穂のものだが、その内容は、開けてびっくり玉手箱…ではないけれど、いやはや、これが大変に楽しめるものだった。

 まず、松井すま子(須磨子)の思い出日記(一)。これは須磨子の唯一の著書、翌年(1914年)に発刊された『牡丹刷毛』にも収録されている。
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 須磨子の文章はやや独りよがりなところがあり、分かりにくいが、彼女の非常に一途な性格がよく表われているものではある。

 松井須磨子の思い出日記(一)の前には、福澤諭吉の養子となり、「日本の電力王」と言われた福澤桃介(ふくざわ ももすけ、1868 - 1938)が記事を書いており、「来るべき人気役者」として松井須磨子をとりあげている。
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 須磨子は洋服の似合う体格をしていると褒めた後、<~それから、須磨子の顔だが、あの顔は素顔で見る時は一向感服した顔でないが、一度化粧をほどこして舞台に現れると、実に美しい顔になる、~それに声もよい、鼻に抜ける気味はあるが、まずいい声といって差支えない、~今後の問題の女は、まず第一に須磨子というところであろうと思う、~>と評価する一方で、
 その後、1920年頃より同居して夫婦同然の生活を始めることになる川上貞奴については、<日本で有名であるのみならず、世界的に名声を博して居る。~しかし~、どちらかというともう下り坂である。盛りを過ぎた姥桜だ、~>と書いていて、思わず…ほんまかいな!と、つっ込みたくなる。

【下図】村田嘉久子(1893 - 1969)は、帝劇女優。帝劇閉鎖後は松竹の新派に加入し、歌舞伎劇や女優劇で活躍した。
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 すでに、この時点では須磨子と島村抱月との恋愛が問題とされ、文芸協会を脱退して、抱月と芸術座を旗揚げしており、
「文芸笑話 -バドボーイ記-」というコラムには、先生一寸……という題で
 <~何とか旅館へ泊り込んだある日の事、謹厳なる抱月先生、フロックコートで廊下を通っていると、どこからか女の声で「先生、ちょっと……」と呼ぶものがある。見回したところ誰もいない。するとまた声がするので、よく見ると便所の中から聞こえてくる。「何ですか?」と聞くと、「先生、紙…紙!」 抱月先生落着きはらって「少しお待ちなさい」
 この中にいたのは誰だか知ってるかね。道理で臭いなどとは古いゝ。~>
といった有名なエピソードも載っている。
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 また同コラムには、夏目漱石(1867 - 1916)も登場しており、そうか、大正2年には、漱石先生もまだ生きていたんだ…と改めて感慨にふけるのであった…。
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 さて、私はあまり興味はないのだが、この号の『ニコニコ』で一番の特集記事は、超心理学者として念写・透視などの実験や学会発表を行って、激しい非難を受け、この年(1913年)に東京帝国大学を追放された福来友吉(1869 - 1952)の「余と千里眼問題」及び「念写と透視」であろうと思われる。
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 「ニコニコ倶楽部」の幹部役員として、『ニコニコ』の編集主任の松永敏太郎と共に編集顧問として福来友吉も名を連ねており、「ニコニコ主義」をモットーにした不動貯金銀行(現在のりそな銀行)創業者で、雑誌『ニコニコ』の生みの親である牧野元次郎(1874 - 1943)も、冒頭で福来友吉の研究を擁護する記事を書いている。
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 他にも興味をそそられる記事はいろいろあるのだが、「読者文芸欄」短歌の選者・吉井勇の句と、「京都に於ける吉井勇氏 長田幹彦氏の発展通信」という訳のわからない色紙を紹介しておく。

 宇治にて
月夜よし寝じなと云ひし君がため宇治のひと夜は忘れがたかり
ことさらに君にそむきてわれひとり宇治の河原におもひ草摘む 

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【おまけ:蓄音器の広告】踊るビリケン…背後には大仏!?
(中国が清国となっていますが、1912年に清国はなくなっています。)
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by suzu02tadao | 2012-07-04 18:20 | Comments(0)

「パヴロバ舞踊音楽大会」

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 エリアナ・パヴロバ(Eliana Pavlova 1899 - 1941)は日本にバレエを根づかせた最初の人物として知られている。
 私がパヴロバを知ったのは昨年の事で、例によって、掲載されている広告(下図)に魅せられて、この「パヴロバ舞踊音楽大会」のパンフレットを手に入れてからだ。
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 エリアナ・パヴロバが日本バレエの母と呼ばれるのは、1927(昭和2)年、鎌倉でバレエ教室を開設して、東勇作、橘秋子、貝谷八百子、近藤玲子、大滝愛子、島田廣らの、今日のバレエ・ブームと言われる日本のバレエ界の基礎を築いた人々を育てたからで、それ以前のパヴロバについてはあまり資料は残っていないらしい。

◇「パヴロバ舞踊音楽大会」より
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 この「パヴロバ舞踊音楽大会」は1923年7月の公演のもので、エリアナ・パヴロバと妹?のナデジタ・パブロバの他には、芝麗子、瀬川光子、瀬川正子、春野芳子、深澤君男らが出演しており、なんと、後に日本を代表するオペラ歌手となった藤原義江(1898 - 1976)も出演している!
 ※藤原義江はこの年の4月10日に帰国したばかりで、5月6日には「帰朝第1回独唱会」を開催して大成功している。

◇ナデジタ・パブロバ嬢
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<ナデジタ・パブロバ嬢はエリアナ・パヴロバ嬢の愛妹にして、エリアナ嬢とともに舞踊の名手なり、特にジャズダンス、チャールストン、ステップ等を得意とす。>

◇エリアナ・パヴロバ嬢
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<世界的露国名舞踊家としてのエリアナ・パヴロバ嬢は、幼少の頃から天才的芸術家として前露国帝室技術員の栄職にあり、我が国に来朝して以来、専ら舞踊教授に数多の舞踊家を養成し、現に「パヴロバ高等舞踊研究所」を開き舞踊の教授をしている。>

◇パヴロバ高等舞踊研究所
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 「パヴロバ高等舞踊研究所」の案内で、住所は<東京市赤坂区榎坂町二番地>となっているが、この東京・赤坂にあった「パヴロバ高等舞踊研究所」については、エリアナ・パヴロバについて書かれた様々な資料をあたってみたが、よく分からなかった。
 しかし、よく見ると、案内の中に、舞踊教授(九月一日開始)とあり、アッと気がついた…。1923(大正12)年9月1日は関東大震災が起こった日だった!
 つまりは、教室を始めたその日に被災したというわけだ…。

 関東大震災で被災したエリアナ・パヴロバだが、松竹座とも関係が深く、その後、創成期の大阪松竹楽劇部の指導も行った。
 あの飛鳥明子もエリアナ・パヴロバから多くを学んだといわれる。

◇「松竹座ニュース」【5/22~5/28】〔浅草/新宿〕1930(昭和5)年より
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<エリアナ・パヴロバ嬢は、来朝以来既に数年の間、日本の芸術魅惑に誘われて親しく我が国で舞踊研究にいそしむ熱情的な芸術家であります。その間、かつてはわが大阪松竹楽劇部にあって教鞭をとられた事もありました。嬢が優婉の特技たる瀕死の白鳥こそは、本格的な舞踊芸術の陶酔と感激とにわれわれを魅惑するでありましょう。>
と紹介されている。

◇「松竹座ニュース」【5/22~5/28】〔浅草/新宿〕1930(昭和5)年表紙
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by suzu02tadao | 2012-07-02 09:40 | Comments(0)