1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
by 大阪モダン
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30
以前の記事
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
more...
お気に入りブログ
ヴォーリズを訪ねて
近代建築Watch
レトロな建物を訪ねて
Books & Things
最新のコメント
古本まつりは16日までや..
by モダン周遊 at 07:17
下鴨の古本祭り こんな..
by 雪だるま at 05:53
ここは、たくさん見どころ..
by モダン周遊 at 10:53
最後の写真の場所 雪だ..
by 雪だるま at 05:53
そうですね… ここは、..
by モダン周遊 at 12:07
こちらは 京都芸術セン..
by 雪だるま at 05:41
以前から撮影しようと思っ..
by モダン周遊 at 11:05
この写真を見せられると ..
by 雪だるま at 05:31
脱藩していた龍馬も、 ..
by モダン周遊 at 12:56
京都市中で レトロな建..
by 雪だるま at 05:53
メモ帳
最新のトラックバック
シャガール、ピカソ、マテ..
from dezire_photo &..
シャガール、ピカソ、マテ..
from dezire_photo &..
マルモッタン・モネ美術館..
from dezire_photo &..
美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..
【姫路の老舗映画館が消え..
from ジョニー暴れん坊デップの部屋
個性的なビルがいっぱい:..
from 本読みの記録
ライフログ
検索
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2012年 09月 ( 12 )   > この月の画像一覧

「浪花小唄」

◇楽譜「浪花小唄」表紙:1929(昭和4)年
c0239137_130401.jpg

 「浪花小唄」は、この年の5月に発売された「東京行進曲」に続いて、6月にビクターレコードから発売されてヒットした曲で、その副題に「道頓堀夜景」とあり、またフレーズに「♪ テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ♪」とあるように道頓堀を歌った曲であり、同じ頃に流行った「♪ 赤い灯 青い灯 道頓堀の~♪」の「道頓堀行進曲」と共に長い間、大阪のテーマソングになっていた曲である。
 なお、最初に発売された二村定一盤と1ヶ月後に発売された藤本二三吉盤とでは歌詞が違っているが、男性版と女性版といったところのようである。

◇「浪花小唄」二村定一:歌詞

うつる灯(ほ)かげを ボートがくだく
可愛やこぼれる 片えくぼ
テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ

虹の灯(ひ)のまち 夜あかし雀
たもと たもとの 紅が散る
テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ

消えてまたつく 五色のあかり
男ごころを 知りゃせまい
テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ


【参考】浪花小唄 二村定一 - YouTube

◇「浪花小唄」藤本二三吉:歌詞

いとし糸ひく 雨よけ日よけ
かけた情を 知りゃせまい
テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ

燃えて火となれ 私のこころ
こがれこがれりゃ 火ともなる
テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ

恋のサイレン 何処までとどく
待てば思いも みなとどく
テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ

消えてまたつく 五色の灯り
女ごころを 知りゃせまい
テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ


【参考】浪花小唄 藤本二三吉 - YouTube

 二村定一も藤本二三吉も、この当時はビクターと専属契約を結んでおり、以前ここで紹介した「都会交響楽」もこの二人が歌っている。
 二村定一(ふたむら ていいち、1900-1948)は、昭和初期を代表する歌手・ボードビリアンで、歌手としては「浪花小唄」の他にも「君恋し」(戦後にフランク永井がカバーして大ヒットしたが、オリジナルはこちらです)など数多くのヒット曲があり、「東京行進曲」の佐藤千夜子とともに、日本の流行歌手のパイオニアといわれている。
 ボードビリアンとしても、川端康成の新聞小説『浅草紅団』で紹介された「カジノ・フォーリー」などで活躍した「エノケン」こと榎本健一と共演して、大人気を博したのだった。
 藤本二三吉(ふじもと ふみきち、1897-1976)は、「♪ 月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に~♪」の「祇園小唄」の歌手としても有名である。

 ところで、『浅草紅団』には、「浪花小唄」が出てくる場面があり、しかも、この小説の主人公ともいえる「弓子」の重要な言葉のある場面なので、それを紹介しておきたい。

 <「~私は女じゃないの。姉さんを見たんで子供ん時から、決して女にはなるまいと思ったの。そしたらほんとうに、男っていくじなしね、だれも私を女にしてくれないの。」
 ―――テナモンヤないかないか、道頓堀よ。
      虹の灯のまち、夜あかしすずめ・・・・・・・・
 と――オォケストラ・ボックスのジャズ・バンドよりも騒がしく、地下室のカジノ・フォウリイ直営食堂から、拡声蓄音機の「浪花小唄」が響いて来る。
 舞台は「ステッキ・ボォイ」の第四景「新宿駅プラット・フォウム」の場だ。~>

(水族館 十)より

 他に「都会交響楽」も登場しており、『浅草紅団』がいかに当時の風俗を詳細にルポしてできたものかが、うかがい知れるが、ここでは、大阪のご当地ソング「浪花小唄」が東京で流行の先端を行く浅草をも凌駕していたという事実だけにとどめておこう。
 実際、この頃は、大阪資本のカフェーが銀座をはじめ東京のいたるところに進出していた時代であったという。

 さて、この楽譜の装丁デザインは、サインは無いが斎藤佳三のものである。なお、『モダン道頓堀探検』(橋爪節也編)によると、別バージョンの表紙もあるようだ。
c0239137_13244854.jpg

 この曲が発売されたのと同じ頃、昭和4年5月25日発行の観光ガイドブック『大阪名所遊覧/栞』の中で、道頓堀は次のように紹介されている。 

 <華やかな心斎橋筋を南戎橋を渡って東に折れた所又は市電日本橋で下車南詰を西である。
 大阪随一の歓楽街である。先頃まで歌われた赤い灯、青い灯の道頓堀は二百数十年の伝統を受けた娯楽場で五座の櫓がずらりと軒を並べ他の地に於ける此種の娯楽場とはなんとなく趣きが違って居るので、昔よりその情景を喜ばれて居た。
 殊に近年カフェーの発展と共に、赤、青等色とりどりに飾られて宗右衛門町と櫓町と共にこのカフェーの灯火に彩られた川の面は、春の宵、夏の夕、なんとなく艶めかしい小波をたたえて、行く人の心をそそるのである。>


◇『大阪名所遊覧/栞』より
c0239137_1342162.jpg

[PR]
by suzu02tadao | 2012-09-29 14:00 | Comments(3)

四天王寺骨董市 <昭和レトロ・モダンに浸る>

 今回は楽譜の紹介は一休みにして、先日、「四天王寺骨董市」に行ってきたので、それについてレポートしてみようと思う。
c0239137_13151330.jpg

 数年振りの四天王寺骨董市だが、昔に比べると、出店数も六割ほどになり、規模はやや縮小されてはいるが、古本市とはまた別の面白さがあった。
c0239137_13164880.jpg

 だいたいが昭和時代頃の品ぞろえが多く、商品の展示というよりも、商品ディスプレイといったほうがいいくらいセンスの良い店が多くなっている。
c0239137_13174898.jpg

 1960年代と思われるアメリカのポスターや雑誌などを売っている店。
 こういうディスプレイ・センスには脱帽である。
c0239137_1320940.jpg

 「解剖台の上のミシンとコウモリ傘の出会い…」ではないが、どうしても雑多なものが混ざるため、いたる所でシュールな光景に出くわし、それを眺めるのもまた楽しい。
c0239137_1324106.jpg

 これも売り物か?と思ったら…消火栓だった。
c0239137_13293056.jpg

 こんな電気スタンドや、こんな本棚…昔々ありましたね…。おや?!これは温度計ではなくて「寒暖計」ですね…。
c0239137_13313536.jpg

 さて、本日の戦利品を、私がその昔、参考書とした雑誌『遊楽』(1996年2月号)「特集:魅惑のパッケージデザイン」の記事の上に並べてみた。
c0239137_13325067.jpg

 右手前から時計回りに説明すると…
 まず、鬼才といわれた片岡敏郎による広告が有名な戦前の「スモカ歯磨」。
 「タンゴドーラン」は戦前の大阪にあった宇野達之助商会の製品。私は以前から緑色のものを所有しており、他に赤色のものもあるようだ。
 国会議事堂の図柄の「アカネ歯磨」は今一つわからないが、陸海軍御用品とあるところから戦前のものであることは間違いない。
 「OCAP(オカップ)ホゝ紅」は戦前にあった平尾喜三郎商店の製品。
 最後はパケージではなく景品のようなもので、裏面は鏡になっており、回りをべっ甲柄のセルロイドで巻いてある。なお「カネヒラヤ」は今も健在のようだ…。

 これらのものは、均一台にある古本の値段では買えないが、出合う確率はウン万円もする稀覯本と同じ程度で、それを思えば安いものである…と自分を納得させる「貧好き」の私であった。

 この『遊楽』の記事によると、このような「パッケージデザイン」に力を入れるようになったのは大正時代の中頃からで、ことに化粧品については、女性の社会進出とともに、多数の製造販売会社から競うようにして売り出されたため、昭和初期頃のものには大胆なデザインのパッケージが多いのだという。

 さらに続けて、これらのパッケージデザインについては下記のように書かれている。
 <~みごとなまでの欧米的デザイン感覚の採用と、それにもかかわらず共存する日本的な情趣である。この二つの要素が無理なく融合し、独自のデザイン世界を創造している。~(略)~伝統的和模様と西洋的色彩が共存するわが国のラベルデザインには、まぎれもなく一昔前にわが国が達成したと幻想した「幸福な時代」の気分が反映されている。
 そして、この濃密な時代の気分こそが、これらのパッケージデザインにかぎりない魅惑と郷愁をもたらす。
 パッケージデザインは、商品とともに時代をも包装して後世に送り届けるタイムカプセルなのである。>


【追記】
 四天王寺の西大門の参道に裏側が面している「天王寺消防署元町出張所」もレトロな建物だが、建築年も設計者も不明のようだ…。
c0239137_13441554.jpg

c0239137_13443775.jpg

c0239137_13445934.jpg

[PR]
by suzu02tadao | 2012-09-26 14:00 | Comments(0)

「新東京行進曲」

◇楽譜「新東京行進曲」表紙:1930(昭和5)年
c0239137_1124720.jpg

 「新東京行進曲」は、前年にビクターレコードから発売されて、日本の映画主題歌の第1号となり25万枚を売上げる大ヒットとなった「東京行進曲」と同じコンビ、作詞:西条八十、作曲:中山晋平の作品である。
 ただし、歌手はこの年に渡欧した佐藤千夜子ではなくて、四家文子に替わっている。
 この曲も同名の日活映画の主題歌となったものだが、映画では戦後の1953年に公開された同名の松竹映画の方が有名のようだ。

◇「新東京行進曲」歌詞

(1)ネオンサインについ誘われて、今日も銀座のアスファルト、逢えば悩まし、逢わねば悲し、恋と思案のカクテール

(2)恋の東京、幹線道路、会って別れる交叉点、右が一号、左が二号、通るあの妓(こ)もまた二号

(3)名さえ賑わし、あの神楽坂、こよい寅毘沙、人の波、可愛い雛妓(おしゃく)と袖すり交(かわ)しゃ、買った植木の花が散る

(4)昨日チャンバラ、今日エロレヴュー、モダン浅草ナンセンス、ジャズが渦まく、あの脚線美、投げるイットで日が暮れる


 「東京行進曲」の大ヒットに気をよくして、企画されたもののようだが、やはり、二匹目のドジョウはいなかったようで、映画ともどもあまりヒットしなかったようだ。
 もっとも、この頃には「東京行進曲」の歌詞で、「♪ 昔恋しい 銀座の柳 仇な年増を 誰が知ろ~♪」とあるように、銀座の柳は関東大震災で焼失して無く、「東京行進曲」のヒットにより復活したのを記念して、1932(昭和7)年にレコードが発売されヒットした「銀座の柳」を四家文子が歌っている。

 「東京行進曲」も「新東京行進曲」、どちらも楽譜は斎藤佳三の装丁デザインであるが、先に発売された「東京行進曲」が、未来派あるいは構成派的な絵であるのに対して、「新東京行進曲」は和装の美人画風になっている。
c0239137_1181161.jpg

 ここで、西條八十(さいじょう やそ、1892 - 1970)について、少しふれておきたい。
 西條八十が、本格的に歌謡曲を書き始めたのは、この「東京行進曲」からであるが、その他に、戦前では「侍ニッポン」「銀座の柳」「旅の夜風」「誰か故郷を思わざる」「蘇州夜曲」など、戦後には「悲しき竹笛」「青い山脈」「王将」など無数のヒット曲を書いた。
 一方でボードレールなどの研究者としても有名で、戦前は早大仏文学科教授であった。
 また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。金子みすゞを最初に見出したのも西條八十だという。

 私なぞは、森村誠一原作の角川映画『人間の証明』の有名なキャッチコピー、
 <母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
 ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
 谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ…>

西條八十作の詩『帽子』の冒頭部分を思い出すのであった。
[PR]
by suzu02tadao | 2012-09-24 11:20 | Comments(0)

「都会交響楽」

◇楽譜「都会交響楽」表紙:1929(昭和4)年
c0239137_8421551.jpg

 この楽譜も斎藤佳三の装丁デザインで、同名の日活映画の主題歌となったもので、作詞も西条八十である。

◇「都会交響楽」歌詞
c0239137_843980.jpg

 歌詞の内容だが…、なんと、1番の歌い出しから<おれはブル(ブルジョア)だよ 葉巻のけむり ~>ときて、2番は<おれはプロ(プロレタリア)だよ 菜っ葉の服よ ~>となっている。また女性の歌のパートでは、ウェイトレスやマネキン娘といった典型的なモダンガールを登場させている。
 当時はブルジョアやプロレタリアという言葉も、政治的と言うよりは、風俗としてとらえられていた感がある。事実、この曲が作られた1929(昭和4)年頃になると軽薄なモボ・モガに代わってインテリぶったマルクス・ボーイと呼ばれる人種が氾濫してきたようである。

 なお、「都会交響楽」の1・2番はYouTubeで聴くことができる。
【参考】都会交響楽 二村定一・青木晴子 - YouTube

 ところで、映画「都会交響楽」は溝口健二監督のいわゆる傾向映画と呼ばれる、社会の矛盾を訴える内容のプロレタリア映画ということであるが、原作は「Wikipedia」によると
 <新感覚派からプロレタリア文学に転向したばかりの片岡鉄兵、モダニズム文学の作家、浅原六朗、当時はプロレタリア作家であった林房雄、新興芸術派の作家、岡田三郎の4人>ということで、当時の注目を浴びていた作家を、傾向とは関係なく集めましたという感じがしないでもない。
 これは西条八十の歌詞にある、当時の都会の風俗をとりあえず、あれもこれも取り入れましたといった感じと共通するものである。
 だから「都会交響楽」という題名なのだと言われればどうしようもないのだが…。
 ある意味で、この混沌とした内容そのものが、当時の状況を表しているのかもしれない。

 例えば、『歩きつづける男』(改造社、1930年刊)は、後に発禁になるプロレタリア小説なのだが、当時の片岡鉄兵は、1980年代のバブル時代のDCブランドを思わせる服を身につけているような姿で、なにかちぐはぐな印象を受ける。
c0239137_8503615.jpg

 このように、混乱した時代のめくるめく都会の現実を、名匠溝口健二がどのように描いたのか観てみたいのだが、残念なことに、この映画の上映用フィルムはどこにも保存されておらず、現状、観賞することの不可能な作品であるということだ…。

 なお、この映画の元になったヴァルター・ルットマン監督のドイツ映画『伯林 大都会交響楽』は、ドキュメンタリー画面のモンタージュによって、大都会ベルリンの姿をリズミカルに描いた前衛作品である。
 海野弘は、1930年に出版された、東京を描いた文学のアンソロジー『モダン TOKYO 円舞曲』に収められている龍胆寺雄「甃路(ペエヴメント)スナップ」は映画『伯林 大都会交響楽』から影響を受けているようだと書いている。

 ところで、前回とりあげた群司次郎正の小説『ミス・ニッポン』の装丁は村山知義なのだが、村山知義は時代の最先端を行く前衛芸術家で、またファッション・リーダーでもあり、そのお河童頭がトレードマークであった。

 一時期プロレタリア作家であった藤沢桓夫が、村山知義に出会ったエピソードを交えて、当時のことを書いているのでそれを紹介してみたい。

 藤沢桓夫は大学生の時、下宿の近くの郵便局で偶然に、左傾化する前のお河童頭の村山知義に出会ったのだが、その当時は友人で詩人の小野十三郎や、龍胆寺雄が天才と評価した小説家の久野豊彦なども、お河童頭をしており、また親友の武田麟太郎は、それどころか無精髭に長髪という後のヒッピーのような姿をしていたということで、その当時の東京ではお河童頭の文学者や芸術家の青年はめずらしくなかったという。
 <その頃はプロレタリア文学の台頭の前夜に当り、敏感な若い文学志望者たちは、ブルジョア文学の歴史的な崩壊の過程で、思想的に動揺し、混乱し、苦悩していた。その苦悩の姿は、未来派、立体派、表現主義、ダダイズム、構成主義、等々の形で現れ、活字をわざと逆様にしたり、大小さまざまの活字の入れ混った詩や小説が書かれたりした。
 お河童頭も、所詮は、新しい形式への足掻きの、一つの日常的な現れであったかも知れぬ。同じ苦悩から、私はそれまで楽々と書けた小説が少しも書けなくなって来ていた。労農党が結成され、日本のプロレタリアートはようやく自己の巨大な姿を歴史の場面に押し出して来ていた。~>

「青春」(『大阪手帖』)より

 「都会交響楽」がつくられた1929(昭和4)年は世界恐慌がはじまった年でもある…。
c0239137_8565546.jpg

[PR]
by suzu02tadao | 2012-09-21 09:00 | Comments(2)

「ミス・ニッポンの歌」 斎藤佳三

◇楽譜「ミス・ニッポンの歌」表紙:1930(昭和5)年
c0239137_15505795.jpg

 上図の装丁は斎藤佳三(さいとう かぞう、1887-1955)が手がけたもので、当時の「エログロナンセンス」の世相をよく表している。
 もともと音楽家を志して東京音楽学校に入学し、後に東京美術学校図案科に再入学するという経歴を持つ斎藤佳三は山田耕筰や三木露風、西條八十などとも親交があった。
 また「総合芸術」という視野を持って、 “生活芸術” に取り組んでおり、自らも歌謡曲の作詞・作曲活動をすると共に楽譜の装丁デザインも数多く手がけている。
 「ミス・ニッポンの歌」は群司次郎正(ぐんじ じろうまさ、1905-1973)の小説『ミス・ニッポン』を映画化した同名の日活映画の主題歌となったもので、作詞は西條八十である。

 さくら吹雪に 振袖すがた
 泣いた昨日の ニッポン・ムスメ
 長い黒髪 さらりと切って
 高い踵で タンゴを踊る。

 踊り踊れば 世界も踊る
 東ゃアメリカ 金貨の月よ
 北はロシアよ 真赤な雲よ
 光る 流れる 渦まく ゆれる。

 なにをくよくよ ニッポン・ムスメ
 花の唇 笑って踊れ
 山はフジヤマ 白雪踏んで
 世界覚ますよな ソレ ひとおどり。


 西條八十が手がけた歌謡曲の歌詞には、「モダン・ガール」など当時の新しい風俗や世相がよく表わされており、特に <東ゃアメリカ 金貨の月よ  北はロシアよ 真赤な雲よ>とあるように、今日の流行歌よりも政治的な内容が含まれている場合が多い。

 ところで、小説『ミス・ニッポン』それに続く『マダム・ニッポン』『ミスター・ニッポン』の三部作、そして『侍ニッポン』は群司次郎正の代表作で、『モダン都市東京』(海野弘著)の中で『ミスター・ニッポン』については、
 <これは非常に面白い小説であり、一九二〇年代の都市小説として、今後再評価されるべき作品であると思う。>と書かれている。


 尚、斎藤佳三については下記を参照のこと。

◇『斎藤佳三 ドイツ表現主義建築・夢の交錯【INAX album (4)】』
  (INAX出版 1992年)
c0239137_1614138.jpg

◇芸大コレクション展「斎藤佳三の軌跡」:2006年11月4日~12月17日
【参考】「斎藤佳三の軌跡」
c0239137_16163883.jpg

【斎藤佳三 略歴】
1887(明20) 秋田県に生まれる
1905(明38) 東京音楽学校師範科入学
1907(明40) 東京美術学校図案科入学
1908(明41) 「ふるさとの」(三木露風作詞)作曲
1912(大元) ベルリンへ渡航、山田耕筰と共に生活
1914(大4) 帰国、ドイツ・シュトゥルム分社主催「DER STURM」展を開催
1917(大6) 日本意匠協会設立
1919(大8) 東京美術学校にて非常勤講師(以後15年間)
1920(大9) 松竹キネマ創業と同時に美術部長
1923(大12) 農商務省嘱託、東京美術学校委託により渡航
         ワイマールにてバウハウスを訪れる
1927(昭2) 第8回帝展第4部に「想ひを助くる部屋」出品、落選で論争を呼ぶ
1928(昭3) 第9回帝展第4部に「食後のお茶の部屋」出品、入選
(以降「寛ぎの食堂」「日本間の寝町」「ピアノを主として」3回入選)
1930(昭5) 1930年代に活発な歌謡曲作曲活動
1931(昭6) 新舞踊家連盟発足、石井漠、松永工と共に常務理事
1939(昭14) 商工省嘱託。輸出工芸図案展覧会審査員
         国民服のデザイン、『国民服の考案』発行
1955(昭30) 東京都世田谷区の自宅で歿、葬儀委員長は山田耕筰

c0239137_1626490.jpg

 これからしばらくは、斎藤佳三が装丁デザインした楽譜を中心に1930年頃の日本にタイムスリップしてみたい…。
[PR]
by suzu02tadao | 2012-09-18 16:30 | Comments(1)

ヴォーリズと近江八幡 <5>

◇近江八幡の町並み
c0239137_1018456.jpg

 元々、近江八幡は商人の町として栄えた所で、整然とした町並みが旧市街地に残されていて、かつての近江商人本宅の家々が立ち並び、往時の繁栄を偲ばせている。
 観光地にもなっている新町通りや八幡堀などの保存地区はもちろんのこと、市街のいたる所で趣のある佇まいを見せている。
c0239137_10201666.jpg

c0239137_10232286.jpg
c0239137_10241361.jpg
c0239137_10355091.jpg
c0239137_10362852.jpg
c0239137_10374913.jpg

c0239137_10383889.jpg
c0239137_1039664.jpg
c0239137_1043142.jpg

c0239137_10404898.jpg
c0239137_10411968.jpg
c0239137_1044138.jpg

c0239137_1045263.jpg
c0239137_10462628.jpg

 近江八幡を本拠地として、1600件にものぼる建物の設計を行ったヴォーリズは、このような日本の伝統的な美しい町並みや佇まいの中から、多くの事を学んだのではないかと思われる。
c0239137_1047339.jpg

[PR]
by suzu02tadao | 2012-09-15 10:50 | Comments(0)

ヴォーリズと近江八幡 <4>

◇池田町洋風住宅街
c0239137_14181537.jpg

 池田町洋風住宅街は、大正時代にヴォーリズがアメリカ式住宅のモデルハウスとして建てたもので、旧近江ミッション・ダブルハウス(1921年築)、旧ウォーターハウス邸(1913年築)、旧吉田悦蔵邸(1913年築)からなる。
c0239137_14184621.jpg

c0239137_14191431.jpg

c0239137_14194145.jpg
c0239137_1420339.jpg
c0239137_14213836.jpg

c0239137_14221454.jpg

c0239137_14223733.jpg

c0239137_1423826.jpg

◇村岡氏邸(旧岩瀬医院) 1933(昭和8)年
c0239137_1424056.jpg

c0239137_14245312.jpg
c0239137_14244424.jpg

◇アンドリュース記念館(旧近江八幡YMCA会館) 1935(昭和10)年
c0239137_14282916.jpg

c0239137_14283150.jpg

c0239137_14302365.jpg

◇近江八幡教会:牧師館(元近江兄弟社地塩寮) 昭和初期
c0239137_14322267.jpg

c0239137_14325667.jpg

c0239137_143312100.jpg

◇近江八幡市立資料館 1886年築
  1953(昭和28)年、ヴォーリズ建築事務所が改修
c0239137_14341567.jpg

c0239137_1435518.jpg
c0239137_1435113.jpg

[PR]
by suzu02tadao | 2012-09-14 14:30 | Comments(0)

ヴォーリズと近江八幡 <3>

◇ヴォーリズ記念館(旧ヴォーリズ氏邸) 1932(昭和7)年
c0239137_11311478.jpg

 ヴォーリズ記念館はヴォーリズ夫妻が後半生を過ごした自宅を公開したもので、内部には遺品や資料も展示されている。
 ※内部見学は要予約。内部は撮影禁止。
【参考】ヴォーリズ記念館
c0239137_1132148.jpg

c0239137_11345680.jpg
c0239137_11354199.jpg

◇近江兄弟社学園(教育会館/ハイド記念館) 1931(昭和6)年
c0239137_11384514.jpg

c0239137_11411944.jpg

 以前、ヴォーリズの設計した建物はどれも、その用途にふさわしい「佇まい(たたずまい)」を見せていると書いたが、建物のみならず門柱と塀あるいは庭などがそれぞれに調和して独特な雰囲気をかもし出している。
c0239137_11435797.jpg

c0239137_11492219.jpg

c0239137_1146328.jpg

c0239137_11473391.jpg

【参考】竣工当時の「教育会館/ハイド記念館」とヴォーリズ氏邸(左)
c0239137_1151913.jpg

【参考】近江ミッション一覧図:昭和6年現在 (部分)より
c0239137_11531093.jpg

[PR]
by suzu02tadao | 2012-09-12 12:00 | Comments(0)

ヴォーリズと近江八幡 <2>

◇ヴォーリズ記念病院:ツッカーハウス 1918(大正7)年
c0239137_10225593.jpg

 結核患者の療養などを目的として開院した近江療養院の本館として、米国人ツッカー女史の寄付によって建設された建物。
c0239137_10245220.jpg

c0239137_10252425.jpg

c0239137_10254792.jpg

 「将来復元可能な状態で解体」する事が決定しているそうで、現在は保留状態ということらしいが、老朽化が激しく、完全に廃屋状態になっている。
c0239137_10262751.jpg


◇ヴォーリズ記念病院:礼拝堂 1937(昭和12)年
c0239137_1029219.jpg

 ツッカーハウスの裏側の更に高い場所に、ひっそりとたたずむ礼拝堂である。
c0239137_10295514.jpg

c0239137_10351411.jpg
c0239137_10354225.jpg
c0239137_10361027.jpg
c0239137_1033372.jpg


◇ヴォーリズ記念病院:希望館 1918(大正7)年
c0239137_10374740.jpg

 礼拝堂の西側の奥にある結核患者の療養施設で、五つの個室が真ん中の共有スペースを囲むように配置されており、各室の採光及びコミュニケーションとプライバシーの両立を考慮した設計になっている。
 この建物も廃屋状態である。
c0239137_10393395.jpg

c0239137_10405575.jpg
c0239137_1042524.jpg
c0239137_10423793.jpg

 ヴォーリズ記念病院(旧近江療養院)は近江八幡の町から約1キロ離れた北之庄にあり、素朴な建築でありながら、周囲の自然環境と共生する療養施設としての在り方に注目すべき特色をもったもので、ヴォーリズ建築の初期からの設計思想をよく表している。
[PR]
by suzu02tadao | 2012-09-09 10:46 | Comments(0)

ヴォーリズと近江八幡 <1>

◇旧八幡郵便局 1921(大正10)年
c0239137_16253039.jpg

c0239137_1626332.jpg

 近江八幡を訪れるのは十数年ぶりで、以前訪れた時の旧八幡郵便局はまだ保存再生運動が始められたばかりの頃で、今は復元されている玄関アーチもなく、ほとんど廃屋同然の姿であった。
c0239137_16271721.jpg

c0239137_1628293.jpg

c0239137_16304616.jpg
c0239137_16315534.jpg
c0239137_1633316.jpg
c0239137_1633471.jpg
c0239137_16351884.jpg

 今回、旧八幡郵便局をはじめとする近江八幡のウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880 - 1964)が設計した建物をいくつか見ていくうちに、それぞれに共通するひとつの言葉が浮かんだ。
 それは、「佇まい(たたずまい)」である。
 ヴォーリズの設計した建物はどれも、その用途にふさわしい「佇まい」を見せており、すなわちそのものにふさわしい雰囲気をかもし出しているように思う。
c0239137_16365754.jpg

「建築物の品格は、人間の人格の如く、その外装よりも、むしろその内容にある」
(ヴォーリズ建築事務所作品集冒頭部分より)
c0239137_16395730.jpg

[PR]
by suzu02tadao | 2012-09-08 16:45 | Comments(0)