1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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<   2012年 10月 ( 10 )   > この月の画像一覧

<御園石鹸> 伊東胡蝶園

◇「御園石鹸」化粧箱(缶)
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 前回、佐野繁次郎が伊東胡蝶園で「パピリオ」の商品デザインを引き受けたのは、1935(昭和10)年からだと書いたが、上図は、それ以前の「御園」ブランドのもの…。

 伊東胡蝶園は、明治時代に日本で初めて、純無鉛で健康に害のない「御園白粉」を製造・販売した会社で、「白粉の御園」は、「歯磨のライオン」(小林富次郎商店)、「クリームのレート」(平尾賛平商店)、「クラブの洗粉」(中山太陽堂)とならぶ化粧品業界では「明治の四大覇者」と呼ばれたという。

 昔から石鹸は盆暮の主要な贈答品であったようで、これらのものは贈答用の化粧箱(缶)だが、上図の真中のものは『日本のアールデコ』(末續堯著、1999年刊)でも紹介されている。
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 <御園はおそらく1910年代のバルビエのファッション画からヒントを得たものと思われる。缶の周囲にはバイオリン、楽譜、ステッキ、花束、テニスラケット、市松模様のハンドバッグ、ゴルフバッグ、ファッション傘、つばの広い帽子が描かれており、大変ロマンティックだ。これなら女性も購買意欲をそそられる。>
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 ここで、バルビエとはジョルジュ・バルビエ(George Barbier、1882-1932)のことで、アールデコ様式を代表するフランスのイラストレーターである。
【参考】George Barbier Gallery (ジョルジュ・バルビエ・ギャラリー)

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 『日本のアールデコ』は、日本のアールデコについて初めてまとめられた本で、末續氏はこの本の中で次のように述べている…。

 <日本のアールデコは、単なる西洋もののコピイであるという考え方が、市場では支配的であったように思う。日本から戦前に輸出された日本のアールデコが、欧米の店頭やオークションでどのような価格で取引されているかを知れば、愕然とするに違いないのだが・・・・・。>

 <~アールデコの桧舞台であった1920、30年代は既に古典の領域に入るものでもあるし、1950、60年代の作品ですら欧米ではミューゼアムピースの世界に入りつつある現実を、我々は直視しなければならないのではないだろうか。>

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by suzu02tadao | 2012-10-29 15:30 | Comments(0)

『銀座百点』~佐野繁次郎

◇『銀座百点 No.37』 1958年1月号(表/裏)
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 『洋酒天国』、『あまカラ』 とくれば、当然、『銀座百点』をとりあげなければならない…。
 実際、『銀座百点』の創刊号には「大阪に『あまカラ』という気のきいた雑誌があり、本誌もスタイルはそれにならいました。」(編集夜話)との一文があるという。
 『銀座百点』については、私は佐野繁次郎の独特の手書き文字が気に入って手に入れた、上図のやや傷みのはげしいものしか所有していない。

 佐野繁次郎による装幀本は数多くあり、そのデザインにはファンも多く、数年前にもコレクターによる『佐野繁次郎装幀集成』という本も刊行されているくらいだが、私が佐野繁次郎(1900-1987)に興味をもったのは、例によってパッケージ・デザインからであった…。

 もう15年程前の大阪は老松古美術祭、伝説の店「あぜくら」で、以前に紹介した骨董雑誌『遊楽』にも掲載されていた、古いパッケージのちょっとした出物を購入した際、値切る代わりに、下図(手前)の化粧品「パピリオ」のパッケージをお願いして付けてもらったのだった。
 見てのとおりのモダンなデザインで、その際、「あぜくら」のオヤジも、「あれ!?…、これは戦前か…、それにしては垢ぬけてるなぁ、うん、まあ、いいよ…」と言っていたのを覚えている。
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 その後、2005年に改装される前の東京ステーションギャラリーで開催された展覧会で、はじめて私は、佐野繁次郎の活動(絵、装幀、デザイン)の全貌を知ったのだった。
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 この時の展覧会図録によると、佐野繁次郎が当時の伊東胡蝶園で「パピリオ」の商品デザインを引き受けたのは、1935(昭和10)年からで、その斬新なデザインで一躍有名ブランドへと押し上げ、佐野自らも重役を務め、低迷していた会社を一気に盛り立てたという。
 当時、「パピリオ」の宣伝部にいた花森安治が、『暮らしの手帖』の誌面のキーとなった、手書き文字で顧客に語りかけるスタイルを佐野から受け継いだことは有名な話である。

 佐野繁次郎はもともと大阪・船場の生まれで、画家を志したのは、十代の頃からの知り合いであった佐伯祐三(1898-1928)の影響であった。

 佐伯が亡くなった翌年、佐野は佐伯祐三の絵について次のように語っている。
 <佐伯の繪には僕は豫てから音楽を感じてゐる。が、それはリズムといふ言葉では言ひたくない。音楽とリズムは放せない。が、佐伯はリズムある音楽といふより音だ。一つ一つのところから放つてゐるたまらない美音だ>

 そして、大阪の信濃橋洋画研究所では小出楢重(1887-1931)に師事することになる…。
 <小出氏は、その本式の方の仕事、油絵からいつても、日本洋画中、僕の最も尊敬する人の一人だ。~あんな大したくせをもつてゐて、そしてそれで本格をあすこまでに築いてしまつた作家、-即ち、よそにはない、ヨーロッパのどこにもあんなのはない、~僕は、絵は、その自分のくせをこめて、~それを本格にもつてゆく仕事でなきや嘘だと思つてゐる。>

 さて、下図の新生社の雑誌『女性』(1946年8月号)の表紙も佐野繁次郎であるが、人物の頭をカットするという大胆で斬新なレイアウトが異彩を放っている。
 また、「墨のデッサン」と題して(1)足をふく女、(2)着物をきんとする女、(3)荷物背負う女と、3ページにわたって作品が巻頭を飾っており、さらには、菊地寛の連載小説「瓶中の處女」のカットも描いていて、まさに「サノシゲ」ワールドのオンパレードになっているのだった。

◇雑誌『女性』 1946年8月号(表紙)
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◇「墨のデッサン」(1)足をふく女
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◇「瓶中の處女」
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 なお、この雑誌『女性』については、藤沢桓夫「君に告げん」(宮田重雄画)や小島政二郎「六月雪」(岩田専太郎画)も載っているなど、他にもいろいろと楽しめる内容になっている…。
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by suzu02tadao | 2012-10-26 14:44 | Comments(0)

『あまカラ』

◇『あまカラ No.54』 1956年2月号
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◇『あまカラ No.84』 1958年8月号
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 前回、『洋酒天国』をとりあげたので、その流れで『あまカラ』をとりあげたのだが、私がこの2冊を購入したのは、藤沢桓夫が執筆した「きつねうどん」と「野暮な酒」が、それぞれに掲載されていたからで、これらは後に随筆集『大阪 我がふるさとの』(1961年刊)の中に収められている。

 1951(昭和26)年8月に創刊された『あまカラ』は、1968(昭和43)年5月まで17年間にわたって、大阪・甘辛社から毎月5日に発行された月刊誌で、鶴屋八幡をスポンサーに持つ広報誌でありながら、執筆陣の豪華さ、内容のレベルは“広報誌”の域を超えており、『洋酒天国』と同じように、当時のこのような雑誌文化の豊かさを見せ付けている。

 モダンで洒落た表紙は、編集の中心人物であった大久保恒次(1897-1983)の装丁デザイン。
 大久保は関西の食通として有名で、『上方たべもの散歩』『うまいもん巡礼』」などの著作があり、今でいうフードコーディネーターの先駆けでもあった。

◇『あまカラ No.84』 目次
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 ここで装画を担当している山内金三郎(1886-1966)の経歴がおもしろい。
 大阪で生まれ、画業を志して上京し、小林古径、前田青邨、奥村土牛を輩出した梶田半古の門下となり、東京美術学校日本画専科に入学し、卒業後は大阪に戻り、大津絵、泥絵、絵馬、ガラス絵、郷土玩具などを扱う「吾八」を開店。画家としても文展に入選しているが、その後、この「吾八」の馴染みの客であった阪急百貨店の小林一三に招かれて、美術部の月刊PR雑誌『阪急美術』の編集長や古書店「梅田書房」のオーナーとしても活躍した。
 この「梅田書房」にいた廣岡利一が独立して開業したのが、美術古書籍及び美術工芸品を扱う「りーち」(現:株式会社リーチアート)で、私は昔から、梅田「阪急古書のまち」にあるこの店や兄弟店ともいえるギャラリーヒロオカをよく利用していたので、とても身近に感じるのであった…。

 この雑誌で長期連載されて好評を博した「食いしん坊」を書いた小島政二郎(1894-1994)は、1920年には『三田文学』編集委員になり、芥川竜之介、菊池寛らと交流し、また戦前から直木賞・芥川賞の選考委員になった小説家で、大正から昭和の文壇史に精通しており、この連載の中にも芥川や菊池など当時活躍した小説家がよく登場する。

 「食書ノート」の古川緑波(1903-1961)は、恰幅の良い体格にロイド眼鏡の丸顔がトレードマークで、昭和前期に「エノケン・ロッパ」と、同時期に活躍した榎本健一と並び称されて人気を争ったコメディアンだが、大の美食家でもあった。
 ちょうど、『あまカラ』に執筆していた時期は、持病の糖尿病の悪化に加え、あらたに結核を患い、体調の悪化と戦いながら活動していた時期であったが、「食」への飽くなき追求は衰えることなく、結局、亡くなる2年前の『あまカラ No.89』まで連載している。

 この『あまカラ No.84』の執筆陣を見ても実に多彩であるが、この他にも、吉田健一、戸塚文子、福島慶子、谷内六郎、幸田文、森田たまなど、食べもの随筆では定評のある豪華な執筆者がずらりと連なっていたのであった。
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by suzu02tadao | 2012-10-24 10:26 | Comments(0)

『洋酒天国』 1956年

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 前回とりあげた、1957(昭和32)年発行の『関西芸術座 No.3』をながめているうちに、同じ時期に発刊されていた『洋酒天国』のことを思い出した…。

 『洋酒天国』は、1956(昭和31)年4月、壽屋(現在のサントリー)から創刊された広報誌で創刊者は開高健、坂根進、柳原良平の3人。
 編集兼発行人は芥川賞作家となる開高健(1930-1989)で、後には直木賞作家となる山口瞳(1926-1995)が加わったことはよく知られている。

 家にあったものを取り出してきてみたが、「洋酒天国」のタイトル・ロゴは、なんと!これもまた早川良雄のデザインであり、なるほど、独特の手描き文字はまさにうってつけで…アートディレクター・坂根進のセンスがここにも光っていたのだった。

 今回とりあげたのは1956(昭和31)年6月発行の第3号で、表紙は、最近もトリスハイボールのCMでよく見かけるアンクル・トリスの生みの親・柳原良平のペーパークラフト作品、扉および本文のカットは坂根進が担当しており、ご覧のように、下図の豪華な執筆陣を見ただけでも、ほろ酔い気分になってくる…。
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 主な執筆者では…、まず、薩摩治郎八(1901-1976)は、1920年代にパリに渡り、華やかな社交界に君臨し、藤田嗣治など当時パリで活躍していた日本人芸術家を支援したほか、美術や音楽、演劇などの文化後援に惜しみなく私財を投じて、今にすれば約600億円を使うというその華麗で洒落た浪費ぶりから「バロン・サツマ」と呼ばれた人物である。
 この号より連載の「おとぼけ回想記」は本人曰く、そのパリ時代の酒についての、ウラみ、ツラみ、懐かしさを綴ったものであるそうな…。

 早川雪洲(1886-1973)は、日本人としてもっとも早い時代に国際的に活躍した映画俳優で、当初アメリカでスターダムに伸し上がり、第一次世界大戦後には、アメリカ国内のみならず世界的にも絶大な人気を誇った。第二次世界大戦中にはパリに居り、この頃同じくパリに住んでいた薩摩治郎八とも親交を持った。
 <飲み道楽である私は、海外生活四十年にわたって殆んど世界各国の酒を飲み歩いた。~>で始まる国際派俳優のウンチクは、当時はとても魅力的だったのではないかと思われる。

 春山行夫(1902-1994)は、最先端のモダニズム詩人、あるいは「セルパン」などでは編集者としても活動し、ヨーロッパの最新美術やシュルレアリスムの紹介にも力を入れた日本の初期現代詩運動の中心人物、オーガナイザーであり、『洋酒天国』の代表的な執筆者の一人である。

 双葉十三郎(1910-2009)は、淀川長治と並び称される映画評論家であり、またレイモンド・チャンドラーなど探偵小説の翻訳や評論により、戦後の日本にアメリカのハードボイルド小説をいち早く紹介した第一人者でもあった。
 ところで、早川雪洲もそうなのだが、アメリカのバーボン・ウィスキーのことをバーバンと表記しているところが時代を感じさせるが、それはそれで渋味を感じる。

 洋画家の三岸節子(1905-1999)は、戦前のモダニズムを代表する画家で夭折した三岸好太郎(1903-1934年)の妻であり、1939年より新制作派協会会員となっている。

 前回にこのブログでもふれた下着デザイナーの鴨居羊子(1925-1991)もイラストと文を載せている。
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 林龍作(1897-1960)はヴァイオリニストで、パリに留学した際には画家の佐伯祐三とも親しく交わっており、ここでは「西洋骨董巡礼」と題して、佐伯祐三が買ってきた「煙草壺」等について書いている。
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 なお、佐伯祐三の作品「オプセルヴァトワール附近」は、林龍作がその当時住んでいたホテル・ボーヴォワール6階52号室から見える風景を描いており、その部屋からの眺めが気に入った佐伯が、林に頼んで部屋の一画を借り、この作品を描いたということで、二人の親交の深さがうかがい知れる。

◇佐伯祐三「オプセルヴァトワール附近」
  1927(昭和2)年 (和歌山県立近代美術館蔵)
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 執筆者について書きだすと、どんどん脱線して『洋酒天国』から離れていくので、この辺で止めておこう…。

 さて、『洋酒天国』は創刊当初の発行部数は2万部程度に過ぎなかったが、宣伝臭の無い洒脱な内容が人気を集め、最盛期には発行部数20万部を誇り、1963年1月に第61号で休刊した。
 その後、日本は高度経済成長期を迎え、またバブル時代を経て、ワインやウィスキーなどの洋酒はこの当時に比べればとても身近なものとなり、国際的なソムリエコンクールでは日本人の優勝者まで出すようになったが、現在でも『洋酒天国』を楽しく読めるのは、それぞれが洗練されたユーモアと遊び心に満ちた内容になっているからなのだろう。
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by suzu02tadao | 2012-10-20 15:37 | Comments(0)

『関西芸術座 No.3』 1957年

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 この冊子も、四天王寺の古本祭りで見つけたもので、早川良雄がデザインしたパンフレットと同じ均一台にあったものだ。
 表紙の絵に魅かれて確認してみると、なんと意外にも作者は鴨居玲(かもい れい)であった。

 鴨居玲(1928-85)は、北国毎日新聞記者であった父親の赴任地・金沢(一説によると大阪)で生まれ、金沢、ソウルで小学校時代を過ごした後、大阪に移り、1940(昭和15)年、関西学院中等部に入学。その後、再び金沢に転居し、1946(昭和21)年に金沢美術工芸専門学校に第一期生として入学、宮本三郎に師事。
 1952(昭和27)年に西宮へ転居した後は、神戸やその近郊を拠点にし、田村孝之介が率いる六甲洋画研究所や神戸・二紀会などを中心に制作活動を行っており、この表紙の絵はその頃のものである。
 1959(昭和34)年に渡仏。そして1969(昭和44)年には「静止した刻」(下図)により、具象絵画の登竜門である安井賞を受賞。主にこの作品のように社会や人間の闇を描いた画家であった。
 しばしば、新天地を求めてパリ、南米、スペインなど海外に中長期滞在しつつも、1985(昭和60)年に急逝するまで、国内では神戸を生活と創作の拠点にしていた。

◇「静止した刻(とき)」1968(昭和43)年
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 なお、姉の鴨居羊子は下着ブームの火つけ役を果たした下着デザイナー。
 余談になるが、早川良雄は鴨居羊子の下着ファッションショー「チュニックショー」の演出・舞台デザインを手がけている。

 さて、1957(昭和32)年11月15日発行のこの季刊誌『関西芸術座 No.3』(12ページだけのものだが…)の内容であるが、この年にラジオドラマ作品『つばくろの歌』で芸術祭文部大臣賞戯曲部門を受賞(次席は井上ひさし)、また関西芸術座で戯曲「虫」を発表するなど鮮烈なデビューを果たした、若き日(23歳)の藤本義一が大きくクローズアップされている。
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 巻頭には、藤本義一・作である関西芸術座公演の「虫」(下図・上)と「つばくろの歌」(下図・下)の舞台写真が掲載されている。
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 他にも、この年に『暖簾』を刊行して作家デビューし、翌年に『花のれん』により第39回直木賞を受賞した山崎豊子と関西芸術座の女優との座談会「女であるということ -女優と生活-」が掲載されている。
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 この当時は、まだマス・メディアによる文化の東京一極集中が行われる以前であり、まだまだ、関西の文化活動も元気だったことが伝わってくる…。
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by suzu02tadao | 2012-10-17 13:20 | Comments(0)

『 新制作派 1 』 1936年

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 『新制作派 1 』は、「新制作派協会」の創立の際に発行された第1回新制作派図録1号である。

 この冊子も、四天王寺の古本祭りの均一台で見つけたもので、以前に当ブログでとりあげた内田巌や小磯良平が創立会員として名を連ねているところから、とりあえず買ったのだが、「日本の古本屋」で調べてみるとけっこういい値段がつけられており、今回の一番の掘り出しものだったようだ。

 「新制作派協会」は、現在の「新制作協会」で、平成23年10月15日~平成24年1月9日には創立75周年を記念して、神戸にある「小磯記念美術館」で、特別展「昭和モダン 藤島武二と新制作初期会員たち」が開催されている。

 この展覧会の内容紹介の中で、<近代的な市民文化が華開く一方、戦争の影が忍び寄りつつあった1936年、美術界統制に抗し、「反アカデミックの芸術精神」を掲げて、伊勢正義、猪熊弦一郎、内田巌、小磯良平、佐藤敬、三田康、鈴木誠、中西利雄、脇田和の9名が集まり、新しい美術団体・新制作派協会(現新制作協会)が結成されました。>とあるように、この『新制作派 1 』に掲載されている結成の際つくられた協会規約とマークは、現在も「新制作協会規約」及びシンボルとして継続されている。

【新制作派協会規約】
1. 我々は一切の政治的工作を否定し、純粋芸術の責任ある行動に於て新芸術の確立を期す。
1. 我々は従って「反アカデミック」の芸術精神に於て官展に関与せず。
1. 我々は独自の芸術行動の自覚に於て、我々の背馳すると認めたる一切の美術展覧会に関与せず。
1. 我々は常に新しき時代の芸術家の結合を与望し、年一回以上の公募美術展覧会を最も厳格なる芸術的態度に於て開催し、以て我々の芸術行動の確立を期す。
1. 我々は以上の芸術的主張に於て新制作協会を盟約す。


 また、協会の支援者である藤島武二をはじめ全メンバー9名の作品とコメントが掲載されているが、主な作品は以下のとおりである。
※『新制作派 1 』では、全ての図版はモノクロ印刷

◇「二人」猪熊弦一郎
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◇「キャバレー」伊勢正義
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◇「夏の海岸」中西利雄
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◇「化粧」小磯良平
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◇「独唱」佐藤敬
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 コメントについては、藤島武二が「帝国美術院改革に関する私見」と題して意見を述べている他は、各メンバーのほとんどが、身辺雑記風に近況を述べる中で、さりげなく自身の画業の方向性を示したものが多いのだが、内田巌は下記のとおり、はっきりと「反アカデミズム」を表明している。

日本アカデミズムの特殊性(※抜粋)  内田巌
 <一つの画派がその勢力を時の政治的権力によって援助されて次第に画壇を支配すると、その画風の踏襲が技術的マンネリズムの中にその芸術的新鮮さを失ひながらも、その背景たる政治的権力(官僚)によって、その画風の技術的権威を即芸術的権威の如く誇張する。~(略)~
 伝統のあるフランスやイギリスのアカデミーとは異なるこの国の官展は、官展と謂ふ威風のみを身に付けた大礼服を着たチンドン屋の如きものである。~(略)~自分達が今迄官展に居った癖に官展を非難する事は甚だ矛盾に見えるかも知れないが、官展にゐたればこそ自分達の体験が官展を否定する判然したポイントを得たので堂々と自説を述べ得るのだ。新制作派協会は以上の認識の上に立脚して、日本アカデミズムを否定するのである。>

 このような率直さが、結局は敵をつくることになったのではないのだろうか…。

 下鴨納涼古本まつりで内田巌著『絵画の美(油絵編)』 を買っていなければ、恐らく今回も『新制作派 1 』は買っていなかったと思うので、あえて書くが、内田巌については、「Wikipedia」等でも、戦争画を量産した藤田嗣治の戦争責任を糾弾し、藤田をフランスに追放した張本人であるような書き方をされているが、実際のところは、藤田嗣治にしてみれば、親友であった内田巌にそのような役割を負わせ、全てを内田のせいにした当時の日本画壇に嫌気がさしたというところが本当ではなかったかとも思える。

 なお、『絵画の美(油絵編)』(昭和18年刊)の中で、内田巌は戦争画については次のように記している…。
 <はげしい戦の中にも涙ぐましい皇軍の美しい人間的な挿話が伝えられている。しみじみした画因も、戦争の間には沢山にあるやうな気がする。日本は今度の聖戦で宣撫工作を扱った向井潤吉の『蘇民』、また支那事変から大東亜戦争にかけて小磯良平の『兵馬』、藤田嗣治の『シンガポール最後の日』、中村研一の『コタバル』、宮本三郎の『山下、パーシバル両司令官会見図』等の名作を残した。
 ~(略)~明治戦争画の傑作『三笠艦橋の東郷大将』は、当時の単なる記録としてばかりでなく、「皇国の興廃この一戦にあり」といふたくましい精神を強く我々に与へるものである。>

2 戦争画について(第五章 絵にはこんな働きもある 一 絵画は戦ふ)より
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by suzu02tadao | 2012-10-14 19:23 | Comments(0)

早川良雄 「パンフレット表紙 1958年」

◇第12回東京交響楽団関西定期演奏会 パンフレット表紙 1958年
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◇ITO KAJI MORITA 3 GROUP MODERN DANCE RECITAL パンフレット表紙 1958年
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 今回の「第12回 四天王寺 秋の大古本祭り」は、私にとっては久々に良い買い物ができた古本市であったが、特に上図の早川良雄がデザインした2点を均一台で見つけた時には、思わずガッツポーズをしたくなるくらいに嬉しかった。
 後で、帰宅してから調べてみると、「早川良雄の時代-デザイン都市・大阪の軌跡」展覧会(2002年、ATCミュージアム)の図録には、この2点の内のひとつ「ITO KAJI MORITA 3 GROUP MODERN DANCE RECITAL パンフレット表紙 1958年」が載っており、この催しのポスターも制作していたようである。

 なお、この展覧会図録の巻末には早川良雄年譜が載っており、以前、当ブログ 『広告界』 の中で早川良雄にふれたが、やはり学生時代から活躍していたことがわかったので、以下、大阪市立工芸学校時代についての年譜を抜粋してみた。

早川良雄年譜(抜粋)
1931(昭和6)年:14歳
4月 大阪市立工芸学校工芸図案科に入学
1934(昭和9)年:17歳
大阪府体育振興会主催スポーツ芸術展(学生生徒部)で佳作作品賞受賞
大阪府工芸展覧会 第10回展に入選
朝日新聞社懸賞募集の新聞広告図案で佳作賞を受賞
東京日日新聞社主催 第2回全日本学生新聞広告制作競技で佳作賞受賞
商業美術連盟主催 第2回商業美術連盟展に入選
1935(昭和10)年:18歳
大阪府産業工芸博覧会で妙技三等賞を受賞
1936(昭和11)年:19歳
3月 大阪市立工芸学校図案科を卒業


 早川良雄は、わが国のグラフィック・デザイン界の創成期-いわゆる第1世代に属する最後のデザイナーといえるが、今竹七郎などと同じように、その活動範囲はグラフィック・デザインだけに止まってはいない。
 戦後、1951年に「日本宣伝美術会(日宣美)」の創立メンバーとして活躍する一方で、同年に、画家・版画家、写真家、更には舞踊家や評論家といった芸術全般にわたる人々が参加した「デモクラート美術家協会」にも参加している。
 「デモクラート美術家協会」を代表するメンバーには瑛九、靉嘔、池田満寿夫、泉茂など、その後の日本の現代美術を切り開いた人々がおり、今回とりあげたパンフレット表紙のデザインもそういったメンバーとの交流の中から生み出されたものであるようにみえる。

 ところで、私が早川良雄デザインの演奏会パンフレットを見つけることができたのは、実は、山名文夫デザインの演奏会パンフレットを以前から探していたからである。
 山名文夫といえば、資生堂のマークなどに代表される繊細な女性美を表現したイメージのデザインがよく知られているが、数年前、下図のような演奏会パンフレットのデザインを手がけていることを知り、古本市ではいつも気にかけていたのであった…。

☆パンフレット表紙デザイン:山名文夫
 「都民劇場音楽サークル定期公演」(1957~1963年)
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 早川良雄にしても、山名文夫にしても、第1世代に属するデザイナーの活動及び表現の幅の広さには感心するばかりではあるが、やはり、1920~30年代というモダニズムの隆盛期を経験しているからではないかと思われる。
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by suzu02tadao | 2012-10-11 15:30 | Comments(0)

「ウィリー リバーの唄」 -WEARY RIVER-

◇楽譜「ウィリー リバーの唄」表紙:1929(昭和4)年
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 これは、映画『ウィリー リバー』(※現在は<ウィアリー リヴァー>と表記する事が多い:原題 Weary River)の挿入歌である。
 前回、戦前の日本では海外の映画は約1年遅れで公開されていたと書いたが、この映画は、米国とほぼ同時期に公開されている。
 1929年発行の「松竹座ニュース【7/18~7/24】〔神戸〕」には『ウィリー リバー』の予告が載っているが、下図にもあるように、松竹座のPR月刊誌『松竹座グラヒック』7月号も「ウィリー リバー」特集号になっており、いかにこの映画が当時の話題作であったのかがわかる。
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 楽譜の表紙にアップの顔で登場している主演のリチャード・バーセルメス(Richard Barthelmess、1895-1963)は、サイレント映画の時代に活躍したスターで、巨匠D・W・グリフィス監督作の『散り行く花』(1919年)と『東への道』(1920年)の2作では当時の大スター、リリアン・ギッシュの相手役を務めるなど、当時はとても人気があったようだ。
 しかしながら、この映画についても「ヴァイタフォン式発声映画」とあるように、トーキー映画が主流の時代になると、数年のうちは多くの映画に主演したものの、演技がトーキーに合わなかったために、この後1930年代中頃には半ば引退状態になったという。

 そういえば、前回にとりあげた『雨に唄えば』も、サイレント映画からトーキー映画に移りかわるこの時代の俳優の悲喜劇を描いたものであった。

 『ウィリー リバー』は日本ではあまりヒットしなかったようだが、この映画を監督したフランク・ロイドは、米国第2回アカデミー賞では、『ウィリー リバー』の他『情炎の美姫』『愛の曳き船』の3本が同時に監督賞にノミネートされ、『情炎の美姫』でアカデミー監督賞を受賞している。

 さて、この「松竹座ニュース」には、他に『モン・パリ(1927年)』の続編ともいえる、フォリー・ベルジェールの舞台でジョセフィン・ベーカーが出演するレヴュー映画『ダンセ・パリ』が紹介されている。
 すでにジョセフィン・ベーカーは、ピカソやヘミングウェイなど同時代の作家、画家、彫刻家にとっての美の女神、大衆にとってのセックス・シンボルとなっており、まさに人気がピークに達していた頃であった。
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◇「松竹座ニュース」【7/18~7/24】〔神戸〕:1929(昭和4)年
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by suzu02tadao | 2012-10-08 11:15 | Comments(0)

「雨の中に唱ふ -Singin' in the Rain-」

◇楽譜「雨の中に唱ふ」表紙:1930(昭和5)年
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 入手した時には、まさかこの楽譜の曲が、ミュージカル・スターのジーン・ケリーが土砂降りの雨の中で、タップダンスを踊りながら歌う「雨に唄えば」と同じ曲であるとは思わなかった…。
 そう、映画史に残る名シーンで歌われていた、あまりにも有名なあの曲である。

【参考】Singin' in the Rain ジーン・ケリー - YouTube

 上図の表題に<ハリウッドレビュウ・中の主題歌謡>とあるように、1929年に製作・公開されたMGM映画『The Hollywood Revue of 1929』で用いられて以降、この曲はアメリカではスタンダード・ナンバーになっており、それを、1952年に主題歌にして製作・公開したのが、ミュージカル映画の傑作として知られる『雨に唄えば』なのだという。

 この曲には下記のような訳詞がつけられており、日本ではビクターレコードから発売されていたようだが、歌手が誰であったのかなど詳しいことはわからない。

◇「雨の中に唱ふ(Singin' in the Rain)」 <訳詞:平野富士夫>

 雨の中に 歌をうたうよ
 さはやかな 私の心
 くらい空 気に止めぬ
 陽(ひ)の光は この胸に
 烈(はげ)しい雨に 人も去る
 さあおいで この胸に
 手をとって 歌をうたはう
 ふたり 雨の中に


 ところで戦前の日本では、海外の映画は約1年遅れで公開されており、この楽譜が発行されたのと同じ1930年の「松竹座ニュース【3/20~3/26】〔道頓堀〕」には、MGM映画『The Hollywood Revue of 1929』は、邦題『ホリウッドレヴュー』となって近日封切映画として紹介されている。
【※注】日本語表記の場合はハリウッドの場合も、ホリウッドの場合もあり、この楽譜でも表題ではハリウッドとあるが、他の表記ではホリウッドとなっている。
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 <メトロ社の名優、ことごとく綺羅星のごとく、そろい踊り唄う現代の万華鏡!>とあるように、『ホリウッドレヴュー』はMGMのオールスター顔見世映画として製作されたものであった。

 さて、この楽譜の装丁デザインの作者(Hサイン)は誰なのかはわからないが、この『ホリウッドレヴュー』が紹介されている「松竹座ニュース」(下図:左)をはじめ、他の1930年発行の「松竹座ニュース」表紙デザインと楽譜には共通する特徴が見られる。
 どうも、垂直線と水平線に円形を組み合せたスクエアな画面構成を基本とする抽象表現がこの年の流行りだったようである。

「松竹座ニュース」1930年
【3/20~3/26】、【1/7~1/13】
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「松竹座ニュース」1930年
【1/7~1/14】、【7/3~7/9】
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by suzu02tadao | 2012-10-05 16:50 | Comments(0)

「蒲田行進曲」

◇楽譜「蒲田行進曲」表紙:1929(昭和4)年
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 「蒲田行進曲」は、松竹キネマ蒲田撮影所の所歌で、映画「親父とその子」の主題歌として、1929(昭和4)年に発表され、同年8月、川崎豊と曽我直子のデュエットで、日本コロムビアからレコードが発売され流行歌となった。
 1982(昭和57)年、つかこうへいの小説を原作として大ヒットした同名の映画の主題歌(歌手:松坂慶子・風間杜夫・平田満)としてリバイバルされたものが有名で、JR蒲田駅では発車メロディとして使用している。

◇「蒲田行進曲」歌詞<唄 川崎豊/曽我直子 作詞:堀内敬三 作曲:R.Friml>

虹の都 光の港 キネマの天地
花の姿 春の匂い あふるるところ
カメラの眼に映る かりそめの恋にさえ
青春もゆる 生命(いのち)はおどる キネマの天地

胸を去らぬ 想い出ゆかし キネマの世界
セットの花と 輝くスター ほほえむところ
瞳の奥深く 焼き付けた面影の
消えて結ぶ 幻の国 キネマの世界

春の蒲田 花咲く蒲田 キネマの都
空に描く 白日の夢 あふるるところ
輝く緑さえ とこしえの憧れに
生くる蒲田 若き蒲田 キネマの都


【参考】蒲田行進曲 - YouTube

 さて、この楽譜の装丁デザインにあるように、当時のキネマ(映画)はモダンで華やかなあこがれの世界であったようだが、これは斎藤佳三ではなく、藤沢龍雄の作品である。

 藤沢龍雄(1893-1969)は、森永のエンゼルマークを考案したデザイナーとして知られており、人物画が得意で、キンダーブックなどの絵本画家としても活躍した。
 1926年には、当時第一線で活躍していた濱田増治、多田北烏、室田久良三とともに「商業美術家協会」を設立している。
 1920年代も後半になると、日本のグラフィックデザイン界も新たなる局面を迎えており、それまでは良くも悪くも欧米のデザインをいち早く取り入れて、それを消化することに懸命であったのだが、この頃より、「日本独自のモダン・デザイン」を目指しはじめたのだった。

 藤沢龍雄も、『現代商業美術全集(第2巻)実用ポスター図案集』(アルス、1928年刊)の中で、自身の作品を次のように解説している。

日本趣味を主題にしたポスター
 現時日本のポスターがことごとく西洋の模倣と解されている際、日本人が日本人の持つ味、及びその線なり色彩で表現しようと試みたのがこのポスターである。
~(略)~日本の版画と近代味の混和が、この作品の狙いどころである。化粧品、呉服店等のポスターもこの辺からソロソロ新しい作風を示して行ってもいいと思われる。

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各種実用ポスター四種
 応用の広い、そしてポスターとしては最も危な気のない定則的模範的なものとして、四種類を創作されたものである。縦長のポスターとして実用に向く点は多かろう。

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by suzu02tadao | 2012-10-02 15:43 | Comments(0)