1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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<   2012年 11月 ( 10 )   > この月の画像一覧

下手もの漫談

◇東洋げてもの展覧会(昭和8年)図録より
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 芸術家が最上の芸術を作ろうとして出来上がった手数のかかった、高尚、高貴、高価な品物ではなく、ただ食事のために作った茶碗や食卓、酒の壺、絵草紙や版画の類あるいは手織木綿のきれ類といった如き日常の卑近なるものでありながら、その職人の熟練やその時代の美しい心がけなどがよく現れた結果、芸術家の苦心の作品よりももっと平易で親しみやすい、気取らぬ美しさが偶然にも現れているといった品物に対して、骨董屋は下手(げて)ものと呼んでいるように思う。
 小出楢重著「下手もの漫談」より

 上図は、昭和8年11月4日から12日まで、東京・上野の松坂屋で開催された「東洋げてもの展覧会」の図録の一部であるが、ここにある通り、陶磁器では、志野、織部、絵高麗、李朝染付の他、均窯、唐三彩、呉須赤絵、古染付など、今日では1点がウン百万円、なかにはウン千万円もするようなものも掲載している。
 もちろん、生活用具である箪笥、背負籠、自在など、今日でも民芸のジャンルに入っているものもあるのだが、この当時は、茶の湯の道具として特に筋の良い伝世品以外のものはたとえ古美術品であろうとも、「げてもの」の範疇であったようなのだ。

 天才的な目利きであったとされる青山二郎が編集した中国古陶磁の図録『甌香譜』は、その当時に新しく生まれた言葉である「鑑賞陶器」として、茶の湯の道具とは別の焼き物の在り方を示したものであったのだが、まさに既成の美の価値観を揺さぶるものだった。
 このような時代背景を考慮に入れれば、青山二郎が始まりの頃の民藝運動に関わっていたというのも理解できるような気がする。

 あるいは、柳宗悦が当初、「下手ものゝ美」と題して発表した民藝運動の主意書ともいえるものを、「雑器の美」に変更したのも、その当時のいわゆる茶人や数寄者の目利きが見出したものと混同しないためであったと思われる。

 小出楢重は「下手もの漫談」の中で次のようにも書いている。
 私は世界を美しくするものは何も本金であり本ものの真珠でも、ダイヤモンドでもないと思っている。それは、土であり石ころであり、粘土であり、ガラスであり、一枚の紙であり画布である。ただそれへ人間の心が可愛らしく素直に熱心に働いた処に、あらゆる美しきものが現れるものだと考えている。

 この部分は私の特に好きな箇所なのだが、ここでいう<人間の心が可愛らしく素直に熱心に働いた処>というのは、柳宗悦がいうところの「作物の後半生」であることが多いのではないかと思われる。

 そんなことを考えながら、「古道具その行き先」展の図録のページをめくるのもまた楽しい…今日この頃です。
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by suzu02tadao | 2012-11-26 10:43 | Comments(0)

古道具その行き先 -坂田和實の40年-

◇「古道具坂田」カレンダー(1993年)、展覧会案内状
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 東京に行ったついでに、松濤美術館で開催の「古道具その行き先 -坂田和實の40年-」も見てきた。

 目白にある「古道具坂田」に初めて行ったのは、1993年だった。
 その当時は、わざわざ関西方面から店を訪れる人はとても珍しかったようで、私が大阪から来たことを告げると、とても感激されて、(何も買わなかったにもかかわらず…)上図のカレンダーや展覧会の案内等をいただいたのだった。
 これらは、今回の展覧会でも参考資料として展示されており、当時から一貫して変わらない坂田さんの姿勢の証にもなっているようだ。

 B1階と2階の展示会場を幾度も行ったり来たりしながら見たのだが、同じ物でも、見る角度や距離によって印象が違って見えたり、雑誌等で見て知っていた白洲正子旧蔵の奈良時代の土管が、予想よりもこじんまりとしていたのが印象的だったりで、とても楽しいひと時を過ごすことができた。

 展覧会図録で、坂田さん自身もそして解説者も書いているように、展示されている物は、一見、世の中の基準からはかけ離れた観点で選ばれているようにも見えるが、それらには、むしろ日本人が古くからつちかってきた「ものさし」、特に千利休をはじめとする茶人や数寄者たちと共通する伝統的ともいえる価値基準に根差した美しさがあると思える。
 <~物の美しさは見る人の感受性の範囲内でしか見えません。このことは、見る側が成熟し、自身を確立してゆかないと、いつまでも他人の美の基準や、品物にくっついている肩書きに依りかかって物の美しさを判断することになってしまいます。~(略)~この展示がご覧戴いた方にいくらかでも生活の楽しみの幅を広げるヒントを与えることができれば、それは企画者の一人として望外の幸せだと思っております。
  (「古道具坂田」主人)>
  展覧会図録より

◇木製面(インドネシア:18世紀)「古道具坂田」カレンダーより
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 会場となった松濤美術館は白井晟一の設計で、決してニュートラルなものではなく、クセの強い建物だったが、展覧会を見た後では、風化して毒気が抜けたように見えたのは錯覚だったのだろうか…。
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 下図は15年位前に大阪で買ったもの・・・。
 帰宅してからは、またとり出してきて、改めてしみじみと眺めている今日この頃なのです。
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by suzu02tadao | 2012-11-22 12:00 | Comments(0)

「自由学園」と遠藤新 <2>

◇男子部体操館 【1936(昭和11)年】
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 自由学園の美術工芸教育は、1932年に卒業生が、バウハウスのマイスターであったヨハネス・イッテンの学校「シューレ」で学び、その後も続いたイッテンとの親交を通じて築かれたのだという。

 また、自由学園の思想に共鳴した多くの芸術家が指導にあたっており、これまでの主な指導者は以下のとおりとなっている。
 山本鼎 石井鶴三 足立源一郎 吉岡堅二 深沢紅子 清水多嘉示 木下繁 滝沢具幸ほか

◇女子部体操館【1934(昭和9)年】
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 遠藤新は帝国ホテル建設を通じてフランク・ロイド・ライトから建築思想を学び、ライト帰国後もその精神を日本の風土と生活に生かすために精力的に活動を続けたが、自由学園の南沢キャンパスの校舎はその代表作のひとつである。

◇自由学園明日館 【1922(大正11)年】 (F.L.ライトと共作/重要文化財)
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by suzu02tadao | 2012-11-20 13:30 | Comments(0)

「自由学園」と遠藤新 <1>

 自由学園の南沢キャンパスの美術工芸展は、さながら、遠藤新(1889-1951)設計の建築とのコラボレーションの観がある。

◇女子部食堂 【1934(昭和9)年】
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◇女子部講堂 【1930(昭和5)年】
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 生活則教育という自由学園創立者の羽仁吉一・もと子夫妻の哲学に共鳴したフランク・ロイド・ライトとの共同設計による「明日館」と同様、この南沢キャンパスの建築群も学園の精神を象徴している。
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by suzu02tadao | 2012-11-19 14:20 | Comments(0)

自由学園美術工芸教育発表会

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11月16日(金)~18日(日)「自由学園美術工芸教育発表会」開催のご案内
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by suzu02tadao | 2012-11-14 15:15 | Comments(0)

「日々の絶筆」 井上有一

◇「貧」(1974年)
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 『日々の絶筆 -井上有一 全文集-』(海上雅臣編)を読むと、井上有一(1916-1985)がいかに長谷川三郎の影響を受けているのかがよくわかる。

 井上有一は、1951年に長谷川三郎を識ると、辻堂の住まいをしばしば訪ねるようになり、その年の11月、
 <京都墨美発行所における長谷川三郎先生の現代芸術についての講習会の節、偶々(たまたま)相会した草玄、大年、木子、子龍等は、各自作家としてのあり方について、具体的な形にまでは至らなかったが、同じ考えを抱いていることを知った。>

 翌1952年1月に、森田子龍らと京都・龍安寺に会合して墨人会を結成すると、
 <翌日の午後辻堂に着き、長谷川三郎先生をお訪ねする。床の間には橋田邦彦氏の幅「非工亦非匠雲構発自然」が、壁には良寛の額「頑愚信無比」が掲げられてある。先生は芸術家の真にあるべき姿を静かに説かれた。いつまでも先生と相対していたかったが、すでに十時を過ぎたので辞去した。
 凍った真暗な道を歩きながら、我等はさらに深く自省して、より真実に徹底せんことを語りあった。>


 また、1952年6月2日には、鎌倉近代美術館で「中国古陶器展」を見た後、森田子龍夫妻のお供で、長谷川三郎も同行して、大船山崎に北大路魯山人宅及びイサム・ノグチ宅を訪ねている。
 <~中国古陶器は素晴しかった。それから山崎に戻り、魯山人氏のお宅で、ノグチ夫妻、長谷川先生も来られて、いろいろお話を承わりながら御馳走になってしまった。古今の書家を否定し去る魯山人氏の鼻息には、さすがの森田大人もグーの音も出ない。淑子夫人の甲高い笑い声が一座を陽気にする。夕方、雨もあがって風の光る中を、蛙の鳴く田圃を渡って、向こう側のノグチ氏のお宅へ行く。天井の煤けたささやかな田舎家だ。座敷には氏の彫刻がたくさん置いてある。どれもこれも可愛らしくて楽しいように見えた。長谷川先生の屏風や掛物もあった。~>


◇「愚徹C」(1956年)「第4回サンパウロ・ビエンナーレ展」
  国立国際美術館蔵
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 井上有一は1916(大正5)年に東京下谷に生まれた。青山師範学校(現東京学芸大学)を卒業後は小学校教員をつとめながら、画家を志して方々の画塾や研究所を遍歴して歩いた。
 戦時中の1941(昭和16)年に書を始め、上田桑鳩について臨書を学んだ。
 戦後、日展、毎日書道展に出品したが、書道界の古い体質が合わず、上記にもあるように、1952(昭和27)年、森田子龍、江口草玄、中村木子らと京都・龍安寺に会合して墨人会を結成、前衛的な書によって注目を集めるようになった。
 そして、墨人会での活動が認められて、1957年のサンパウロ国際ビエンナーレ展に出品するなど、国際的にも活躍した。
 一方で、文字本来の意義を再認識するなど、絶えず新たな問題意識を自己に課しつつ領域を拡大し、晩年には、鉛筆やコンテによる作品にも、独自の境地を示した。

◇「魚行水濁」(部分)コンテ書(1984年)
  京都国立近代美術館蔵
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by suzu02tadao | 2012-11-13 13:50 | Comments(0)

「師 小出楢重」 長谷川三郎

◇『みずゑ 511』(昭和23年5月号)表紙
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 「君みたいな、ひとの言うこときかんヤツは、破門や。もう エーモッテクナ(絵を持って来るな)。遊びに来るのやったら、かめへん。友達にしたる。」
 生意気盛りの高校生、大男の私を見上げる様にして、小男の小出先生は、あらゆる毒舌面罵の末、最後の宣告を下された。


 この『みずゑ 511』は一冊まるごと小出楢重の特集で、おそらく、四天王寺の古本祭りの均一台にもあったと思うのだが、裏表紙は取れて無いやら、表紙にも少し破れがあるなどで、まったく見向きもしなかったのだった。
 ところが、この間の天神橋の古本市で、なにげなく手にとってみたら、なんと!なんと!長谷川三郎が6ページにもわたって「師 小出楢重」と題して書いているではないか・・・!。
 しかも、冒頭に挙げた文章からはじまっていて・・・、そういえば、長谷川三郎も小出楢重に師事していたんだ…と、改めて思いなおして手に入れて読んでみると、これがすこぶる面白いというか…、小出楢重と長谷川三郎が非常に深く繋がっていたことを知って、感動さえしてしまったのだった。
 内容的にはこれが本当の掘り出しものであり、まさにボロは着てても心(内容)は錦・・・の一冊であった!?。

 さて、その内容はというと・・・
 <画家 小出楢重 に対する正しい評価は未だ為されていない。
 先生の作品の七八割は「裸婦」で占められている。黒田清輝の「朝粧」が人々を驚かしてから今日まで、日本人「洋画家」によって、相当多数の「裸婦」が描かれて来た。而も、日本人「洋画家」の何人が先生ほど執拗に食いさがって「裸婦」を描いただろうか。>
・・・更に続けて、
 <「洋画」の「輸入」は「裸婦の芸術」「ギリシャ・西洋のヒューマニズム芸術」の「輸入」>であり、
 <このような「洋画」の「輸入」の大きな使命と正しい意義に対して、今迄に、「裸婦の画家」小出楢重以上に忠実な「洋画家」が幾人あっただろうか。>

 そして、家が近かったこともあり、しょっちゅう小出楢重のアトリエに通い、年間を通して制作の現場に接していた長谷川三郎は、その作品については次のように述べている・・・
 <あの、どこかに不思議なユーモアをたたえ、高雅な趣味に守られた美しい絵、あれ等の、どれ一つも、激しい苦闘の成果でないものはないのである。妥協もごまかしもない深い凝視、綿密な計画、執拗な食い下がり。而も、他に対してよりも更に酷しい先生の自己批判の目を漸くくぐり得て残るものは、一年数点の作品であった。>
 <「お梅の像」や晩年の裸婦の傑作群に見える異常にまで鋭敏な感覚や神経を見る時、これ等をもっと徹底的に露出せしめた「天才の道」の方がむしろ先生に適し、少なくとも、その道を選ばれた方が楽であったのではないかと思われるのである。>
 しかし、
 <如何に鋭く美しい感覚や神経でも、それが作品の表面に露出する事を、嫌うと云う以上に軽蔑されたのであった。>
 <私は、先生の一生を崇高なる悲劇であったと思っている。あの小柄な虚弱な体で、あの高い精神を、あの様に堂々と立派に正しく表現する為に-->

◇小出楢重「裸婦」(『みずゑ 511』より)
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 小出楢重(1887-1931)に関しては当ブログでも以前にとりあげたことがあり、その中で、小出楢重がモダニズムと格闘したと書いたが、これを読むと、それがいかに凄まじいものであったのかということがよくわかる。

 長谷川三郎は東京帝国大学を卒業した1929年に、ヨーロッパに向けて旅立つのだが、出航の朝、小出楢重の家に挨拶に行ったのが最後の別れとなる。
 <私は最後に見た先生の黒い黒い眼を忘れる事が出来ない。又、面と向かっては「破門や」とまで痛罵しながら、陰で奥様や友人に洩らされた私に対する不当に過分の言(コトバ)をあとから聞かされる毎に、身の引きしまる思いがするのであった。それと同時に、現在まで、思いがけぬ時に人から「君はやはり小出楢重の弟子だな」と云われてハッとした事も再々であった。>
 それに続いて・・・
 <私は、小出先生の弟子であった事を、終生の最大の幸福と感謝している。同時に、終生の最大の誇りとしている。>と結んでいる。

◇小出楢重「雪の市街風景」(『みずゑ 511』より)
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 長谷川三郎(1906-1957)は、この文を書いた時期に、東洋芸術とギリシャ・イタリア・ルネサンスに代表される西洋芸術の本質について比較しながら日本の抽象絵画のあるべき姿を追求していた。
 そして、その後、書道に行き着き、日本の禅僧の書に高い精神性と芸術性を見出すのだった。
 長谷川三郎から良寛と白隠の書を見せられたイサム・ノグチは、その書の精神性の高さに感動したという。
 そして、書家の井上有一や須田剋太らにも多大な影響を与えたのだった。

 しかしながら、以前にも当ブログで少しふれたが、結局、長谷川三郎は、志半ばでアメリカで客死するのであった。
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by suzu02tadao | 2012-11-10 11:50 | Comments(0)

グラフ誌『ホーム・ライフ』

◇『ホーム・ライフ』(昭和12年8月号)表紙
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 京都・知恩寺の「秋の古本まつり」は今回が初めてだったので、最初は訳がわからずに、あっちこっちとうろうろしていたのだが、なんとか…やっと、以前から探していた戦前のフォトマガジン『ホーム・ライフ』を購入することができた…。

 『ホーム・ライフ』は昭和10年8月~昭和15年12月まで発行されており、当時の広告のキャッチコピーに「美しい写真を主とした家庭雑誌」とあるように、『近代大阪』の著者であり、当時は大阪毎日新聞社の写真部長であった北尾鐐之助が一貫して編集にあたっていたグラフ誌で、数年前には柏書房から復刻版も発刊されている。

 表紙を担当した画家には藤田嗣治、高岡徳太郎、野間仁根、鈴木信太郎、海老原喜之助など錚々たるメンバーが名を連ねていて、この号は野間仁根(のま ひとね、1901-1979)の作品「夏の朝」だが、森口多里が『美術五十年史』(昭和18年刊)で、<野間仁根は宝石のように強い色と筆触の細かな分割とによって自然を悦楽的な韻律に化する。>と評したのが頷ける作品で、表紙だけ観ても鑑賞に堪えるものになっている。

 この雑誌は、当時のセレブ向けに発行されたもので、皇族・華族・実業家・大学教授らの上流階級の家族や趣味、スポーツ等の生活の写真が満載で、ページをめくるだけで目の保養になるのだが、そんな中にも、さすがに北尾鐐之助だけあって、日本の写真界の先駆者である下岡蓮杖の特集記事を載せており、また編集後記でも下記のようにふれていて、興味深く読むことができた。

◇「下岡蓮杖翁を偲ぶ -わが国写真術の鼻祖-」より
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 <写真の中に蓮杖翁の旅姿の記念撮影があるが、そのポーズの自然さには、驚かされる、当時の戸外人物としては実にやわらかで、今日の新聞写真班のスナップ写真と何等異らぬほどのうまさをみせている、こういう写真をみると蓮杖という人が非常な趣味家であったという以外、一面お芝居好きな「芸」というものを心得ていた人であったということを想像することが出来る。>

 他にも、ちょうど、この7月1日に「浅草国際劇場」が開場していて、その紹介記事を載せているが、こういったタイトルや写真の紙面レイアウトにも、モダン・ジャーナリストのさきがけであった北尾鐐之助のセンスが光っている・・・・。
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 裏表紙の広告も、創刊号からほぼ1年間、表紙を担当した高岡徳太郎の鮮やかな絵が使われていて、本当に一冊まるごと楽しめるものになっている。
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 この『ホーム・ライフ』と同じ棚に、モダンな表紙の『あまカラ』があって、安かったので中身も確かめずについでに購入したのだが、後でみると、ちゃんと藤沢桓夫が執筆したものが載っていて、そんなこともありとても良い気分で買い物ができた古本市であった…。
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 お寺特有?の会場風景あれこれ…四天王寺とはまた違った趣がある・・・。
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 知恩寺周辺も少しぶらぶら…。
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by suzu02tadao | 2012-11-07 12:30 | Comments(0)

『怪奇美の誕生』 園頼三

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 ここのところ関西の各地では古本市が目白押しで、私も大阪と京都で開催の3ヵ所に行ったのだが、最初に行った「本で創る部屋&古本市」で、この『怪奇美の誕生』に出会い、なかなか幸先の良いスタートを切ったのだった…。

 著者である園頼三(その らいぞう、1891-1973)については、私は全く知らなかったのだが、タイトルと装幀の雰囲気に魅かれて、とりあえず中身を見ると、エゴン・シーレについて書かれており、作品も図版入りで載っていたので、改めて刊行年(昭和2年)を確認して、ちょっと驚いた…。他にもムンク、ゴヤ、ヒエロニムス・ボッシュなどもとりあげており、値段も上図のような状態のため、それほど高価でもなく、即座に購入を決めたのだった。

 帰宅してから、読み進めるうちに、シーレについて書かれた「絵画上のエロティック」の中で、例えばグスタフ・クリムトと比較しながら述べている次のくだりなど、実に的確な批評になっていて感心した。
 <クリムトがエロティックを外へ外へと追うてゆくのに反しエゴン・シヰエーレは、内へ内へと求めてゆきます。末梢神経へ皮膚へそれから更に皮膚から着物へエロティックの電流を導き出し、押し拡げて行くのはクリムト。エゴン・シヰエーレの方では生の根元力(ウルクラフト)としてエロティックを見てゐます。それが人間に襲ひかかるその凄まじい力をシヰエーレは見詰めてゐます。相反してゐながらクリムトとシヰエーレは深く結び付いてゐます。クリムトなしにシヰエーレを想像できない位です・・・・・。~>
※1927(昭和2)年の雰囲気がわかるように、人名表記等は原文のままにしています。


◇エゴン・シーレ「裸婦」(『怪奇美の誕生』より)
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 エゴン・シーレが、日本でもよく知られるようになったのは、1970年代になってからだったはずで、すでに1920年代にこのように紹介されていたことを知った私はある種の感動さえ覚えたのだった。

 園頼三は、京都帝国大学卒の美学者で、心理学的・現象学的な解釈からハルトマン、ハイデッガーらの存在論的美学にまで研究を深めたということだが、この本を読みながら、同じように心理学の見地から美術評論を行い京都市立絵画専門学校校長を務めた松本亦太郎のことを思いだした。
 松本亦太郎は『現代の日本画』(大正4年刊)の中で、第7回文展で落選した北野恒富の作品で、心中への道行きの男女を題材にした「朝露」(※注)について書いているのだが、それと共通するものを、私は園頼三にも感じる。
 (※注:現在は「道行」と改題されて福富太郎コレクションになっています。)

 なお、『怪奇美の誕生』自体は新聞や雑誌で発表したものを集めたもので、「巴里雑景」と題した随筆もあり、以下、さわりだけを紹介すると・・・・。
<セイヌの河岸
 動くともなきセイヌの流れの表を川蒸気がすうっとすべって来たと思うと、ゆらゆらと灯かげ砕けてぐいと、半円を描いて船が消えてしまう。
 ウィスラーの『夜曲(ノクターン)』を思わせる橋の陰を一層濃く塗りつぶすのはノートルダムだ。島を廻って船は行ってしまったのである。両岸の石垣に添って舗道が遥かにつづく。片側の街からさす灯かげをうけたばかりでは、樹の下闇はしみじみとさみしい。~>

 このように小気味良いリズム感のある文章を読んだ私は、永井荷風の『ふらんす物語』をとりだしてきて、荷風が巴里に到着した場面などの記述と比べてみたのだが、遜色がないように思われた。
 なるほど、園頼三は詩人としても、この本の装幀をした船川未乾が画を担当した詩画集、『自己陶酔』、『蒼空』を著しているというのもうなずけるのだった。

 船川未乾(ふなかわ みかん、1886-1930)も興味をそそられる画家で、以下がその略歴である。
 京都生まれ。大正3年渡仏、アンドレ・ロートに師事。帰国後は個展を中心に活動。ナポリにて病死。享年44歳。
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 さて、「本で創る部屋&古本市」は、竹久夢二や中原淳一が好きな「夢見る女工さん」の部屋を本で表現した展示との併設というユニークな古本市で、会場である大阪の繊維卸業街の中心にあるOSKビルの内部は、これまたなかなか雰囲気のある所で、その意味でも楽しめたのであった…。
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by suzu02tadao | 2012-11-04 14:13 | Comments(0)

アールヌーボー「甘名納糖」

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 前回、アールデコ調のものをとりあげたので、今回は日本のアールヌーボー調のパッケージをとりあげてみた…。

 ちなみに、アールヌーボーとは19世紀末~20世紀初頭にかけて、ヨーロッパやアメリカで流行した美術様式で、エミール・ガレやルイス・C・ティファニーによるガラス工芸品や、アルフォンス・ミュシャのポスターなどが非常に有名で、アールヌーボーの作品は日本でもファンやコレクターが多い。
 もともとアールヌーボーは、日本美術から影響を受けたもので、逆輸入の形で、明治の末から大正にかけて日本でも流行したのであった。

 上図のパッケージ(缶)も、その当時にデザインされたものかと思われるが、ミュシャのポスターなど本場のものをヒントにしているものの、アールヌーボーの特徴である華麗な色彩と流れるような曲線を主体とした優れた意匠に仕上げている。
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 実を言うと、これが前々回このブログでとりあげた「パピリオ」のパッケージをおまけに付けてもらって買ったものだったのだが、ご覧のとおり、外箱まで付いており…ちゃんと熨斗(のし)まで付いていて、これも贈答品だったことがわかるのだけれど…、缶のアールヌーボー調のデザインの見事さに魅せられて購入したこともあり、当初は、なんだ…この外箱は…と思っていたのだった。

 しかしながら、後でよく見てみると…、な、な…なんと!東京・日本橋に本店を構える、老舗の和菓子店である「榮太樓總本鋪」の「甘名納糖(あまななっとう)」のパッケージだった!!。
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 調べてみると、「甘名納糖」は、1857(安政4)年に「榮太樓總本鋪」の初代榮太樓が発案し、文久年間(1861~63)に創製したもので、今のように、一般的に「甘納豆」と呼ばれるようになったのは第二次世界大戦以降のことだという。

【参考】榮太樓總本鋪
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 木村荘八は『現代風俗帖』の中で、江戸時代には「イキ」と言われていたことが、明治になって、欧化して「ハイカラ」になり、それが大正を経て昭和になると「モダン」と呼ばれるようになったと書いているが・・・・とすれば、これは「ハイカラ 甘名納糖」と云うべきものかもしれない…。
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by suzu02tadao | 2012-11-01 16:25 | Comments(0)