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<   2013年 08月 ( 13 )   > この月の画像一覧

神奈川県立近代美術館

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 日本で最初の公立近代美術館として、1951年に開館した「神奈川県立近代美術館(鎌倉館)」は、坂倉準三が1937年のパリ万博日本館の経験を生かして設計したものです。
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 この建物は、展示室など主要な部分のある2階を「ピロティ」とよばれる列柱群が支える形式をとっていますが、これは師であるル・コルビュジエが提唱したものです。
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 これらの写真は「建築家・坂倉準三展 -モダニズムを生きる人間、都市、空間-」(2009年)の際に撮影したもので、展示室を出た後で階段を下りると、ピロティ空間からは緑豊かな鶴岡八幡宮の杜と池が望め、えもいわれぬ美しさで、この建築が場所や自然環境に配慮して作られていることを実感できたのでした。
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 この美術館が開館した1951年の『美術手帖』(12月号)には、美術館の紹介と共にパンフレットから抜粋したこの美術館の使命が掲載されています。
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1、パリのミュゼー・モデルヌやニューヨークのミューゼアム・オブ・モダンアートのようなものは明確に二十世紀の近代美術を展覧して充分に近代美術館の機能を発揮しているが、日本に於ける美術館はまだそれほど発展しても、分化してもいない現状なので、現在のところでは、今後の日本に於ける美術館の分化と発展とをまって、当然その性格を変えていく計画。

2、主として近代美術を展覧に供するとしても、古美術を全然展覧しない訳ではなく、日本美術をもふくめた東洋美術の計画的な展覧を次々と開催する予定で、ただ違うのは、それらを近代美術の立場で展覧し、日本美術をも含めた東洋美術を新しく評価しようとしている。

3、県立美術館は、同じような美術館といっても、彫刻に絵画に制限せず、建築から写真、商業デザイン、工業デザイン、児童美術などの展観を計画的に開催し、凡そ美術というものが入って行けるところは生活のどのようなところにも入って行き、国民の生活に役立つものとする。

4、日本に誕生した最初の近代美術館として世界の各地にある近代美術館と交流し、たがいに理解しあうと同時に、日本美術の紹介につとめたい。
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by suzu02tadao | 2013-08-30 11:30 | Comments(0)

パリ万博日本館 1937年

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 1937(昭和12)年のパリ万国博覧会で、坂倉準三(1901-1969)が設計した日本館です。日本の伝統的建築の特長とモダニズムの理念を統合したということで、建築部門のグランプリを受賞しています。
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 「輝く日本大博覧会」の各パビリオンがモダニズム建築であったということは、以前にも紹介しましたが、下鴨で手に入れた『美的文化』森口多里著(昭和16年刊)の中に、1936(昭和11)年10月3日の東京日日新聞の記事「博覧会の建築」が載っていたので取りあげてみます。

 <昭和十二年パリに開催の万国博覧会における日本館の問題は、日本の現代文化の国際的展開の一つとして、もっと盛んに論議されてよいものである。そしてこの問題はひとり建築家だけに任せておくべきものではなく、現代日本の創造力の問題として、一般文芸家及び美術家の切実な関与が求められてよい。>

 ここで言う<万国博覧会における日本館の問題>というのは、国際文化振興会など五協会から設立された巴里万国博覧会協会より提出された「日本文化を世界に宣揚するに足る」日本館の設計案ということでアイデアコンペが行われ、モダニズムの造形の典型ともいえる前川國男案が選ばれたのですが、協会から「日本的」なものを表現していないというクレームがつき、代案として日本趣味的造形をもつ案が採用となったことから建築界で問題になったことを指しています。

 <万国博覧会に出陳される日本館の設計に最も欠乏していたものは、豊富な想像性であったと私は考えている。想像性などという言葉は従来の建築家の耳から最も遠いものであった。殊に合理主義乃至機能主義が日本の建築界を風靡し、先輩達は無自覚にそれに迎合し、それがアメリカ式実利主義教育の無意識的援護を得て以来、建築界の想像性は益々貧しくなって行った。>

 <建築家が合理主義の美名に隠れて一種の安易をむさぼっていたことに対する反動である。
 今度の日本館の設計を私は見ていないが、外国の建築と何等選ぶところが無いとの理由で当局がこれを排したのも、恐らくは右のような安易から結果した非創造性に対する不満であろう。そうとすれば当局の主張も当然である。しかし、その代案として過去の様式をむき出しにした設計を求めることには、勿論賛成できない。しかし、建築に対しても、またあらゆる造形活動に対しても日頃無関心であった筈の当局が、造形上の「日本的」ということを皮相に考えたとて、今更驚くにも当たらない。>

 <想像性の豊かな建築家にとっては様式の差別などは問題ではない。日本の歴史的様式も西欧の急進的様式も単に想像性によって利用され消化される「要素」であるに過ぎない。日本的だの西洋的だのという意識に動かされている間は未だ想像性が希薄なのである。>


 さすがに美術評論家だけあって、森口多里(1892-1984)は美術家に対するのと同様の批判を述べて建築家を挑発しています。

 <日本の建築界は~(略)~合理主義によって歴史的様式の無自覚な繰返しを否定されたのであるから、その浄化の上に今度は新しく想像性の豊かな活動を喚び醒まし、建築に創造的精神の具現を求むべきであり、それには今回の日本館の設計の如きは最もよい機会だった筈である。>

 まさに坂倉準三が設計した日本館は、森口多里の批判に応えるものであったといえます。

 参考までに坂倉準三は、パリ万博日本館の設計思想を要約して、1.平面構成の明快さ、2.構造の明快さ、3.素材の自然美の尊重、4.建物を囲む自然(環境)との調和、という特徴を挙げています。

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by suzu02tadao | 2013-08-27 11:20 | Comments(0)

「現代」 昭和11年11月号

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 「輝く日本博 案内記」は今月の初めにヤフオクで手に入れたもので、下鴨の古本まつりでも、「輝く日本博」や「阪神パーク」関連のものを絵葉書などを中心に探してみたが、結局は見つからずで・・・
 この大日本雄弁会講談社(現.講談社)の雑誌『現代』は、「輝く日本博」と同じ1936(昭和11)年発行ということで、モダンな表紙が気に入ってほとんどジャケ買いしたもので、なんといっても決め手は、淡谷のり子さんが「わかもと」の広告に登場していたからなんです・・・(ミーハーですねェ…)。
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 1936(昭和11)年は激動の年で、美術界でもゴタゴタがあって、記事を読むだけでもいろいろと面白いのだけれど、この当時の雑誌を見ていつも思うのは、掲載されている小説の挿絵にとてもいいものが多いということだ。
 以下、いくつかを紹介してみたい。

◇『都会の北極』 竹田敏彦
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 宮本三郎(1905-1974)は、挿絵画家としてはこの頃が一番油の乗り切った時期ではなかったかと思う。

◇『ナポレオン服覆面鬼』 木村毅
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 木村荘八(1893-1958)は翌年(1937年)、傑作として名高い『濹東綺譚』(朝日新聞連載)の挿絵を描くが、この挿絵もなかなかのものだと思う。

◇『いなづま』 海音寺潮五郎
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 最初にこの絵を見た時には岩田専太郎かと思ったが、これは小林秀恒(1908-1942)でした。

◇『逃げる花嫁』 丹羽文雄
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 吉邨二郎(1899-1942)は、中川紀元や古賀春江らと共に前衛美術団体「アクション」の創立メンバーだが、斎藤佳三や多田北烏らと共に日本のグラフィックデザインの先駆的活動をしており、<ZILO>サイン入りの観光ポスターでいいものがあったように記憶する。後年は挿絵画家として活躍。『少年倶楽部』などの子供向け雑誌の挿絵を数多く担当した。


 遅ればせながら下鴨の写真をいくつか・・・
 一見するとキャンプ場のテントの下でバーベキューでもしているような風景ですよね・・・

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 やはり、リュック・スタイルだと、糺の森の原生林の中で森林浴を楽しんでいるようにも見えますよね・・・
 あっ…、古本は紙だから、もともとは木でしたね・・・

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 だから、今年の下鴨は「山ガール」ならぬ「古本ガール」が多かったのでしょうか・・・?
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by suzu02tadao | 2013-08-24 16:00 | Comments(0)

モダン歌謡の黎明 [輝く日本博 -4-]

◇「演芸館」出演者プロフィール【輝く日本博 案内記】より
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 淡谷のり子(1907-1999)といえば、晩年はテレビのものまね番組の審査員として、清水アキラやコロッケの天敵?として辛口の批評をしていたという印象が強いが、デビュー当時は昭和モダンの香り漂う外国のポピュラーソングを歌っており、日本のシャンソン歌手の第1号でもあったのでした。
 「輝く日本博」の開催された翌年(1937年)、『別れのブルース』の大ヒットでスターダムへ登りつめてからは、ブルースと名の付く歌謡曲を何曲も歌い「ブルースの女王」と呼ばれたのでした。

 松平晃(1911-1961)と豆千代(1912-2004)は、デュエットで歌った『曠野を行く』や『夕日は落ちて』が大ヒットしていた当時の流行歌手だったようです。


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 輝く日本大博覧会 主題歌 『津の国踊り』というのも作られたようで、この曲を歌った三島一声(1889-1974)と勝太郎(1904-1974)はやはりデュエットで、今ではヤクルトスワローズの応援歌にもなっているポピュラーソング『東京音頭』を、1933年に歌ってヒットさせています。
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 上の写真で、歌詞を吹込む三島一声と勝太郎のマイクの後ろにいる、にやけた風貌のいかにもインテリ業界人といった感じなのが、この主題歌を作詞した長田幹彦(1887-1964)で、作詞家として手がけたものでは『祇園小唄』などが有名ですが、もともとは小説家で、「祇園もの」といわれた、花柳の巷を舞台とした作品で吉井勇と併称されたのでした。
 ところで、この「輝く日本博」開催中の5月18日には阿部定事件が起こっていますが、長田幹彦は戦後に阿部定と組んで「昭和一代女」という阿部定事件を演じる劇団を旗揚げしています。

◇アメリカン・グランド・サーカス
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 さて、この博覧会のイベントで一番の呼び物は、当時の金額で10万円の費用を投じて招いたアメリカン・グランド・サーカスで、大変に話題を呼んだようです。
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by suzu02tadao | 2013-08-21 14:00 | Comments(0)

甲子園 [輝く日本博 -3-]

◇野球塔
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 甲子園球場のレフトスタンド後方(「甲子園歴史館」の入口ゲート前)にある「野球塔」です。
 高校野球を記念して建立されたモニュメントで、現在のものは3代目だそうですが、デザインは1934年につくられた初代のものを踏襲していて、やはり「輝く日本博」のパビリオンと共通する造形のモダン・デザインになっていますね。

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 現在、「夏の甲子園」の熱戦が繰り広げられている甲子園球場ですが、大正年間に始まった全国中等学校優勝野球大会の会場として建設され、1924年8月1日に開場しています。
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 この球場完成が発端となって、様々なスポーツ施設や「阪神パーク」などのアミューズメント施設の開発が進められ、また「輝く日本博」などの博覧会やイベントが開催されましたが、これは阪神電鉄による沿線都市開発の一環として行われたもので、戦前の甲子園一帯は「阪神間モダニズム」を代表する一大レジャーゾーンになったのでした。

 阪神甲子園駅も、球場開業と同時に当初は臨時駅として開業されたもので、現在は改修工事中ですが、駅の高架下の鉄筋コンクリートの柱は創建当時のままで、けっこう凝った造りになっていて風格があります。
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 阪神甲子園駅の東口にある「甲子園駅東改札口」の表示がある鉄塔は、かつてあった阪神甲子園線の架線柱の遺構です。
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 阪神甲子園線の浜甲子園駅跡(山手に向かって撮影)です。現在は甲子園大会の応援団の臨時駐車場となっています。右端ガードレール横の細長い部分が線路跡ですが線路は残っていません。
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 浜手に向かって撮影した浜甲子園駅跡です。左手向こうに見える林の所が鳴尾浜公園です。
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 鳴尾浜公園の近隣にあった「鳴尾球場」は、甲子園球場ができるまでの全国中等学校優勝野球大会の会場であったため、鳴尾浜公園内には「全国中等学校優勝野球大会開催の地」という記念碑が建っています。
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by suzu02tadao | 2013-08-19 13:00 | Comments(0)

浜甲子園阪神パーク跡 [輝く日本博 -2-]

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 現在、鳴尾浜公園になっている場所にあった阪神パークは、1929(昭和4)年に甲子園娯楽場として開場した後、1932(昭和7)年に動物園と遊園地施設を増やして名称を正式に「浜甲子園阪神パーク」としますが、「輝く日本博」の第2会場となった1936(昭和11)年には更に施設を充実させ、その後も1943(昭和18)年に戦争のために閉鎖されるまで、レジャー施設として大いに賑わったということです。

以下、「輝く日本博 案内記」より抜粋

◇・・・浜甲子園阪神パークでは、この博覧会を機会に園内の大改造を行い面目を一新、場内の大拡張をなし北隣の甲子園乗馬倶楽部の全敷地約三千坪を取入れ総面積三万坪に近い大遊園地となし、場所は従来のスポーツランドと合わせ純洋風の庭園、徒渉池、植込、花壇、パーゴラ等を創り小児運動具を配し、又スペイン風の休憩場を新設し、池に臨むバルコニーでは家族打ち揃ってお茶を飲んで打ち寛げる場所。
 庭園の周囲は子供汽車を走らせ、機関車も流線形に新造し、客車も増設して御子達の御機嫌を取結びます。

◇・・・海岸に面してコンクリート作りの展望台を作り数百人分のベンチを配し、入場者に開放して鏡の様な海原を眺め潮の香を楽しみながらお弁当も開けます。日本ではここだけという室内電車のスクーターハウスも改造しましたし、海に臨んだシーハウスの階下には娯楽場ピンポン室もできている他、園内一帯に植樹に造園に大車輪であります。


◇アシカの海【輝く日本博 案内記:第2会場 阪神パーク】より
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 この阪神パークは現在、鳴尾浜公園になっていると書きましたが、敷地の海側の約3分の1くらいは海の中に水没しているようです。

◇第2会場【輝く日本博 案内記】より
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 下の写真は上図(第2会場) A 地点と思われる場所から写したものです。
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 ここから東側に向って浜辺を歩くと、いろいろな形の遺構があってワクワクします。
 上図(第2会場)と比べて、それぞれを見て行くと想像をかきたてられます。
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 これは明らかにレンガの遺構です。
 「案内記」の説明の中にスペイン風の休憩場とありますが・・・?
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 これは戦後に造られた排水溝の跡で、阪神パークの遺構ではないらしい。
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 参考のため、再度、現在のおおよその会場地点地図を貼っておきます。
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by suzu02tadao | 2013-08-18 14:40 | Comments(0)

メトロポリス出現![輝く日本博 -1-]

◇「輝く日本博 案内記」裏表紙より
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 「輝く日本大博覧会」は1936(昭和11)年4月10日から5月31日まで開催されたが、本会場は兵庫県西宮市の浜甲子園であった。

◇本会場(浜甲子園)4万5千坪
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 この年には二・二六事件が起こり、軍部の政治介入がいっそう強まってきたように、この頃に開催された博覧会は、軍事を啓発するものが多いが、この博覧会においても皇軍館のなかには戦場大パノラマがつくられており、また主要館である国産館には、前年に輸出額が急進し、躍進を遂げた日本産業製品が陳列されるなど、非常に大規模な博覧会であったことが分かる。
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以下、「輝く日本博 案内記」より抜粋

◇・・・弥生の春にさきがけて、忽然と阪神甲子園浜に出現したメトロポリス。「輝く日本博」は我が日本民族の嘗て見ない大発展を具現した躍進日本の全貌を集めています。

◇・・・「輝く日本博」は、在来の博覧会の概念を打ちこわしてあらゆる点で画期的であります。規模の大、プランの周到さ、内容の豊富さ、配列の妙、斬新の創意等に於いて。

◇・・・非常時日本とは?躍進日本とは?「輝く日本博」が活きた説明を与えるでしょう。世界の市場に「日本の脅威」が叫ばれるほどメード・イン・ジャパンの商標が世界の隅々にまで席巻しています。その活発な産業日本の跳躍する姿は、全会場に躍動しています。

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 この「案内記」の表紙は本会場正門から国産館を臨んだ図のイラストだが、各パビリオン等の施設がモダニズム建築であったことが分かる。
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 スポーツ館ではこの年に開催された第11回ベルリンオリンピックが紹介されてる。
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 ベルリンオリンピックのメインスタジアムであった「ベルリン・オリンピアシュタディオン」は現在もFIFAワールドカップ等で使用されているが、「輝く日本博」のパビリオンと共通するモダン・デザインになっている。

◇ベルリンオリンピック時のベルリン・オリンピアシュタディオン
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◇会場案内図【輝く日本博 案内記】より
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 「輝く日本博」は、当時、阪神電鉄が運営していた路面電車の甲子園線の中津浜駅の本会場(第1会場)と浜甲子園駅の「浜甲子園阪神パーク」の第2会場の他、「六甲高山植物園」の第3会場でも開催された。

 おおよそだが現在の地図でみると、本会場の国産館は南甲子園小学校の辺りにあったと思われ、第2会場の「浜甲子園阪神パーク」は鳴尾浜公園になっている。
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by suzu02tadao | 2013-08-16 09:35 | Comments(0)

九条駅界隈

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 安治川トンネルの西区側出入り口を出て、そのまま南に歩くと地下鉄中央線と阪神なんば線の九条駅があるが、この界隈にも昔からのアーケード商店街や松島新地があるなどで、下町情緒あふれるレトロな佇まいがあちこちに見られた。
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 「シネ・ヌーヴォ」は知る人ぞ知るミニシアターで、現在も【生誕百年 織田作之助と仲間たち】などの企画で、ユニークな作品を上映していた。
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 更に南に歩いて行くと・・・見えてくるのが大阪ドーム(京セラドーム大阪)。
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 九条方面から見た大阪ドームは裏側になるのだが、これもまた味わい深い。
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by suzu02tadao | 2013-08-13 20:45 | Comments(0)

安治川トンネル

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 「安治川トンネル」は、以前にとりあげた「安治川水門」より少し上流の安治川の下を通る全長約81mの河底トンネル。
 幅2.4mの歩行者・自転車用通路の中は、今の季節だとひんやりと冷たくて、たんに涼みに来る地元の人もいるようだ・・・こう暑いと気持ちはよくわかります。
 ちょうど訪れた時には、修理工事中のようで、天井はブルーシートで覆われていたが、それも涼しさを演出しているようで一興に思われたのだった。
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 実はこのトンネル、元々は「安治川隧道」という名前で、計画されたのは昭和初期とけっこう古くて、当時この場所では「源兵衛渡」と呼ばれる渡し舟が運行されていたが、交通量の増加により処理することが困難となったため、当時の最先端の技術を用いた河底トンネルとして、1935(昭和10)年から建設が始められ、開通したのは戦時中の1944(昭和19)年だった。
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 地上から地下への移動は安治川の両岸にあるエレベーターで行われるというユニークなもので、かつては歩行者・自転車用の他に自動車用エレベーターもあったが、1977年に閉鎖され、ゴンドラの入口が封鎖された状態で残されている。
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 30年以上使われていない自動車用エレベーターの巨大な表示灯とその上の表面が剥がれて黒くなって判読困難となった利用注意事項の看板がレトロでいい雰囲気です。
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 南側(西区側)出入口の建物全景です。
 部分的には味わいがあるけれど、エレベーターのためだけの施設ということで、本当に質実剛健というか…味もそっけもない建物ですね。
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 北側(此花区側)出入口の建物です。
 こちらも、やはり同じように…味もそっけもない感じです。
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 ただし、川に面した建物の外観は、機能主義のシンプル・イズ・ベストの見本のようなグッド・デザインになっています。
 やはり、トンネル開通当時の安治川は河川舟運の重要航路だったわけで、頻繁に行き交う運搬船から見える側が建物の表なのだと思われます。
 隣接する「阪神なんば線」の橋梁と共に「水都大阪」にふさわしい美しい景観をつくりだしています。
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by suzu02tadao | 2013-08-12 11:50 | Comments(0)

弁天町駅界隈 <街角レトロ -2->

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 前回の続きで、弁天町駅界隈のレトロな街角です。
 まあ、「レトロ」というのは年月を経て風化して色が褪せていて、ところどころが朽ちていたり壊れたりしていて、悪く言うと「ボロ」(失礼!)なんだけれど・・・にもかかわらず風情があるのがとても魅力で・・・たまりません。
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 面格子のある窓も、サッシに変わっている場合が多いのだが、やはり、このように木枠のものは味わい深い。
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 他にもいろいろ・・・。
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by suzu02tadao | 2013-08-09 16:45 | Comments(0)