1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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<   2013年 12月 ( 13 )   > この月の画像一覧

「天満天神」モダン景

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 もう、2013年も後わずかになりました。
 今年、「天満の天神さん」の境内で拾ったモダンな情景をいくつか・・・
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by suzu02tadao | 2013-12-30 20:30 | Comments(0)

旧大阪市立博物館

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 この旧大阪市立博物館については、もっと以前に取りあげるつもりでいたのだけれど・・・もともとは、昭和御大典記念事業として、市民からの寄付金により再建された大阪城天守閣とともに建設された旧陸軍第四師団司令部庁舎だった建物です。

 寄付金150万円のうち、この建物の建築費など第四師団に80万、天守閣再建、大阪城公園再整備に70万(詳細は天守閣建造費:47万円、公園整備費:23万円)があてられたということで、実は天守閣よりもこっちの方がお金がかかっていたのだ・・・
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 外観はノルマン地方の古城の意匠をもとにしたロマネスク様式で、正面両側のタレット(隅小塔)や壁上端の装飾などに特徴があります。
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 壁面は褐色色斑スクラッチタイルで仕上られています。
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 側面も風格があります。
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 裏側からもステンドグラスが見えますが・・・内側から見たら美しいでしょうね・・・
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 隣にある大阪城金蔵は、1620(元和六)年の建築で、桃山時代の手法が見られる大阪城遺構中で最も古いものだそうで、もちろん国の重要文化財です。
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 大阪城天守閣とのツーショット。
 2001年3月31日に博物館が閉館して以降、未使用の状態となっており・・・本当にもったいない!…ですよね。
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by suzu02tadao | 2013-12-28 13:30 | Comments(0)

吉井勇 『東京・京都・大阪』

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 吉井勇の『東京・京都・大阪』は、何年か前に手に入れた平凡社の文庫版のものを所有していたのだけれど、先日、恩地孝四郎が装幀した表紙(上図)に魅せられて、オリジナル版を購入したというわけで、ついでに読み直してみたら、このあいだも取りあげた「キャバレー・ヅ・パノン(ハタノバア)」についても書かれているではありませんか・・・

<私がはじめて大阪へ往つた時分は、まだ五座の櫓が揃つている時分で、カフヱやバアがやつとできたばかりの頃だつたが、立ち並んだ劇場と反対側の河岸にあつたハタノバアという家にはよく連れて往かれたものであつた。そこは詩人、画家、歌人、小説家、劇作者など、藝術にたずさわる者がよく往つたバアであつて、直ぐ窓の下には道頓堀の水が黒く流れ、向い側の宗右衛門町の茶屋々々の灯が、鮮やかにそれに映つて、時には川を越えて絃歌の声がひびいて来るようなこともあつた。>

 もともとこの本を私が手に入れたのは、ちょうど竹久夢二についての認識を新たにしていた時期で、次のようなことが書かれていたからだった・・・

<私が中島棕隠という名前を知つたのは、大正四年十一月「祇園歌集」を出した時からであつて、その時竹久夢二君に装幀を頼んだところ、私の原稿を読んだ夢二君が、
 「君のこの歌集によく似た詩集がある」
と云つて貸してくれたのが、山陽の手紙で問題になつていた「鴨東四時雑詞」だつたのである。>


 いやはや、あの吉井勇が、中島棕隠の「鴨東四時雑詞」を竹久夢二に教えてもらったとは・・・
 こんなところにも、夢二のマルチな才能の奥深さを知ったというわけです。

 さて、「祇園歌集」にはあの有名な歌が載っています。

 かにかくに祇園は恋し寝る時も枕の下を水のながるる
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 現在では、吉井勇が祇園を歌った代表歌とされるこの歌も、発表当時はさほどでもなく、事実、「祇園歌集」には4番目という中途半端な順番で載っています。

<自筆の歌碑の前で微笑する吉井勇氏>「かにかくに祭」にて
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 上の写真が載っていたので、つい最近購入した『カメラと詩歌 京都』臼井喜之介(昭和36年刊)では次のように記されています。

 世人は一応吉井勇を目して、祇園の歌人として艶治駘蕩(えんやたいとう)の世界に遊ぶ風流児と考えている向が多いようであるが、与謝野寛につれられて、明治四十年に初めて祇園へ遊んで以来、さまざまの起伏があったろうが、その真の歌心がいずれにあるか、左の歌を提示して答えとしよう。

 紅燈の巷にゆきてかへらざる人をまことの我と思ふや  吉井勇


 ところで、ガイドブック『カメラと詩歌 京都』には、なつかしの昭和30年代の京都の写真が載っており、舞妓さんや寺社仏閣はあまり変わっていませんが、やはり町並みは現在とは大分違っていることが分かります。
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◇先斗町
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◇四条通を行く鉾の巡行
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 また、臼井喜之介という名前に見覚えがあったので調べてみると、臼井自らが創業したウスヰ書房発行の『随筆京都』(昭和16年刊)を数年前に購入しているではないか・・・
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 しかもこの中には、以前とりあげた『時世粧』にあった宇野浩二の随筆と同じものが「秋都の京都の思出」として載っていたのだった。

 もちろん、吉井勇の歌も載っています・・・

 舞姫の文がらなどもまじるゆゑ 加茂の水屑(みくづ)はうつくしきかな

c0239137_1134335.jpg京舞妓
(『随筆京都』より)
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by suzu02tadao | 2013-12-25 11:45 | Comments(0)

島成園 と 木谷千種

◇島成園「母」昭和初期頃
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 この島成園(しま せいえん、1892-1970)の作品は、京都の星野画廊「生かされた女性美」(11/22~12/22)で展示されていたもので、展覧会図録でも次のように解説されている。
<本作で描かれた愛情豊かな女性の表現には、かつて上村松園と並び美人画の名手と称せられた画技が存分に発揮されている。>

 島成園の作品が見たくなったのは、少し前に古書市で手に入れた雑誌『大毎美術』(昭和11年2月5日発行)に、島成園が「当世風」と題して記事を載せており、次のように語っていたからなんですね・・・
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 <谷崎潤一郎さんの『春琴抄』の春琴さんをこの頃描きあげましたが、これは自分で会心の出来だときめてゐるのです、絵の出来の善悪よりも、それは作家としての私の気分で---。
『春琴抄』を読んで、先づ感心したのは、谷崎さんが春琴の描写に、美人の型をはつきり示さないで、読む者に自づと想像さす、あの奥深い手法でんな--上手だんなあ、それに大阪を然も心臓部大阪の船場の『らしい姿』を如実に示してくれはつたんです、その点大阪人は感謝すべきでつしやろ、ですから、私も春琴は、大阪人の私が描くのが本当だといふ気がしたんですわ、ようても悪うても、おさへきれずに食指が動いた訳です。---三越の展覧会に出品したのがそれで、御覧の通り、娘の頃の琴女時代の春琴をかきました。>

 <今、一つ谷崎さんの蘆刈りに出てる『お遊さん』を描きたいと思うてます、谷崎さんの小説は、日本画の人物をかく人なら、誰でも食指が動きますやろ!

 それから、一葉の『たけくらべ』のみどりをかいてみたいと思ひます、然しこれは東京のいろ街の情緒をくはしう知りまへんよつて、一寸むつかしいと思ひますな。>


 島成園は女性画家として、大正期には京都の上村松園、東京の池田蕉園とともに「三都三園」と並び称され、そのデビューが華やかだったこともあり、様々なゴシップを書き立てられるも、対抗して次々に傑作となる話題作を発表したのだったが、結婚した後、大正末から昭和以降は絵が平凡になったと言われ、また昭和11年より、夫の度重なる転勤に同行して絵が描けない時期が長かったため、戦後は忘れられた画家の一人になっていた。

◇島成園「祭りのよそおい」1913(大正2)年
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 しかしながら、冒頭に挙げた島成園の昭和初期に描かれた作品を見ても、評価の高い大正期の作品と比べても遜色がないことが分かる。

 また、星野画廊にあった甲斐庄楠音の昭和10年頃の作品「如月太夫」は、大正期のいわゆる「デロリとした絵」ではないが、間近で見ると、かんざし等の装身具の表現や描き方には、ちょっと鬼気迫るような執着心が感じられて、甲斐庄の絵のまた別の魅力を発見したのだった。

◇甲斐庄楠音「如月太夫」(部分)1935(昭和10)年頃
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 そんなこともあって、島成園が『大毎美術』誌上で、会心の出来だと語っていた「春琴さんの絵」が今どこにあるのか・・・また、この昭和11年より島成園は大阪を離れることになったわけで、「お遊さん」や「みどり」の絵は描いたのだろうか?と思うのだった・・・

 さて、『大毎美術』誌上では書画の販売もしており、その中に、島成園と共に「女四人の会」のメンバーの一人で、今回の星野画廊の展覧会にも展示されていた、やはり大阪出身の木谷千種(きたに ちぐさ、1895-1947)の作品が載っていたのだが、当時は画家としては一番人気のあった竹内栖鳳には及ばないものの、そこそこの評価を得ていたことが分かる。
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 木谷千種は、夫が近松研究の第一人者といわれた木谷蓬吟ということもあって、大阪の風俗や浄瑠璃の中の女性をテーマにした作品で文展、帝展に12回入選するのだが、つい先日、古書店で第6回帝展入選作「眉の名残」の絵葉書を手に入れる事ができたのだった。

 肌が透けた着物を着た艶かしい女性を描いたこの作品は、優艶流麗といわれる木谷千種の代表作ともいえるもので、出展当時は物議をかもしたようだ。
 尚、画中の牡丹灯篭が、この女性が未亡人であることを物語っているのだという・・・

◇木谷千種「眉の名残」1925(大正14)年
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by suzu02tadao | 2013-12-22 17:15 | Comments(0)

竹谷町(出屋敷駅)界隈

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 大庄地区をブラブラと東に向って少し歩いてから川を渡ると、そこはもう阪神電車の出屋敷駅のある竹谷町でした。
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 この界隈はその昔、1980年代以前の最盛期には、南部工業地帯の労働者向けの簡易宿所や飲み屋、パチンコ店など歓楽施設が建ち並び、不夜城のごとき賑わいぶりであったということですが、今は不況と商店主の高齢化で賑わいを失い、シャッター通り化が著しく、往年の賑わいは見る影もありません・・・

こちらも参考にしてください。
出屋敷駅前:工房日誌
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 出屋敷駅南側にある中華料理店の建物。表側もすごいが、むしろ裏側が過激なアバンギャルド・アートになっていました!
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by suzu02tadao | 2013-12-20 13:35 | Comments(0)

大庄小学校とその近辺

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 大庄公民館の隣にある尼崎市立大庄小学校です。
 これは、1936(昭和11)年に建てられた南校舎で、特徴のある連続尖塔アーチ窓は、子どもたちが空に向かって伸び行くようにとの願いを込めて「舟形」にしたものだそうです。
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 これは北校舎で、小学校のホームページでは昭和8年建築となっていますが、1934(昭和9)年の室戸台風で大きな被害を受けた後に、やはり南校舎と同時期に建てられたものだと思われます。
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 こちらは南校舎とは違ってモダニズム建築風ですが、垂直柱のラインの処理がアクセントとなっています。
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 大庄小学校及び大庄公民館の近辺をブラブラと散策してみました・・・
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 かつて、日本一裕福な村といわれていたということで、大きな屋敷や洋館も見受けられます。
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 ボートレース場の近くにある水明公園には、かつて阪神国道線で使われていた車両(71形 71号)がありました。
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 静態保存ということですが、むしろ放置してあるといったほうがいい状態です・・・
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by suzu02tadao | 2013-12-19 14:00 | Comments(2)

尼崎市立大庄公民館

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 1937(昭和12)年に大庄村の村役場として建てられたこの建物は、村野藤吾(1891-1984)の初期の作品です。

 茶褐色のタイルが外壁全面に貼られ、そのところどころに動植物のレリーフが飾られているのが特徴ですが、玄関の南側外壁には、鷲の頭とライオンの胴を持つギリシャ神話上の動物「グリフィン」のレリーフがあります。
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 玄関の真上にはオリーブの枝をくわえた鳩のレリーフがあって、「ようこそ…」と迎えてくれます。オリーブも鳩もどちらも平和の象徴なので、こんなところにも村野藤吾のメッセージが伺えます。
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 塔屋にもオリーブの木の透かし彫りが装飾されており、また塔屋の天井部には星や雲のレリーフがあるそうです。
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 この建物は正面側から見ると箱型のブロックの組み合せにより構成されています。
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 ところが、裏側から見ると、建設当時にあった水路に合わせて1階の外壁が円弧を描き、その上に箱型の2・3階が後退しながら積み重なるという構成になっていて、見る方向によって形がまったく違って見える建物なのです。
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 エントランス廻りの造形もなかなか凝っています。
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 ところで、私が感心したのは、この公民館には、来館者が自由に持ち帰れる建物についてのパンフレットが置いてあったことです。
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 このパンフレットには建物の建設経緯や概要等が載っており、下記は、その一部を抜粋したものですが、これを読んだだけでも、この建物が公共施設として地域に溶け込みながら大切に扱われているということが良くわかります。
 隣接するどこかの自治体とは大変な違いです・・・

 <武庫川下流東側に位置する大庄村は、昭和初期までは漁業と尼いもと呼ばれたさつまいも栽培が盛んな農・漁村でしたが、1929(昭和4)年に浅野財閥が設立した尼崎築港㈱により臨海地域の大規模な埋立てが行われ、埋立地に大工場が進出してきたことにより昭和10年代には急速に都市化が進み「日本一裕福な村」「日本一の大村」と称されるまでに発展しました。>

 <1938(昭和13)年12月発行の『アサヒグラフ』は「これでも村役場?」との大見出しで大庄村役場の特集を組んでおり、大庄村役場の建築が当時、いかに世間から驚きを持って迎えられていたのかがわかります。また、建設当時を知る地域の古老からは、村民たちが日本一の村役場だと自慢していたことや、このようなハイカラな村役場を建てた当時の村長や村会議員は偉かった、いくら考えても訳のわからない不思議な建物だ、などいろいろな思い出話が語られており、大庄村役場が「自慢だけど不思議な」建物として、地域に受容されていた様子がうかがえます。>

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 さて、次回はこの建物のすぐ隣にある大庄小学校を取りあげてみます・・・
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by suzu02tadao | 2013-12-16 11:30 | Comments(0)

『怪盗X団』現る  道頓堀朝日座

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 道頓堀朝日座で、1931(昭和6)年10月8日に封切られた映画『怪盗X団』のチラシですが、表(上図)のデザインは、当時の松竹のポスター等を手がけていた河野鷹思(こうの たかし、1906-1999)に間違いないと思われます・・・

 この映画は松竹キネマ蒲田撮影所の製作ですが、監督の野村芳亭(のむら ほうてい、1880-1934)は日本映画のパイオニア的存在で、エンターテインメントでありながらも、芸術性の高い「松竹現代映画」の原型を作ったと言われています。
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怪盗X団現る
怪盗団とは何者か?上海暗黒街に火華を散らす悪漢団の大乱戦、美貌の怪男子、花のごとき令嬢の活躍、卍と乱れる奇怪なる物語『怪盗X団』来る
・・・八日封切未曾有の探偵大活劇『怪盗X団』・・道頓堀朝日座


 この時代がかったキャッチコピーが、いかにも映画の黎明期という感じで、BGMには「蒲田行進曲」が流れていそうな雰囲気ですね・・・

 主な出演者の中では、結城一郎は当時の松竹蒲田の青年スターで、戦後も舞台や音楽のプロデューサーとして活躍し、龍田静枝はサイレント映画時代のモダンガールを象徴する女優であったということです。
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 さて、朝日座は道頓堀五座の内のひとつで、歌舞伎や人形浄瑠璃などの劇場でしたが、明治時代末より松竹映画の上映館となっていました。
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『上方』道頓堀変遷号(昭和7年10月1日発行)より
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by suzu02tadao | 2013-12-13 15:30 | Comments(0)

芦原節

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 芦原節の歌謡ハンドブックです。
 「あはらぶし」とルビが振ってありますが、これは旧仮名づかいなので「あわらぶし」と読みます。
 前回の大阪歌舞伎座パンフレットを見ていたら、広告のほとんどが大阪市内にある店なのに、なぜか福井県の芦原温泉の旅館の広告が6件も載っていたので…(なにか関係があるのでしょうか…?)それで、急に思い出したというわけです・・・

 芦原温泉のご当地ソングであるこの歌は、以前にも取りあげたマルチ・デザイナーの斎藤佳三(さいとう かぞう、1887-1955)が、1930(昭和5)年に作詞・作曲したもので、表紙ももちろん斎藤が手がけており、歌は民謡調ですが、その当時の「モボ・モガの時代」を象徴するかのような和様アール・デコともいえる、とてもモダンなデザインに仕上げています。
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【参考】芦原節 - YouTube
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by suzu02tadao | 2013-12-11 12:05 | Comments(0)

新国劇12月公演 大阪歌舞伎座

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 「創立四十周年記念 新国劇 12月公演」【1957(昭和32)年】のパンフレットです。
 この秋の四天王寺の古本市で、表紙が早川良雄のデザインだったので、ジャケ買いしたものですが、この作品も「早川良雄の時代-デザイン都市・大阪の軌跡」展覧会の図録に載ってました・・・

 そして内容を見てみると・・・演目の中では、表紙のデザインは『国定忠治』をテーマにしていますが、なんと…なんと、井上靖 原作、池波正太郎 脚本・演出 『風林火山』という、なんとも豪華で贅沢な作品があるではないですか・・・
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 この当時の池波正太郎は劇作家として活躍していた頃で、新国劇の座付作者といわれるほどに、新国劇で作品をつぎつぎと上演する一方で、「大衆文芸」誌に定期的に小説を寄せつづけていたのでした。
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 この後に戦後の昭和を代表する時代小説作家となった池波正太郎が、「風林火山の脚本と演出について」の中で下記のように述べているのは印象的です・・・

 <小説の場合だと、人物の心理描写も、人物の口から出さなくても文章で語れる。場面の設定も自由自在に、飛び、離れ、また元へ戻ることが出来る。これは小説の魅力だ。芝居は、限られた場面と時間の中に、すべてを組入れなくてはならない。だから、そこに、圧縮された人間感情のぶつかり合いが、高く、低く、波を打ってくる。この中で、一つの人生が、物語られるわけで、これが芝居の魅力なのであろう。>


 さて、大阪歌舞伎座はこの翌年、1958(昭和33)年4月に 「新国劇サヨナラ公演」をもって廃座したのですが、それに変わって登場した新歌舞伎座(2009年6月30日閉館)が、パンフレットの中で次のように紹介されています。
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 <新歌舞伎座は面積七百坪、その設計はわが建築設計界の第一人者たる芸術院会員の村野藤吾先生で地上五階、地下二階、桃山風唐破風造の古典様式で、正面は御堂筋に向き、一階は三方総ガラスの大ロビー、二、三階は定員二〇〇〇名の劇場となる、また一階奥、四階、地下一階は各食堂、地下各階が老舗のれん街で、一階よりエスカレーターを設置したモダニズムの観光大劇場としてデビュー、地下鉄、南海会館、および目下工事中の地下街と連絡する。>

 今は昔・・・この建物も解体されるようです・・・
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by suzu02tadao | 2013-12-10 11:20 | Comments(0)