1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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<   2014年 02月 ( 10 )   > この月の画像一覧

宝塚・松竹座・道頓堀のキャフェ

◇『音楽世界』 【1930(昭和5)年7月号】より
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 伊庭孝(いば たかし、1887-1937)は、「浅草オペラ」を築き上げた俳優、演出家、音楽評論家で、1930年頃には、雑誌『音楽世界』誌上で音楽評論を執筆して活躍しており、この号では、関西を代表する舞台だった宝塚歌劇、松竹座、道頓堀のキャフェ・・・それぞれについて書いてますが、やはり、コテコテの関西の演出は、東京人の伊庭孝には抵抗感があったようで、なかなかおもしろい批評になっています。

 まず、「宝塚歌劇」ですが、下の写真は声学専科の教室での記念写真で、前列左から3人目が伊庭孝です。
 その右が、「宝塚歌劇スタイル」を確立した、記念すべき日本初のレビュー「モン・パリ」を作った岸田辰彌(岸田劉生の弟)です。
 岸田辰彌は宝塚に来る前には、伊庭孝らと共に大正6年から大ヒットした「浅草オペラ」で活躍していたのでした。
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 そんなこともあって、宝塚劇場の音響設計の悪さにはじまって、舞台演出についても、<宝塚は大正六年以来、音楽にも舞踊にも、一寸も進歩してゐないのである>と辛口の批評をしています。
 しかしながら、草笛美子(上の写真では岸田辰彌の背後)及び声学専科の生徒については、次のように述べています。
 <草笛嬢は--どうも宝塚の芸術名は軽薄で、口にするさえも歯が浮きさうである、僕などは、其の人の芸術名を呼ぶ事が、其の人を侮辱する様な心持がする。だが、どうも仕方がない、で、その草笛君は~(略)~声質も声量も共に申し分がない。歌い方は、もう少し専門的教練を経れば立派なものである。~(略)~
 僕は宝塚のステージには失望したが、少数の声学専科の生徒には賛辞を惜しまない。>
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 <僕はどうも松竹といふものを好かない。だから松竹座といふものは、東京のも大阪のも見た事はない。だが、今度は宝塚を観た釣合上、松竹座を見ようと思った。>
・・・ということで、初めて松竹座(道頓堀)を訪れます。
 <しかし、何といふ良いハウスだらう。音響といひ、二階席の傾斜の具合といひ是は日本一だと思つた。帝劇や東京劇場より、遥かに要領を得た建物である。>
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 <悪趣味を極めたプロローグが出て来る。台辞は食満氏の作らしい。ひどい場違ひである。だが、次に展開された『花まつり』『天のまつり』には、全く敬服させられた。此処には生が躍動している。凡てが活きてゐる。下品である、場違ひである、だが、エスプリがある。観客を喜ばさうとする熱誠がある。抜目のない訓練がある、考案がある。是等は凡て、宝塚には欠けてゐるものだつた。~(略)~若し、第三景の万歳の男女がなかつたら、もつとよかつたらうに。>

 そして、最後に道頓堀のキャフェのキャバレーについては、
 <ステージは『赤玉』が一番宜い。ウェイトレスやサーヴィスは『ユニオン』が一番宜い。ジャズは『美人座』が一番宜い。>として、『赤玉』のステージについて次のように記しているのが印象的です。
 <小さいステージがそこに展開される。ダンサーは六人か八人ゐる。衣装も中々気張つてゐる。背景も幾場面もとりかはる。大阪名爲のキャバレーのダンスは是れだなと思ふと共に、僕は大阪と僕との関係を考へた。大阪にかうしたダンスや歌の概念を普及したのは、結局その根元は僕なのだ。『おれの仕事の結果が是か』と思つたとき、妙に泣けて来た。汗をふくふりをして、目頭にたまる涙をふきながら、僕はステージを見入つてゐた。キャフェは、まさに満員である。キャフェの満員!是れも東京にはない図である。大阪では、ステージのないキャフェには客が来ず、ステージのある処は満員の盛況なのである。>
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 さて、この雑誌『音楽世界』には、他にも、あらゑびすや山本直純のお父さんの山本直忠などの記事も載っていて興味は尽きないのですが、巻頭グラフには次のような記事もありました。

池谷信三郎氏達の「蝙蝠座」では第一回公演として同人連作の「ルル子」を六月十二日から四日間築地小劇場で催ふしたが、堀内敬三氏が音楽効果を担当し併せて第三場で酔漢Bとなって小百合葉子の扮する女給の前で十分間程大クダをまくと云ふ隠し芸まで見せて大向ふをヤンヤと云はせた。
写真は左から堀内敬三氏、阿部ツヤ子夫人、阿部金剛氏。

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 そして、この伊庭孝の記事のタイトル挿画のサインを見ても分かるように、挿画のいくつかは、山名文夫が手がけているんですね・・・
 下図のものなどは、いろいろと使い回しができそうで、これからもブログで活用しようと思っています。
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by suzu02tadao | 2014-02-28 11:30 | Comments(0)

宝塚ホテル 旧館

◇「宝塚ホテル」パンフ(戦前)より
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<宝塚は大阪、神戸両大都市の中央山の手に位し、阪急電車の便により双方いづれよりも僅々三十分で達せられます、阪神国道より分岐して武庫川堤松林間のドライヴも亦極めて御便利であります、六甲の山麓武庫川の清流に臨む山紫水明の地で、温泉、少女歌劇、植物園、ゴルフリンクス、ダンスホール等汎有現代的娯楽設備を整へた仙境で御座います。>

 都市近郊に花開いた阪神間モダニズムと呼ばれる文化を担った阪急グループの聖地であった宝塚に、1926(大正15)年開業した「宝塚ホテル」。
 現在では外観的には昔の面影はあまり残していませんが、中庭を囲むアーチ型窓のある旧館(本館)が往時の雰囲気を伝えています。
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 特に、この赤い絨毯の廊下は「宝塚歌劇」の舞台を思わせる華やかな雰囲気があります。
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 ダイニング・ルームだった場所は、ティーラウンジになっています。
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 昔、フロントがあったロビー周辺は今もほとんど変わっていないようです。
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 昔、テニスコートだった場所には、現在、東館が建っていますが、旧館の特徴である切妻屋根とペディメントの装飾は昔のままです。
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 アールデコ様式の中にクラシカルな装飾を配した、優雅さとモダンを備えた意匠であったことが分かります。
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◇「宝塚ホテル」パンフ(戦前)より
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 今年は、宝塚歌劇100周年ということで、様々な記念行事が行われるようですが、宝塚ホテルのレストランで使用のペーパーランチョンマットは「阪急創立廿五周年記念 宝塚婦人こども博覧会々場全景図」をベースにしたものでした。
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by suzu02tadao | 2014-02-25 18:45 | Comments(0)

『阪急美術』

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 1941(昭和15)年4月5日発行『阪急美術』第31号です。

 月刊美術雑誌『阪急美術』は、美術品のコレクターでもあった小林一三(1873-1957)が、美術品蒐集家や趣味人の層を広げるために昭和12年に創刊したもので、前回とりあげたように、阪急百貨店は民藝運動をバックアップしており、この号の表紙装釘はまだまだ売れない作家だった頃の棟方志功が手がけていて、題字は岸本水府となっています。

 そして、この号には船木道忠の陶器展の案内が載っています。
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 船木道忠(1900-1963)は、松江藩の御用窯であった布志名焼の窯元の家に生れました。
 布志名焼は、大名茶人の松平不昧公の好みを反映した茶器類を焼いていましたが、明治末頃には衰退してしまいます。
 そこで、昭和に入ると、柳宗悦や河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチらの民藝運動にいちはやく共鳴して、民藝陶器として復活するのですが、私がおもしろいと思ったのは、船木道忠がバーナード・リーチと共にスリップウエアと言われる英国では廃れていた伝統的技法を再現させたことです。
 ここには、民藝運動が古くからある伝統的な手仕事に注目する一方で、ワールドワイドに展開するモダニズムの様相も見せていると思えるからです。

 前回、森口多里の「民俗工藝小感」の記述を紹介しましたが、この文章が載っていた『民俗と藝術』(昭和17年刊)の序文に次のようにあって、興味をそそられます。
 <大正十二年の関東大震災の惨状をあとにして故国を去つて、~(略)~私は昭和三年の五月に帰朝して始めて知つて驚きもし喜びもしたのは、民族芸術、民藝、商業美術、この三つの熟語が新しく生れ、或ひは新しく一般化し、そしてこの三つの分野でそれぞれ情熱的に活動してゐる一群の人々の現はれてゐたことであつた。>

 1920~30年代というと、科学技術の進歩による機械化や交通機関の発達、あるいはモボ・モガの出現等といった側面だけでとらえがちですが、「民藝運動」もモダニズムの時代に始まったことにも注目してみる必要があるように思われます。

 実際に、民藝となった布志名焼では、日本の家庭生活が洋風化していく中で、コーヒー碗や紅茶碗を始め、ピッチャーやエッグベーカーなどを作っています。

 『阪急美術』編集長の山内金三郎(1886-1966)は、阪急百貨店内にあった古書店「梅田書房」のオーナーとしても活躍したのですが、この「梅田書房」にいた廣岡利一が独立して開業したのが、美術古書籍及び美術工芸品を扱う「りーち」(現:株式会社リーチアート)で、やはり、山内金三郎の意思を受け継いでいるようです。

 下図は「りーち」の「古民窯展」の案内です。
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 この案内に載っているような品々は、私が店に行った時には、ほとんどが売約済みとなっており(売れ残っていたところで私が買える値段ではないのだが…)、なんとか、私が買ったものが下の写真の布志名焼のピッチャーでした。
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 現在でも、わが家の玄関で花瓶として使っています。
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by suzu02tadao | 2014-02-22 14:35 | Comments(0)

日本民藝新生活品展覧会

◇『阪急美術』第8号(昭和13年5月5日発行)より
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 <百貨店の所謂「催しもの」に近頃新しい流行が一つ加はつた。それは世間で「民藝」と一般に呼び慣はしてゐる工藝品の蒐集、展覧、また即売である。「民藝」なる語は恐らく ラール・ポピュレール(L'art Populaire)に当たるものらしく、この語が一般化されたのは古いことではない。新熟語として作り出されたのも、多分関東大震災以後であらう。それ以前はこれに代はる慣用語として「農民美術」とか「郷土藝術」とかの如き語が存在してゐた。>
(森口多里「民俗工藝小感」昭和7年6月)


 出川直樹著『民芸 -理論の崩壊と様式の誕生-』(1988年刊)は、戦後の民芸ブームを経て、いわゆる「まがい民芸」がはびこる現状を嘆きながら、民藝運動の基盤となった柳宗悦の民藝理論にメスを入れたもので、それはそれで大変に意義のあることであったと思う。
 しかしながら、民藝運動の実際の活動内容については、あまり触れられてはおらず、冒頭の森口多里の記述や、昨年の「暮らしと美術と高島屋」展等で、民藝運動が百貨店と深く関わっていたことを知ったのだった。

 『阪急美術』第8号は、阪急百貨店で昭和13年5月15日から22日まで開催の「日本民藝新生活品展」特集となっており、柳宗悦「見るものと使うもの」、濱田庄司「民藝品の城を築く」、吉田璋也「日本民藝新生活品展に就て」の記事を載せている。
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 「日本民藝新生活品展」は<河井寛次郎氏の指導設計に成る大モデルルームを特設し、全国の優れた民藝品を総動員して展覧!>というもので、
 『阪急美術』編集長の山内金三郎も、<この展覧会は、河井寛次郎氏が主になつて、客間、食堂兼茶の間と言つたやうな幾つかの部屋を実際に造り、謂ゆる民藝としての工藝品を如何に実生活の中へ取り入れるべきかを実地に示して頂かうといふのである。>と紹介している。

 1936(昭和11)年に開設された、東京・駒場にある日本民藝館は上記にあるようなモデルハウスとして建てられたもので、昭和3年の『中央美術』のコラムの中で、当初、博覧会のパビリオンとして建てられた「民藝館」について次のように紹介している。
 <三月から五月にかけて上野に開かれる御大礼記念国産奨励博覧会には風変りな出品として「民藝館」といふがある。
 これは~(略)~日本民族美術館の同人の計画で、主に柳宗悦氏が、東北から九州へかけて日本の持つ古い、いゝところを探し、この古いものゝ美しさに更に新しい美しさを盛るやうに設計されたものである。
 つまり此出品は日本民族美術館の最初の創作発表であつて、意義深い試みである。~(略)~
 要するに古いもので健康な美があり、現在の生活に取り入れられるものは全部取り入れ又一面新しい美でも軽薄でなく健康な美は取り入れて、生活を美しく快くされる中流住宅の見本を示すものである。>


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 民藝に関しては、当初、私が先輩にすすめられて、柳宗悦著『工藝文化』を読んだ時には、口絵にあった「ローソク徳利」の土俗的な雰囲気そのままに、自分の趣味とは関係なく思えて、さほど関心が湧かなかった。
 しかしながら、私が骨董病にかかったバブルの最盛期の頃、その当時、にわかに現れたコンクリート打放しの骨董店の空間に置かれたこれらの物は、新たな魅力となって、私をとりこにしてしまったのだった。

 駒場の民藝館を初めて訪れたのもその頃で、バブル時代の民藝館は閑散としており、私と家人の他にはほとんど誰もいない展示室で、今ではTVでもおなじみの尾久彰三さんが、展示物について、ひとつひとつ丁寧に解説してくれたことが、貴重な思い出となっている。

 下の写真はその時に、民藝館の売店で購入したものです。
 おそらくは明治頃の瀬戸の焼物と思われ、ご覧のとおりの傷モノで商品にはならなかった品々のようで、1個300円だったため、5客も買ってしまったのだが、それぞれが、タンパン?の出た黄瀬戸風や古瀬戸風あり、また志野風?の物もあったりで、今でも、たまには食卓を飾ることもあって、重宝しています・・・
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by suzu02tadao | 2014-02-19 11:25 | Comments(0)

デザイン・クリエイティブセンター神戸「KIITO」

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 1927(昭和2)年に輸出生糸の検査を行う施設として建設されたこの建物は、外観がなかなかユニークなので、今までにもいろいろなサイトで紹介されていたのですが、中に入ってみると、この階段周りなどは、ダイナミックに弧を描く造形が迫力があって、荘厳な感じさえしていました。
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 踊り場の窓からは、昔の姿そのままの神戸税関の時計塔が見えていて、ちょっとタイム・スリップしたみたいな気分になります・・・
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 2012年8月よりデザイン・クリエイティブセンター神戸「KIITO」として、デザインやアートにまつわるイベントやセミナーなどを開催する施設として使われているということで、1階にあるカフェでは生糸の検査機械をそのままインテリアとして活用しているなど、やはりオシャレな空間になっています。
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 昔のままのエレベーターの表示が、レトロ・モダンでステキです。
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 内部から見たエントランス付近です。
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 これは、何をモチーフにしているのでしょうか?・・・花の蕾?
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 エントランスの上部にある、糸を吐く蚕をデザインしたとされるテラコッタの装飾が、なんといってもユニークです。
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 おなじみの外観は、茶褐色のタイル貼りに、城砦風の柱や尖頭アーチが特徴のネオゴシック風で、本来なら厳めしくなるはずのところですが、スタイリッシュでオシャレな仕上げになっているところは、さすがに神戸の建物ですね。
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 こちらは隣にある新港貿易会館の階段です。
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 この建物も外観が特徴的ですが、中に入ってみると、こちらも大理石の階段がとても立派で印象的でした。
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 アールをつけたコーナーの造形がゆったりとしていて落着きを感じさせます。
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 新港貿易会館と「KIITO」が並ぶ姿は、近代神戸の開港を象徴する新港地区のランドマークですね・・・
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by suzu02tadao | 2014-02-16 13:20 | Comments(0)

吹田草牧

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 のどかな風景です。
 場所は瀬戸内海でしょうか?
 季節はちょうど今くらいのようです・・・

 この色紙は、1年前に、水田竹圃などの色紙と一緒に均一本と同程度の値段で手に入れたもので、吹田草牧(すいた そうぼく、1890-1983)の作品ですが、制作されたのは大正の終りから昭和の初め頃であろうと思われます。

 吹田草牧は、1922(大正11)年に日本画家の菊池契月や入江波光、美学者の中井宗太郎と共に渡欧した際に、巴里にいた従兄である洋画家の黒田重太郎の案内で、19世紀以降のフランス近代絵画を見て回り、西洋絵画を研究することで新たな日本画を目指すのですが、その当時、黒田が師事していたアンドレ・ロートの作品からも大きな影響を受けているようです。

◇アンドレ・ロート「水浴」第13回二科展出品作
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 アンドレ・ロートは、セザンヌ、ピカソへの関心から、写実的な自然の形態を残したキュビスムの作品で、当時の日本の画家には人気があり、二科会の在外会員となったこともあって、黒田の他にも船川未乾や川口軌外も師事していたようで、古賀春江、矢部友衛などもロートから影響を受けています。
 現在の日本では、アンドレ・ロートは書籍や展覧会ではまとまった形で紹介されていませんが、もう一度見直してみてもおもしろい画家であるように思います。

 下図は、吹田草牧の代表作「醍醐寺泉庭」(京都国立近代美術館蔵)ですが、やはり、渡欧して西洋絵画を研究した土田麦僊や小野竹喬の作品と共通するものを感じます。
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 美術雑誌『アトリエ』(昭和2年5・6月合併号)には、ちょうどこの年に国画創作協会の新会員となった吹田草牧のプロフィールが紹介されているのですが、おもしろいことに、甲斐庄楠音もこの年に会員になっていたのでした。

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by suzu02tadao | 2014-02-13 23:50 | Comments(2)

恋川春町<江戸のモダン>

◇恋川春町 『当世風俗通』挿絵より
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 恋川春町(こいかわ はるまち)・・・いい名前ですねェ…。

 恋川春町(1744-1789)は江戸時代中期の戯作者、浮世絵師で、今日の漫画雑誌にも通じる黄表紙といわれるジャンルを開拓し、この恋川春町が挿絵を描いた洒落本『当世風俗通』の作者、朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)と並んで黄表紙全盛時代を築いた人なんだそうです。
 なお、恋川春町も朋誠堂喜三二も武士なのですが、恋川春町は駿河小島藩1万石松平家の家臣で、石高は最終的には120石だったということです。
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 さて、これらの挿絵にもあるように、黄表紙には、都会人らしい洒落、滑稽、ナンセンスなどの遊びの要素が仕組まれていて、まさしく<江戸モダン>とも言えるもので、恋川春町は一躍売れっ子作家となったのですが、寛政の改革を題材に刊行した黄表紙が、松平定信の改革政治を風刺した内容であったため、春町は定信から出頭を命じられると病気を理由にこれを辞し、間もなく没したため、その死を自殺とする説もあるようです。
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 この寛政の改革のために大打撃を受けたのが、山東京伝や大田南畝などの作家、喜多川歌麿などの浮世絵師、そして彼らの出版元となった蔦屋重三郎といった面々なわけで、まさに江戸の爛熟文化を象徴するような趣があって、どこかで1920~30年代と共通するような気がします。

 そういえば、江戸ブームが始まったのも、1920~30年代が見直されたのも、ちょうど1980年代のバブルが始まるころでしたね・・・
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 この恋川春町の粋な絵が載っていたのは、大正5年12月発行の雑誌『江戸趣味』ですが、編集者の朝倉無声の他、饗庭篁村、三村竹清、三田村鳶魚、佐々醒雪、今井卯木など・・・江戸の風俗・文化に関しては多大な知識を持つ執筆陣が名を連ねています。

◇礒田湖龍斎「風流浮世八景浅草晴嵐」
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 巻頭口絵は、恋川春町と同時代に活躍した礒田湖龍斎の木版画になっており、また、為永春水作の人情本「辰巳之園後編」外袋(これも木版画!)もあって、見るだけでも楽しめるものになっています。

◇人情本「辰巳之園後編」外袋(歌川国直画)
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 ところで、巻末にこの雑誌『江戸趣味』の取次所として、大阪東区平野町三丁目「柳家書店」とあるのを見つけて、ちょっと嬉しくなってしまったのですが、ちょうどその頃の「柳家書店」のことを、藤沢桓夫が次のように書いています。
 <この平野町の通りには、南側に、私の好きな店が一軒あった。それは「柳家」と言う気の利いた封筒などを売る文房具店であった。(本屋であった様な気もする。)その店の陳列窓には竹久夢二の木版の大きな女の絵が幾つも飾ってあった。それらのひどく新しい色の感じの絵を見るのが私には非常な楽しみであったのだ>
(『大阪 我がふるさとの・・・』)


 その当時は、夢二の他に富本憲吉も関わっていて、「柳家書店」は大阪の大正モダンの発信地であったようなのです・・・
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by suzu02tadao | 2014-02-10 11:20 | Comments(0)

前衛デザイナー : 山田伸吉

◇松竹座ニュース【1925(大正14)年10/22~10/28】
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◇松竹座ポスター「罪と罰」【1925(大正14)年】
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 前回の「三科展」が開催されたのと同じ時期の松竹座ニュースとポスターですが、どちらも山田伸吉がデザインしたもので、「三科展」の出品作と同じくらい前衛的な表現になっています。

 実際に、前衛美術グループ「マヴォ(MAVO)」のメンバーが装丁や挿絵を手がけたものと比べてみると、同じような表現であることがよく分かります。

◇雑誌『マヴォ(MAVO)』(1924~1925)
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◇詩集『死刑宣告』萩原恭次郎【1925(大正14)年10/18 発行 】より
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 海野弘著『モダン・シティふたたび』の中で、<キネマと都市 松竹座>と題して次のように書かれています。
 <~映画というメディアによって、東京と大阪、さらに、ニューヨークやパリ、ベルリンなど世界中の都市が、2、30年代に交流しあっていたことを思い出そう。松竹座は、大阪のモダニズムの窓だったのである。>

 そして、昭和8年の『モダン常識辞典』の中では<日本美術界概観>として、次のように述べられています。
 <~近世になつて科学が発達して来ると、迷信が流行らなくなるので、自然主義から立体派、未来派、表現派、超現実派、無産派、等々と様々の姿で、どれもこれももつともらしい姿で表れた。
 現代人は形式には最早驚かなくなつた、求めてゐるものは内容と形式の一致した健康な美術である。
 画壇は余りに退屈な絵を我々に見せ過ぎてゐる。
 今人が五十銭持つてゐるとするなれば誰でも活動を見る、活動は我々の生活に近いからだ。美術も亦人の生活に近づかなければならない。
(※この辺り、前回の村山知義の主張と共通していますね…)

 その当時の映画は時代の先端を行く芸術表現だったわけで、しかも最も大衆に支持されていたものだったのです。
 そして、モダンデザインの父と呼ばれた今竹七郎が、若き日に最も注目していたのが山田伸吉だったことを思えば、やはり山田伸吉は前衛デザイナーだったと言えます。

 当ブログのタイトルに使っている、私のお気に入りの山田伸吉デザインの「松竹座ニュース」も、それを証明していると思うのです。

◇松竹座ニュース【1925(大正14)年9/11~9/17】
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by suzu02tadao | 2014-02-07 11:30 | Comments(0)

「三科展の弁」 村山知義

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 前回、ジョージ・グロスの評伝を書いた柳瀬正夢にふれましたが、柳瀬と共に「マヴォ(MAVO)」を結成するなど前衛美術運動を展開していた村山知義が、1925(大正14)年10月号『中央美術』の中で、「三科展の弁」と題して、この年の9月に上野の自治会館で公募展として開いた第二回三科展の紹介をしており、ご覧のとおりの不鮮明な図版と主な作品の批評を載せています。
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 <今迄は何一つ展覧会が無かつたのである。三科展が開かれて人々はほつと息をついた。
 「我々はやつと見るべきものを持つた!」
 凡庸な人間共の狭い趣味に従つてぬたくられた絵画又は彫刻と称するあまり利巧でも便利でもない因習的表現様式の生気無き羅列は人々にとつてはもうビタ一文にも値しなかつたのである。>


 冒頭から、このような調子で既成の美術表現を否定しており、ベルリンから帰国後すぐに前衛芸術家としての活動を開始した村山知義の面目躍如といった感じがします・・・そして、次のようにも書いています。

 <私は来年の三科は、物凄い博覧会(!展覧会ではありません!)になるに違ひないと思ふ。その中には劇場芸術もあり、講演会もあり、運動器具もある。
 今度の展覧会が成功を見れば私達はきつと活動写真を撮影するであらう。
 それが全く断然たる映画になることを私達はもう今から知つてゐる。>

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 <三科がいろいろの点(推せん制度、会員制度、入場料の件等)で不完全な組織をとつてゐることは疑ひない。しかし無暗に現想論を追ふ者は、社会がどんなにナマコのやうな、殆んどハシにもボウにもかゝらないものであるかとうふことを知らないのだ。
 三科はなすべきことをたくさん持つてゐる。
 三科の将来は決して予測されない。
 三科は揉める。
 三科は急転する。
 そして三科は、三科は、三科は、進行してゆく。>


 ・・・と結んでいますが、思想的にも様式的にもさまざまな立場やグループの集まりであった三科は、内部対立によって展覧会の会期中の9月20日には解散広告を出しており、この記事が人の目に触れる頃には既に三科は存在していなかったというわけです。
 しかしながら、この後、劇作家、演出家、美術家、舞台美術家、小説家などとして八面六臂の活躍で、「日本のダヴィンチ」と呼ばれた村山知義をはじめ、柳瀬正夢など三科のメンバーのマルチな活動の足跡を見れば、けっして間違ったことは言っていないようにも思えるのです。
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 ところで、この時の出品作品は122点だったのですが、批評の中に次の記述もあり、後に日本を代表するグラフィックデザイナーとなった、若き日の原弘も出品していたことが分かります。

 <原弘氏の石版術の始祖、アロイス・セネフエルダー氏への感謝はたゞ新しい石版であるといふだけのことで、それ以上には行き兼ねてゐる。>

 また、ワルワ―ラ・ブブノワの出品作についても批評していますが、それは下図のものではないかと思われます。
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 <ブブノワ女史の版画、殊に自像のはひつた石版画は面白い。女史は産業芸術の立場から、一枚々々の作業を棄てゝ大量生産的版画へはひつて行つた人だけに、暇つぶしや他に何にも出来ないためにやつてゐる人達の版画とは全く異つたりんりんたるものである。>
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by suzu02tadao | 2014-02-04 11:30 | Comments(0)

祝盃の歌 Stein Song

◇楽譜「祝盃の歌」:1930(昭和5)年
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 この「祝盃の歌」は、ドイツ民謡および世界的スタンダードソングの「Stein Song」を日本語でカヴァーしたもので、現在では「乾杯の歌」としてよく知られており、その昔のNHK紅白歌合戦のオープニングテーマ(歌手入場曲)としてもお馴染みの曲でもあります。
 表紙の絵の作者は不明ですが、以前に取りあげた楽譜「ミス・ニッポンの歌」と同じように、1930年頃のエロ・グロ・ナンセンスの世相をよく表しています。

 ちょうどこの頃には、小野佐世男も風刺漫画誌『東京パック』や『カクテール』などを足場に活躍しはじめるのですが、この当時の画家や漫画家は小野に限らずロートレックやジョージ・グロスの影響を受けており、それらの誌面では、プロレタリア美術とエロ・グロ・ナンセンスの漫画が共存していたのでした。

◇「恋を占う女」(カクテール誌)八木原捷一(『漫画100年』より)
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 当時は宮本三郎も下図のような絵を描いており、他にも古賀春江、東郷青児、向井潤吉なども風刺画を描いていたようです。

◇「機械と階級」(東京パック)宮本三郎(『漫画100年』より)
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◇「農村の暴状」柳瀬正夢(『漫画100年』より)
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 ジョージ・グロスについては、柳瀬正夢は評伝を書くほど傾倒していたようですが、昭和8年の『モダン常識辞典』(実業之日本・附録)の<世界美術傾向>の中で、
 <さしも誇つた仏蘭西画壇は頂上から漸くドイツとロシアへその勢力を奪はれつゝある>として、フランスの作家では、ピカソ、マイヨール、ローランサン、マチスなどを挙げていますが、ドイツではジョージ・グロスを挙げており、
 <暴露的な絵を好んで描き、プロレタリア美術の元祖とも云ふべき人>と解説しています。

 また、この『モダン常識辞典』では、<漫画時代>と題して当時の漫画家の活躍ぶりを紹介しています。

 <帝展でも池部鈞の漫画が美術として待遇されてゐる。最早卑俗な戯画ではなく、一個の独立した美術である。漫画家の収入を覗いて見ると、岡本一平(五百円位)田中比左良(千五百円位)和田邦坊(千円位)川間くにを(七百円位)堤寒三(七百円位)細木原青起(七百円位)人を笑はせて、この位入れば大臣なんて命がけな仕事は損である。>

 更には、商業美術家や挿絵画家も稼いでいたようです・・・

 <商業美術の多田北烏(三千円位)挿絵家では岩田専太郎(千五百円位)林唯一(九百円位)齋藤五百枝(八百円位)名もなき一寸した画家でも百円は稼いでゐる。>

◇「非常時のエスプリ」ジョージ・グロス(『犯罪公論』昭和8年8月号:口絵)
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by suzu02tadao | 2014-02-01 14:30 | Comments(0)