1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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<   2014年 05月 ( 11 )   > この月の画像一覧

「軍艦アパート」があった辺り

◇アパート風景(『近代大阪』より)
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 < アパートの近代建築は、あらゆる都会の廃棄物をこゝにあつめてゐる。紙屑屋、荷馬車挽、日雇稼ぎ、旅芸人、小売行商、そして、それ等の生活を保障するための、日用品、雑貨の店など、それ等の生活が鉄筋コンクリートの置棚のやうな家にしまひ込まれてゐる。
 家の裏手に廻ると、いくつもの大きな荷馬車が置かれ、その車の上を伝つて、無数の子供が飛び廻つてゐる。>


 前回、池田谷久吉が記した、日本橋四丁目から愛染堂までの途中の、下町の匂いがむんむんと漂うこの界隈の情景を紹介しましたが、ちょうどその辺りに、1930(昭和5)年には、当時では珍しい鉄筋で、各戸には水洗トイレやダストシュートが備わった、最先端を行くモダンな集合住宅が完成しました。
 かつて「軍艦アパート」と呼ばれたこの建物については、上記のとおり、北尾鐐之助も『近代大阪』の中でとりあげています。

 現在、跡地はスーパーになっていますが、下の写真の交差点のはるか向こうにある高台の木々の奥に愛染堂があります。
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 「軍艦アパート」は無くなりましたが、この周辺には、今でも戦前から続く昭和レトロな下町の情景が残っています・・・
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by suzu02tadao | 2014-05-29 11:10 | Comments(0)

「愛染堂」 趣味の古建築

◇池田谷久吉『趣味の古建築』(昭和3年)より
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 『えゝあれです、あれが夕陽丘、勝鬘院の多宝塔です、凡て日本建築の屋根と軒先とのカーヴが大体その美しさを決定するもので、これがまた、たしかに日本建築の卓越した特長とも云ふ事が出来ますね』 私はいつも、こんな事を考へてゐるので話した。

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 建築家の池田谷久吉により上記のように紹介されている、通称「愛染堂」、勝鬘院の多宝塔の創建は、推古天皇元年(593)聖徳太子によるもので、その後、織田信長の大阪石山寺攻めの際に焼失しましたが、慶長2年(1597)豊臣秀吉により再建されたとのことです。
 大阪市最古の木造建造物として国の重要文化財に指定されています。
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 この多宝塔の手前、境内の中央に構える朱塗りの金堂も、徳川幕府二代目将軍・徳川秀忠の手によって再建された歴史ある建物で、大阪府の指定文化財に選ばれています。
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 寺町の通を横切つて石畳の坂道をぐりぐりと廻つて人通りの少ないお寺の裏道を登つて行くといつの間にか大江神社の表鳥居前へ出て居た、こゝは高津に亜ぐ大阪で見晴のよいところだつた、煙つた街の家並は押し潰された様に平べつたくうねうねと波立つてゐた。
 そこから東へ少し行くと、といつて、うつかりするとすぐ通り越しそうな手近くの北側に勝鬘院の南大門がある、実は昔は大門だつたろうが四脚門の丹塗にした小さい御粗末なもので入口の虹梁の中央には愛染堂と書いた門灯がある。

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 昭和の初め頃の愛染堂の門前の様子も現在とあまり変わらなかったようですが、聖徳太子の「飛び出し注意」の看板はやはり大阪ならではですね・・・外国人観光客もカメラに収めていました。
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 この愛染堂は、オダサクが生れ育った生國魂神社界隈よりは少し南方にありますが、同じように下町の匂いがむんむんと漂う、この辺りの当時の様子を、池田谷久吉は次のように記しています。

 < 日本橋四丁目で下車して東へ行くと黒ずんだ、昼でも家の内がうす暗く、じめじめとした汚ない、軒の低い長屋が数丁も並んでゐて、悪寒い風が灰色の砂を屋根の上を通り越して大空にまで吹き上げてゐた。
 狭い道の真中で腕白小僧が鼻汁を出して遊戯をしたり、四つ辻では焼芋、関東煮、カルメラ焼などの車がごちゃごちゃしてゐて、自転車や荷車がその中を危つかしく縫つて行く、実に目が眩みそうなところである。
 こんなところがかなり長く続くので頭がくしゃくしゃして来た。
 早くどこか美しい、すつかりとした気持ちのよいところへ出たいと思つてゐた折抦、真直東の方を見上げると頭の上のズット遠い高い処に風にふるえる枯木の小枝の中から塔婆の上層と丸輪とが、ぬうと、然かも水煙が立ちのぼる陽炎の様に冬の淋しい大空に突つ立つてゐるのが見える。>

 この後に、冒頭の文章が続くというわけです。

 池田谷久吉は大正から昭和にかけて大阪を中心に活躍した建築家で、岸和田城の再建の設計など主に伝統的な日本建築を手がけており、自邸他いくつかの作品が国の登録有形文化財に指定されています。
 文章も上手だなと思ったら、この本の巻頭には、「龍門の四天王」の一人、南部修太郎が文を、高安やす子が歌を寄せています。
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 そして、私がこの本を手に入れたのは、装丁を手がけたのが小出楢重だったからなわけで、この当時には様々なジャンルの文化人が華やかに交流していたことが伺えます。
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by suzu02tadao | 2014-05-26 11:20 | Comments(0)

「夕陽丘」 今昔 -2-

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 京都の清水寺そっくりに造られたということで、新清水寺とも呼ばれた夕陽丘の清水寺は、江戸時代の大阪旅行ガイドブック「摂津名所図会」や「浪花百景」にも登場するほど観光名所として有名で、境内にある舞台からは藤原家隆卿が詠んだように、かつては大阪湾から淡路の島影に沈む夕日が臨めたようです。
 今では大阪湾は見えませんが、清水の舞台から臨む通天閣やビルの海の眺望はなかなか面白いですね・・・
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 また、南方に目をやれば、梵鐘を背景に「あべのハルカス」も見えています。
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 清水寺の北側にある大江神社も坂の上にあります。
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 大江神社の境内も、オダサク『木の都』にあるとおり、鬱蒼とした木々に覆われています。
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 そして、境内の奥には、300年の歴史を有する狛虎が鎮座する、わが阪神タイガースの勝利のパワースポット!があるのです。
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 まさに夕陽丘は大阪の心のふるさとですね。

 さて、夕陽丘の最南端にあるのが安居神社です。
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 ここは今、ホットな話題の真田幸村終焉の地としても有名です。
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 この境内からも通天閣を見ることができます・・・
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by suzu02tadao | 2014-05-23 14:00 | Comments(0)

「夕陽丘」 今昔 -1-

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 < 大阪は木のない都だといはれてゐるが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついてゐる。>
で始まる、オダサク『木の都』の文学碑がある口縄坂を上った辺りについては、北尾鐐之助も『近代大阪』の中でとりあげています。

 < 夕陽丘町の坂は、坂の中途に夕陽丘高女が出来て、すつかり若やいだ姿に彩られてゐる。有名な愛染堂、大江神社、藤原家隆卿の墓などがこの付近に集つてある。家隆卿はこゝに隠遁して一生を終へた。いまこの辺の地形を考へてみても、以前は西方一帯の低地を隔てゝ、近くに浪華の海の色を朝夕に眺めたことであつたらう。夕陽ヶ丘の名の起りであるといふ。>
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 さて、上の写真の右側にあるささやかな祠の石灯籠に次のような寄進者の銘が刻まれているのを見つけて、私はうれしくなってしまいました・・・

 楽天地北横
 八島洋食店

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 「楽天地」の北横にあった洋食店・・・
 そういえば、『木の都』にも元洋食屋だったレコード屋のことが出てきていましたね。
 オダサクも、そして…楽天地の跡地にできた< 歌舞伎座が新築されて、千日前の空気は一変した>と書いた北尾鐐之助も、この祠には目をとめたはずです。
 まさしく、これは、なにわの近代化遺産ではないでしょうか・・・

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 緑の色で覆われた木々の下、口縄坂を下りていくと、かつてオダサクが胸をひそかに燃やした女学校があった辺りには、猫たちがたむろしていました・・・
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 北尾鐐之助も書いているとおり、すぐ近くには藤原家隆の墓と伝えられる「家隆塚」があります。
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 オダサクも『木の都』の中で次のように書いています。
 < 藤原家隆卿であらうか「ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入日ををがみつるかな」とこの高台で歌つた頃には、もう夕陽丘の名は約束されてゐたかと思はれる。>
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 今では、この近辺にはミッドセンチュリーに建てられたと思われる洒落たマンションや、アール・デコ風のアパートが佇んでいます・・・
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by suzu02tadao | 2014-05-20 11:15 | Comments(2)

「別府へ」 大阪商船

◇1937(昭和12)年12月発行
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 < 阪神、四国、九州を結ぶ大阪商船の別府航路は世界に類を見ない海上公園瀬戸内海を横断するもので、この航路はまた東京、阪神、別府、阿蘇、雲仙、上海等をつなぐ国際観光ルートにも当ってをります。
 従って使用船は何れも観光船としての使命をもつ優秀船揃ひで、居ながらに明媚な風光を観賞し得る独特の設備を整へてをります。>


◇「こがね丸」
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 前回の奥野他見男の作品から10年も経ると、別府観光もすっかり定着したようで、大阪商船の別府航路も、「紫丸」や「紅丸」に代わって、更に大型の豪華客船「こがね丸」や「に志き丸」が主役になっています。
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 砂湯や地獄めぐりはもちろんのこと・・・
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 油屋熊八が開発した、現在の「やまなみハイウェイ」の原型でもある自動車による観光・・・
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 さらには「由布院温泉」や「別府ゴルフリンクス」も目玉のひとつになっています。
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 さて、前回から別府観光の旅を続けてきましたが、なんとここで、ミスター大阪とも言える織田作之助ことオダサクに出会ってしまいました。
 オダサクの別府三部作といわれる『雪の夜』『湯の町』『怖るべき女』の他に、『続・夫婦善哉』も別府が舞台になっています。

 下記は『雪の夜』の一節です。
 < しかし、さすがに流川通である。雪の下は都会めかしたアスファルトで、その上を昼間は走る亀ノ井バスの女車掌が言うとおり「別府の道頓堀でございます」から、土産物屋、洋品屋、飲食店など殆んど軒並みに皎々と明るかった。>

◇「流川通」
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 次回は、また、大阪に戻って、オダサクにゆかりのある界隈をブラブラと歩こうと思います・・・
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by suzu02tadao | 2014-05-17 15:30 | Comments(0)

「別府夜話」 奥野他見男

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 <うれしい別府!あの湯には天女の如き裸女が砂湯に戯むれてゐる。君見ずや、君知らずや、行くなら別府である。私は今、湯の街の灯の色を浮かべて、玆(こゝ)に筆を走らせて行くであらう。>

 奥野他見男(1889-1953)は、流行語、新風俗を描きながら、大正から昭和初期に一世を風靡した作家ということですが、1925(大正14)年の作品『別府夜話』では、冒頭の<砂風呂の裸女>と題された、上記のような魅惑的な文章で始まった後は、銀座のカフェ・ライオンで、謎めいた美女と出会うというまさにトレンディなストーリー展開で、こういうところが、当時の読者を魅了したのだろうと思われます。
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 その後、汽車で神戸まで行き、そこから、大阪商船の大型豪華客船「紫丸」で瀬戸内海を通って別府に行きます。

◇「紫丸」
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 別府に着いてからは、地獄めぐり、由布院、共同浴場、砂湯など・・・今日ではお定まりの別府観光をするのですが、別府観光の生みの親と言われる油屋熊八(1863-1935)も登場しています。
 油屋熊八が「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズを刻んだ標柱を、富士山山頂をはじめ、全国各地に建てて回ったのも、ちょうどこの頃のわけで、まるで、現在のNHK歴史ドラマなどが旅行会社や交通会社とタイアップして観光キャンペーンを行うさきがけといった感じがしないでもありません。
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 実際に、阪神~別府間を結ぶ大阪商船の定期航路は油屋熊八の尽力で実現されたものですが、帰りの船は、大阪商船の支店長が、当時の最新鋭で「瀬戸内の女王」と呼ばれた大型豪華客船「紅丸」(二代目)の一等室を奥野他見男に用意してくれています。

◇「紅丸」(二代目)
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 別府では、『別府夜話』のタイトルどおりちょっと淫靡で思わせぶりな場面を出しながら、最後は東京に帰って、家族へお土産を渡してハッピーエンドで終わらせるという・・・この辺りもさすがに流行作家だけあって、抜け目がありません。
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 さて、私がこの本を手に入れたのは、いつものように、モダンな装丁に魅せられたからなのですが、これは長光堂の「他見男全集」のもので、挿画はオリジナル本と同じで、ご覧のような「ヘタウマ」の元祖ともいえる漫画家の服部亮英(はっとり りょうえい、1887-1955)です。

 服部亮英は、岡本一平らと共に東京漫画会で活躍しましたが、本来は洋画家で北京美術学校校長でもありました。
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 本体及び函の装丁は、挿画と作風は違いますが、サインはやはり服部亮英の頭文字「H」のようにも見えますが・・・どうなんでしょうか?
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by suzu02tadao | 2014-05-14 11:25 | Comments(0)

「カンカン虫は唄ふ」

◇楽譜「カンカン虫は唄ふ」1931(昭和6)年4月25日発行
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 作詞は花柳小説家としても有名な長田幹彦(1887-1964)。
 作曲は松平郷松平家第20代当主ということで「殿様作曲家」と呼ばれた松平信博(1893-1949)が手がけています。

1.世界五大州 果てから果てへ 船は浮気な 吹く風次第
  帰るねぐらの この浮寝鳥 港みなとの 潮垢おとす
  カンカン虫は可愛いゝね 煤で黒うても よいをとこ。

2.一度手がけりや 忘れぬお前 野暮なドックで また逢ひ戻り
  錆をおとして 紅かねつけりや 出船別れの 名残りが惜しい
  カンカン虫は可愛いゝね 煤で黒うても よいをとこ。

3.煙る野毛山 横浜港 町の月夜にや 恋しいあの子
  踊る手振りも 夜ごとの夢に 惚れて悪けりや 笑をとまゝよ
  カンカン虫は可愛いゝね 煤で黒うても よいをとこ。

4.海で果てるは 前世のえにし 渡るこの世は 波風まかせ
  空にや日が照る 明るい雲に  唄をきかせて 月日を暮らす
  カンカン虫は可愛いゝね 煤で黒うても よいをとこ。


 この曲は、1931(昭和6)年5月に公開された日活映画「カンカン虫は唄ふ」(監督:田坂具隆)の主題歌だったものです。
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 この楽譜は、2年くらい前に、ヤフオクでわりと安く落札したもので、それからはずっと仕舞いこんでいたのですが、少し前に、この映画の原作となった戦前の吉川英治著『かんかん蟲は唄ふ』を手に入れて、読んでみたところ、これが、とても面白くてビックリでした・・・

◇吉川英治著『かんかん蟲は唄ふ』(昭和10年 8版)日本小説文庫 春陽堂
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 <「食へない者は、誰でも、おれに尾(つ)いて来な、晩にゃ、十銭銀貨(ワンダラ)二ツ、白銅一個を進上するぜ」
 かんかん蟲のトム公は、領土の人民を見廻るやうに、時々、自分の住んでゐるイロハ長屋の餓ゑをさがした。
 で、彼は、貧民街の同胞たちから、長屋のプリンスの如く人気があった。二年や三年食ひはぐれて見ても、外国のやうで日本のやうで、金儲けで埋つてゐるやうで、金を損(す)らせる坩堝(るつぼ)のやうで、得体のわからない貿易港から、ふしぎにもよく仕事のアナを探って来る彼は天才だった。>


 「かんかん蟲」とは、長い航海を終えて港のドックに入った船の、船腹のついた錆びや貝がらを取り除く作業をする職工の俗称で、ハンマ-で船腹をカーンカーンと叩く音から、このような呼び名になったようですが、最初から、上記のように軽妙な文章が続くので、ぐいぐいと引き込まれてしまいました。
 この作品は横浜出身者である吉川英治の自伝的小説でもあって、特権階級の居留外人が練り歩いていた阿片窟のような横浜中華街など、100年前の身分の差や貧富の差が歴然とあった社会を舞台に展開しており、現在との時代のギャップもあって非常に面白く感じました。
 吉川英治は『宮本武蔵』などの時代小説で、幅広い読者層を獲得し、「国民文学作家」と称されましたが、あんがい現代ものを書いても話題作を書けたのではないかと思います。

 そんなふうに思っていたら、この間も古本市で、戦後に出たこの本の別バージョンを見つけたのですが、表紙が気に入って、ついついジャケ買いしてしまいました・・・

◇吉川英治著『かんかん蟲は唄ふ』(昭和22年 初版)吉川英治選集1 早川書房
(装幀:住川雅鴻)
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 なお、映画作品としても、戦後の1955(昭和30)年8月に、大映がリメーク(監督:三隅研次)しており、その時の主役は勝新太郎で、主題歌(萩原四朗詩・大久保徳二郎曲)も歌っています。また、この映画には妹役で後に妻になった中村玉緒さんも出演しています。
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by suzu02tadao | 2014-05-11 14:40 | Comments(0)

玉造駅界隈

◇平井房人「玉造」
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 <これは玉造の市電の終点です。左手に省線の駅の入口が見へてゐます。この頃はタクシーが姿を消した代りに、古風な人力車が人待ち顔に並んでゐるのも、銃後の新風景の一つでせう。夕もやの中からフイと現れた綺麗な女に『心斎橋はどっちですか』ときかれた。>

 上図は、『銃後の大阪』第6報に掲載の「漫画 大阪二十二区図絵」の中の「玉造」(東区)で、戦時中の玉造駅の様子が描かれています。
 平井房人 (ひらい ふさんど、1903-1960)は、宝塚少女歌劇の美術部に所属し、雑誌『歌劇』の編集や舞台の台本やポスター制作でも活躍した漫画家です。

 この絵では玉造は市電の終点となっていますが、この絵の描かれたすぐ後の昭和19年10月1日より、玉造今里線が開業して、今里まで延長されていたため、現在も市電の乗り場の跡が中央分離帯として残っています。
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 玉造駅が高架駅となったのは、まだ城東線と呼ばれていた1932(昭和7)年のことですが、北尾鐐之助は「城東線雑景」(『近代大阪』)の中で、次のように記しています。
 <玉造駅は、こんどの高架駅の中で一番大きな駅で、又貨客の取扱数から云っても、最も主要な駅である。森下仁丹、日の本足袋などの大工場をもってゐるので、こゝのラッシュ・アワーは可なり混雑する。切符の売れ方も、昼は短距離、夜になると長距離の切符が多く売れるのもこの駅である。>

◇城東線の高架(『近代大阪』より)・・・玉造駅?
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◇現在の玉造駅プラットホーム
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 玉造駅近くの高架下は、ほとんどが倉庫などとして使われているだけで、モトコーのような商店街はありません。
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 しかし、今年の春には、「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として、大阪環状線のオレンジ色の103系車両を模した駅ビル「ビエラ玉造」がオープンしています。ここには、フィットネスジムや100円ショップ、飲食店、保育園が入っています。
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 また、大坂冬の陣の際、真田幸村は玉造駅近くに「真田丸」と呼ばれる出城を築いたのですが、その場所にある三光神社の境内には「真田の抜け穴」としてその入り口が今も残されています。
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 現在、「大坂の陣400年」で盛り上がっているこの界隈ですが、昭和レトロが残っている場所でもあります・・・
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by suzu02tadao | 2014-05-08 21:50 | Comments(0)

銃後の大阪 <その3>

◇政岡憲三「くもとちゅうりっぷ」
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 <漫画映画に於ける昨年度の傑作と激賞うけたる政岡憲三氏「くもとちゅうりっぷ」の原画あり>と、『銃後の大阪』第6報の編集後記で紹介されているように、「くもとちゅうりっぷ」は1943年4月15日に公開されたアニメーション映画で、日本のアニメ黎明期の傑作といわれていますが、また、「日本のアニメーションの父」と評される政岡憲三(1898-1988)の代表作の1つです。
 なお、原画はカラーですが、アニメーションは白黒作品で、現在ではDVDも発売されています。

【参考】Spider and Tulip クモとチューリップ 1943 - YouTube
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 太平洋戦争中に、このように先駆的な作品が制作されていたことは驚きですが、また、『銃後の大阪』がこのような作品をとりあげているということにも感心させられますね・・・

 他にも、藤沢桓夫「忘られぬ人」は、写真物語というちょっと実験的なもので、実際に東宝の俳優によるロケを行い、撮影は入江泰吉(1905-1992)となっています。
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 あるいは、<私が電車を云々すると云ふことは凡そ無謀である。>と言いながらも、さすがに軽妙な語り口に味わいのある、歌舞伎及び劇作家の食満南北(けま なんぼく、1880-1957)の「大阪の電車」では、写真を小石清(1908-1957)が担当しています。
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 他にも、この『銃後の大阪』第6報には、北尾鐐之助をはじめ、そうそうたる顔ぶれが並んでおり、いずれまた、折を見て取りあげていきたいと思います・・・
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by suzu02tadao | 2014-05-05 12:15 | Comments(3)

銃後の大阪 <その2>

◇寺内萬治郎 「編物する少女」
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 『銃後の大阪』第6報の編集後記で山本光雄は、
<本号の内容に於て特筆すべきは、大阪出身洋画壇の宿老にて文展審査員のお歴々たる寺内萬治郎、伊原宇三郎、大久保作次郎、鍋井克之各氏及春陽会の水谷清、齋藤清二郎両氏、二科会の早川國彦氏等が打ち揃って力作を寄せられた事であります。>
 と記していますが、前回の足立源一郎の手紙と一緒に、もう一つ落札したのが、寺内萬治郎(1890-1964)から山本光雄に宛てた手紙です。

 この手紙は、1945(昭和20)年10月22日のもので、すでに終戦を迎えており、宛先も大阪市役所市民局軍事課から大阪市役所教育局社会教育課に変っています。
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 御手紙拝見致しました 展覧会
 のため御多忙御察し申上ます
 御自愛を切に祈り致ます
 東京美校は罹災学生の合宿
 外語学生に教室を貸し其外に罹
 災教師小使に室貸し等なかなか
 大変ですから六ヶ敷
(むつかしい)と思いますが

 市から公式に問ひ合されたら如何ですか
 内藤伸氏には面識ございません
 が諏訪は焼けてはないと思います
 (中澤弘光先生宅も無事ですから)小生
 假寓は浦和駅まで一里半 歩
 かなければなりませんので 火曜金曜
 学校へ出る外 引籠って居ます始

 末で悪しからず御容赦願います
 鍋井様 赤松様へ宜しく御伝え
 願います 十一月御上京の節は
 美校(火曜午后)金曜(午前午后)
 師範科教官室へ御出で下さいますれば
 好都合に存じます    草々
           寺内萬治郎
 山本光雄様    十月二十二日


 正直なところ、私は寺内萬治郎といえば下図のような作品しか知らず、あまり好印象を持ってはいませんでした。

◇寺内萬治郎 「赤い団扇」(1937年 第24回光風会展)
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 しかしながら、この手紙を手に入れてから調べてみると、戦前に非常に意欲的で斬新な佳作を描いていた作家が、戦後に画壇のボスにまつり上げられると共に、作品の質も落ちていくといった例が多かった中で、寺内萬治郎については、手紙の文面からもその誠実な人柄が伺えるように、むしろ、戦後に佳い作品を描いた作家だということを知りました。

 『銃後の大阪』第6報には、寺内萬治郎「編物する少女」の他に、大阪出身の洋画家の作品がいくつか載ってますが、ここでは、手紙にも登場している鍋井克之の作品をあげておきます。

◇鍋井克之 「奈良公園」
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by suzu02tadao | 2014-05-03 09:30 | Comments(0)