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<   2017年 01月 ( 12 )   > この月の画像一覧

オダサク「鴈治郎横丁」界隈

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 凍てついた夜の底を白い風が白く走り、雨戸を敲くのは寒さの音である。

 まるでサスペンス・ドラマのナレーションのようなクールな書き出しで始まる織田作之助「世相」。ここには「鴈治郎横丁」が登場します。

 鴈治郎横丁――今はもう跡形もなく焼けてしまっているが、そしてそれだけに一層愛惜を感じ詳しく書きたい気もするのだが、鴈治郎横丁は千日前の歌舞伎座の南横を西へはいった五六軒目の南側にある玉突屋の横をはいった細長い路地である。突き当って右へ折れると、ポン引と易者と寿司屋で有名な精華学校裏の通りへ出るし、左へ折れてくねくね曲って行くと、難波から千日前に通ずる南海通りの漫才小屋の表へ出るというややこしい路地である。

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 今でも旧精華小学校跡の裏手の通りから東側に入る細い路地があります。

 つき当たりにはお地蔵さんの祠があって、「鴈治郎横丁」の面影を偲ばせています…
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 「鴈治郎横丁」があったのは、オダサクが足繁く通った「波屋書房」の北側で、この界隈は今でも繁華街のど真ん中です…
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 この界隈、他にも裏通りの細い路地が多くあります…
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 またいたるところに、昭和な情景が残っています…
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 さて、「自由軒」はあまりにも有名なので、取り上げるつもりはなかったのですが、ふと看板を見ると、昭和センスのなかなか洒落たGOODデザインではありませんか!
 オダサクは「波屋書房」で買った本を懐に入れて、ここにやって来たといいます…
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by suzu02tadao | 2017-01-29 07:40 | Comments(0)

オダサク「下へ行く」

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 上町に育った私たちは船場、島ノ内、千日前界隈へ行くことを「下へ行く」といっていたけれども、しかし俗にいう下町に対する意味での上町ではなかった。
 ~(略)~
 上町の私たちは下町の子として育って来たのである。
 路地の多い――というのはつまりは貧乏人の多い町であった。同時に坂の多い町であった。高台の町として当然のことである。「下へ行く」というのは、坂を西に降りて行くということなのである。

 織田作之助「木の都」にあるように、私も上町台地から源聖寺坂を西に降りて…下へ行ってみました。
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 坂を降りてすぐのところに「島之内ビル」という、昭和な雰囲気のいい感じのビルがありました。(この場所は島之内ではありませんが…)

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 少し歩くとレンガ塀が残っていました。かつてこの辺りに大きな屋敷があったと思われます。
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 他にもところどころにレトロな建物が残っています…
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 さらに歩いてゆくと黒門市場があります。
 いつも入る堺筋側からではなく、裏手側から入る黒門市場はなんとなく新鮮な感じがします。
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 黒門市場は「夫婦善哉」では、柳吉と蝶子が所帯を持った場所でしたが、「アド・バルーン」にも登場しています。

 「夜更けて赤電車で帰った。日本橋1丁目で降りて、野良犬がごみ箱をあさっている。ほかに人通りもなく静まり返った中に、ただ魚の生臭い臭気が漂っている黒門市場の中を通り、路地へ入ると、プンプン良いにおいがした。」(夫婦善哉)

 「坂を下りて北へ折れると市場で、もう店を仕舞うたらしい若者が猿股一つの裸で鈍い軒燈の光をあびながら将棋をしていました。」(アド・バルーン)

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 最近では主に中国からの外国人観光客が押し寄せて、ものすごく賑わっています。
 さすがにオダサクもこんな黒門市場の様子は想像できなかったでしょうね…

 ただし、数年前までは、この辺りの店先の撮影は難しかったのですが、今では写真撮影する観光客も多いので、気軽に撮影できるようになりました。

 とは言っても…
 人が多すぎて、やっぱり思い通りには撮影できませんが…
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by suzu02tadao | 2017-01-26 08:00 | Comments(0)

秦豊吉 <金と景気の話>

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 前回、小説家の一方で実業界に身を置いていたダブルワーカーの水上瀧太郎を取り上げましたが、秦豊吉(はた とよきち、1892-1956)もまた、三菱商事に勤める傍らで、マルキ・ド・サドをもじった筆名「丸木砂土」で小説『半処女』やエロティック随筆を書き、レマルクの『西部戦線異状なし』を翻訳したものがベストセラーになるなど、ダブルワーカーとして活躍しました。

 「非常時の金と景気の話」は、1932(昭和7)年の雑誌『日の出』12月号付録です。
 秦豊吉はこの中で、経済小説と称して「円価はなぜ下落するか」「金を溜めるか物を買うか」を載せていますが、小説というよりは落語の小話といった内容で、細木原青起(ほそきばら せいき、1885-1958)の軽妙な挿絵とともに、難しい経済問題をわかりやすく解説しています。

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 「金を溜めるか物を買うか」挿絵
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 秦豊吉は、翌年の1933(昭和8)年には三菱商事から東京宝塚劇場に移り、日劇ダンシングチームを育て上げ、また戦後には東京帝都座で日本初のストリップ・ショーを上演して成功を収め、その後、帝国劇場社長になっています。

 雑誌『日の出』は、講談社の大衆雑誌『キング』の大成功にならい、1932(昭和7)年8月に新潮社から創刊された大衆誌で、江戸川乱歩『黒蜥蜴』や横溝正史『夜光虫』が連載され、吉川英治、大佛次郎、野村胡堂、長谷川伸などの小説が掲載されていました。

 さて、下図はこの「非常時の金と景気の話」の見返しの「森永キャラメル」の広告です。
 空き箱を利用してアート作品を創るというものですが、審査員には漫画家の長崎抜天もいて、この当時はなかなか遊び心があったことがわかります…
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by suzu02tadao | 2017-01-23 08:00 | Comments(0)

「大阪の宿」水上瀧太郎

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 土佐堀川の北岸、完成間近の「フェスティバルシティ」ツインタワーのすぐ近くの遊歩道脇に、水上瀧太郎の代表作「大阪の宿」が彫られた文学碑があります。

 東京出身で慶應大学では永井荷風に学んだ水上瀧太郎(1887-1940)は、父親が創業者である保険会社に在職中に大阪に転勤します。
 土佐堀川のほとりにあった宿泊先の旅館「酔月」を舞台に、「水の都」と言われた大阪のあわただしい日常と生活を、季節の移り変わりとともに美しく描いた小説が「大阪の宿」です。

 會社から歸つて、湯に入つて、晩酌の後で飯を喰ふと、縁の籐椅子に腰かけて、川風をなつかしがりながら、舟のゆきゝを見て暮らす事が多かつた。淀川へ上る舟、河口へ下る舟の絶え間無い間を縫つて方々の貸舟屋から出る小型の端艇(ボート)が、縱横に漕廻る。近年運動事は東京よりも遙かにさかんだから、女でも貸端艇を漕ぐ者が頗る多い。お店の小僧と女中らしいのが相乘で漕いでゐるのもある。近所の亭主と女房と子供と、一家總出らしいのもある。丸髷や銀杏返の、茶屋の仲居らしいの同志で、遊んでゐるのもある。三田もふいと乘つてみる氣になつて、一人乘の端艇を借りたのが病(やみ)つきになり、天氣のいゝ日には、大概晩食後、すつかり暮れきる迄の時間を水の上に過した。

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 水上瀧太郎が大阪にいたのは、1917(大正6)年10月から1919(大正8)年10月までの2年間です。

 常安橋から望む土佐堀川。南岸のほとりに旅館「酔月」がありました。
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 護岸の茶色のビルの向って左側、奥にあるYMCAの高いビルの手前辺りに「酔月」があったようです。
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 茶色のビルは今、イタリアン・レストランですが、「大阪の宿」が単行本として出版された1926年に銀行として建てられたものです。
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 大正13年発行「大阪市パノラマ地図」です。
 ◯印が文学碑、矢印で示している辺りに「酔月」(旅館:照月)がありました。
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 「うす汚なく曇った空の下に、無秩序に無反省に無道徳に活動し発展しつつある大阪」を後にするところで、この小説は終わります。
 東京育ちの主人公は正義感が強いために、卑俗でえげつないナニワ気質の周囲の人々と摩擦も起すし、また周囲の人々から好感も持たれます。そういう意味では、夏目漱石「坊っちゃん」の大阪版と言えなくもありません。

 さて、水上瀧太郎は「大阪の宿」の他に「大阪」を書いています。
 これは旅館「酔月」に移る前の宿泊先で、「天満橋を南に上るお城のねきの下宿」を舞台にした小説ですが、“ねき”は大阪弁で、すぐ近所を意味します。こちらのほうがナニワ度は、より一層濃厚な作品です。

 下宿のあった辺りから真東を望むと、確かに大坂城の天守閣が見えます。(ただし、この小説が書かれた頃にはまだ天守閣はできていませんが…)
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 「大阪の宿」「大阪」は共に、いわゆる東京人から見た大阪人の気質を辛辣に表現していて、反発はしているものの、拒絶せずにどこかで共感しながら描いているところに、織田作之助とはまた違った視点があり、リアリズムがあって楽しめました。

 水上瀧太郎は今日では忘れられた作家ですが、小説家の一方で、片足を実業界に置いていたダブルワーカーであったがゆえに、これらの作品を書くことができたように思えます。

 「大阪の宿」岩波文庫(昭和32年 10刷)と「大阪」角川文庫(ページが破れていて発行年不明)です。
 亡義父の蔵書だったもので、処分するつもりの中から拾い上げたものです…
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by suzu02tadao | 2017-01-20 08:00 | Comments(0)

<京都府警青雲寮>再訪

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 「京都府警青雲寮」で検索すると、最初に出てくるのが、2013年11月の当ブログになるのですが、昨年秋、3年ぶりに訪問してみたら…

 現在は空き家状態で、寮としては使用されていないようです。

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 以前のブログでも少しふれましたが、この建物は、1931(昭和6)年に「京都アパート」として建てられた鉄筋コンクリート造の近代的なアパートです。

 東京の同潤会アパートなどと同様に、戦前のRC造の近代的集合住宅の嚆矢とも言える貴重な存在です。
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 今後、どうなるのかをネットで調べてみても情報は得られず、とりあえず、以前には撮影していなかった印象的なディテールを中心にまとめてみました。

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【参考】


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by suzu02tadao | 2017-01-17 08:00 | Comments(0)

えちぜん紀行 <丸岡城>

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 最上階の天井の間には四方に窓があって、城主にでもなったような気分で、城下を眺めることができる丸岡城の天守閣は、現存する中では最も古い天守閣らしいです。
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 丸岡城は戦国時代の天正4(1576)年、一向一揆の備えとして織田信長の命により、柴田勝家が甥の勝豊に築かせた城です。
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 姫路城や彦根城など江戸時代につくられた城は、城主の権威を示すために豪華で立派なものが目立つのですが、戦国時代の雰囲気を持つ丸岡城内は、いたって質実剛健で、モダンデザインとも共通する美しさがありました。
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 天守閣には、いたる所に敵に対する備えがあって、壁面に開けられた狭間(さま)と呼ばれる小さな小窓は、ここから石を投げたり、弓や鉄砲を撃つことができました。
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 石垣も「野づら積み」という古い方式です。
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 福井の天気は変わりやすく、晴れていてもすぐに雨が降ってきたりで、薄い雲に覆われていることが多く、丸岡城を別名「霞ヶ城」というのも納得できます。
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 丸岡城の近くには、かつて京福電気鉄道永平寺線が通っていましたが、今でも所々に遺構が残っています。
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 京福電気鉄道丸岡線と永平寺線との接続駅だった場所はバスターミナルになっています。
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【参考】
 昭和9年発行「全国旅行案内地図」より
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by suzu02tadao | 2017-01-14 08:00 | Comments(2)

えちぜん紀行 <レトロ駅舎 -3>

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 誰もいない待合室に置かれた石油ストーブ。

 凍てついた寒い日には火が灯されるのだろう…

 北陸本線の駅でも、王子保(おうしお)駅のように特急列車が停まらないローカルな無人駅には、のどかな空気が流れていました。
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 駅周辺をブラブラすると…
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 ささやかな神社や…

 杉の大木のあるお寺がありました。
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 同じく北陸本線の丸岡駅では、ホームの柱がレールで作られていました。
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 丸岡駅は、かつて京福電気鉄道丸岡線との接続駅でした。
 すぐ近くには北陸本線と立体交差していた丸岡線の遺構が残されています。
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 丸岡駅周辺をブラブラ…
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 北府(きたご)駅(旧称:西武生駅)は、大正13(1924)年の開業当初からある福井鉄道福武線の駅です。
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 数年前に改修工事が行われ、駅舎内は福井鉄道の歴史を紹介したギャラリーになっており、また駅周辺は旧車両が展示されている「鉄道ミュージアム」になっています。
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 もともと福井鉄道福武線は、旧陸軍歩兵第36連隊の兵員輸送を名目に開業した路線で、神明駅(旧称:兵営駅)は戦前にはメインの駅の一つでした。
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 駅前にある変電所の裏手で…
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【参考】
 昭和9年発行「全国旅行案内地図」より
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by suzu02tadao | 2017-01-12 10:00 | Comments(0)

えちぜん紀行 <レトロ駅舎 -2>

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 夜の帳が下りる頃…
 ローカル線の駅舎はまた別の表情を見せます。

 前回に続いて、えちぜん鉄道勝山永平寺線のレトロ駅舎巡り…

 山王駅は平日の朝の時間帯だけが有人駅で、それ以外は無人駅になります。

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 駅舎がいつ建てられたのかは不明で、昼間はどこにでもあるような普通のローカル駅にしか見えなかったのですが…
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 どこかロマンチックで…

 なかなか雰囲気がありますね。
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 勝山駅は、勝山永平寺線の終着駅で、登録有形文化財の駅舎は大正3(1914)年の開業以来のものです。

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 駅舎の中にはレトロなインテリアを活かしたカフェがあるのですが、私が訪れた時はお正月という事もあって、残念ながら閉まっていました。

 開業当時使用されていた「テキ6形電気機関車」が動態保存されていました。
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 最近では恐竜博物館があることで有名な勝山ですが、昔から繊維の町として栄えてきたそうです。

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 はたや記念館「ゆめおーれ勝山」は、明治時代から、布を織る工場である、はたや(機屋)として操業していた建物を保存・活用したものです。
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 内部では昭和時代そのままの織物機械が動いていました。
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 勝山永平寺線の名前の通り、この路線の中で勝山駅と共に中心になるのが永平寺口駅です。
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 現在の駅舎は、洋風の旧駅舎のイメージを採り入れて、新たに建てられたものですが、レールを隔てた反対側には開業時に建てられた旧駅舎があって、地域交流館として使用されています。
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 駅前広場には、旧駅舎同様に登録有形文化財に登録されている旧京都電燈古市変電所があります。
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 かつて永平寺駅と当駅、そして金津駅とを結んでいた京福電気鉄道永平寺線の跡地は、遊歩道に整備されています。
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【参考】
 昭和9年発行「全国旅行案内地図」より
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by suzu02tadao | 2017-01-10 11:10 | Comments(2)

えちぜん紀行 <レトロ駅舎 -1>

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 哀愁が漂う…
 鄙びたローカル線の駅舎。

 そんな駅舎を巡っていると、
 かつて重要な交通経路として栄えていた時代が偲ばれます。

 えちぜん鉄道の勝山永平寺線は、大正3(1914)年に越前電気鉄道として開業したのが始まりで、福井県下初の電気鉄道であったといいます。
 歴史ある沿線にはレトロな駅舎も多く、志比堺(しいざかい)駅は、昭和12(1937)年頃に建てられたもので国の登録有形文化財になっています。
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 駅周辺は、九頭竜川と山に挟まれ、平地が少ない地域であるためか、集落よりもかなり高い位置に建てられています。
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 かつては列車の行き違いもできたようで、向かい側には使われなくなったホームの跡が残っていました。
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 志比堺駅の隣にある松岡駅。
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 昭和8年(1933)年頃に建てられた南京下見板張の木造平屋建の駅舎は、やはり国の登録有形文化財になっています。

 急勾配の屋根と妻上部に設けられた円形の窓が特徴的で、白く塗られた壁に、レールで作られた水色の柱が映えて、なかなかお洒落です。
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 松岡は歴史ある町ですが、松尾芭蕉『おくのほそ道』で、金沢から旅に同行してきた弟子の北枝とこの地で別れる際に次の句を詠んでいます。
 「物書いて 扇引きさく 余波(なごり)かな」

 ここから永平寺を経て福井の町に至るまでが、『おくのほそ道』の旅のなかで唯一、芭蕉が一人で移動した区間だと言われています。

 駅周辺にもレトロな建物が残っていました…

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【参考】
 昭和9年発行「全国旅行案内地図」より
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by suzu02tadao | 2017-01-08 08:30 | Comments(0)

【初詣】織田作之助「わが町」をゆく

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 オダサクの銅像がある生国魂神社(いくたまさん)。
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 敬愛した井原西鶴像も鎮座するこの神社のすぐ近くの生玉前町に、オダサクこと織田作之助は生れました。
 家業は「魚鶴」という鮮魚店兼仕出屋でした。
 その当時、「魚鶴」は谷町筋に面していたようですが、後に父親が商売に失敗。この界隈を転々とした後、大正15年に一家は、谷町筋の家からいえばその裏町にあたる銭湯日の丸湯横の路地で暮らしたのでした…

 銭湯日の丸湯と理髪店朝日軒の間のせまくるしい路地を突き当ったところの空地を凵の字に囲んで、七軒長屋があり、河童(がたろ)路地という。その空地は羅宇しかえ屋の屋台の置場であり、夜店だしの荷車も置かれ、なお、病人もいないのに置かれている人力車は、長屋人の佐渡島他吉の商売道具である。もちろんここは物干し場にもなる。けれど、風が西向けば、もう干せない。日の丸湯の煙突は年中つまっていて、たちまち洗濯物が黒くなってしまうのだ。

 小説「わが町」の中に、オダサクが生まれ育ったこの界隈が登場します。

 日の丸湯の主人というのは、先代より引続いて、河童(がたろ)路地の家主であり、横車(ごりがん)も通した。河童路地は只(ただ)裏ともいい、家賃は只同然にやすかったが、それさえ誰もきちんと払えた例しはなかったのだ。

 しばらくぶりに「私」が、かつて暮らした町を訪れる「木の都」の中にも、次のように記されています。

 下駄屋の隣に薬屋があった。薬屋の隣に風呂屋があった。風呂屋の隣に床屋があった。床屋の隣に仏壇屋があった。仏壇屋の隣に桶屋があった。桶屋の隣に標札屋があった。標札屋の隣に……(と見て行って、私はおやと思った。)本屋はもうなかったのである。

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 大正13年発行「大阪市パノラマ地図」です。
 矢印で示しているのが日の丸湯の煙突だと思いますが、まさに「わが町」の「河童路地」の描写にピッタリです…
 この辺りは、空襲で焼きつくされてしまい、日の丸湯の釜と煙突だけが残ったようです。
 また、この界隈の谷町筋は現在のような大通りではなかったことがわかります。

 「木の都」で口繩坂を登ってきた「私」はこの谷町筋に出ます。

 北へ折れてガタロ横町の方へ行く片影の途上、寺も家も木も昔のままにそこにあり、町の容子(ようす)がすこしも昔と変っていないのを私は喜んだが、しかし家の軒が一斉に低くなっているように思われて、ふと架空の町を歩いているような気もした。しかしこれは、私の背丈がもう昔のままでなくなっているせいであろう。

 「夫婦善哉」の中にも、「ガタロ横町」は登場しています。

 よくよく貧乏したので、蝶子が小学校を卒(お)えると、あわてて女中奉公に出した。俗に、河童(がたろ)横町の材木屋の主人から随分と良い条件で話があったので、お辰の頭に思いがけぬ血色が出たが、ゆくゆくは妾にしろとの肚が読めて父親はうんと言わず、日本橋三丁目の古着屋へばかに悪い条件で女中奉公させた。河童(がたろ)横町は昔河童(かっぱ)が棲んでいたといわれ、忌(きら)われて二束三文だったそこの土地を材木屋の先代が買い取って、借家を建て、今はきびしく高い家賃も取るから金が出来て、河童は材木屋だと蔭口きかれていたが、妾が何人もいて若い生血を吸うからという意味もあるらしかった。

 この「ガタロ横町=河童横町」は下図の昭和10年「大大阪市街全図」では公設市場のすぐ北側の通りのように示されているのですが、「大阪市パノラマ地図」で描かれた「河童路地」の南側の表通りにあたる細い通りが「ガタロ横町=河童横町」ではないかと思われます。

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 この地図で、はオダサクの生家、は「河童路地」の家、はオダサクが通った東平野尋常小学校(現・生魂小学校)と思われる場所です。

 現在の地図に置き換えてみました。
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 の小学校だけが今もありました(もちろん、校舎は建て直されていますが…)。
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 路地は情けないくらい多く、その町にざっと七八十もあろうか。いったいに貧乏人の町である。路地裏に住む家族の方が、表通りに住む家族の数よりも多いのだ。地蔵路地はLの字に抜けられる八十軒長屋である。なか七軒はさんで凵の字に通ずる五十軒長屋は榎路地である。入口と出口が六つもある長屋もある。狸裏(たのき)といい、一軒の平屋に四つの家族が同居しているのだ。

 今では「わが町」に書かれたような面影は全くなく、お洒落な店もあって、谷町筋のタルトケーキが評判の店で一休み…
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 高津宮にも初詣。
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 帰り道、
 ふと傍らを見ると寺の門前に「梶井基次郎墓」と表示されていたので、中に入ってみると…
 元日から、新鮮な「檸檬」が供えられていました。
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by suzu02tadao | 2017-01-05 08:30 | Comments(2)