1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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<   2017年 02月 ( 11 )   > この月の画像一覧

昭和の残像 <街角有情>

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 この看板の揮毫をした藤山寛美も、すでに伝説の人になってしまいました。

 大阪市内で見かけた昭和レトロな街角を幾つか…

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by suzu02tadao | 2017-02-28 08:00 | Comments(2)

昭和の残像 <北野家住宅>

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 窓の外に見えるのは、大阪瓦斯ビルヂング…

 昭和20年3月の大阪大空襲では周囲は焼け野原になった中、北野家住宅は大阪瓦斯ビルヂングと共に焼け残りました。

 大阪瓦斯ビルヂングに面して東西に通る平野町通は、かつてモダンな商店やカフェが軒を連ね、「平ぶら」という言葉が生まれるほど賑わった商店街でした。

 平野町は、昔から御霊神社を控へて、最も賑やかな町である。いまでも、こゝの夜店などは、大阪で一番盛んな賑はひをみせる。
 北船場における、夜の最も遅い町、最も明るい町、最も歩くによい町、平ぶらといふ言葉が出来てゐる町、カフェ、飲食店の多い町、そして大阪市中で、可なり贅沢な喫茶店などをもつ町である。
(北尾鐐之助『近代大阪』より)

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 平野町の西端、御霊神社の前に建つ北野家住宅は、昭和3(1928)年に建てられた木造3階建ての青物商を営む商家でした。
 かつては店舗だった1階部分は改装されていますが、2・3階は外観・内装共に創建時の作りをよく残しており、当時の大阪商人の暮らしぶりを今に伝えています。
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 昨年の「イケフェス大阪」で、大阪瓦斯ビルヂング見学のついでという気持ちで寄った北野家住宅。
 一見すると普通の町家のようですが、説明を聞いているうちに、奇跡的に残った貴重な近代和風建築だということがよくわかり、国の登録有形文化財にも指定されていることが納得できました。

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 北野家住宅は今に至るまでに、3度の危機があったのだそうです。

 1つ目は、前述した大阪大空襲。焼夷弾が家に直撃しましたが、不発弾だったため、助かりました。

 2つ目の危機はバブル期。連日、土地を売って欲しいという人が絶えず、高値を提示されたのに、オーナーさんがそれを断ったという話はとても感動的でした。

 3つ目は、阪神淡路大震災。建物全体が大きく揺れて、家の中の戸に隙間ができましたが、なんとか持ちこたえたとの事。但し、極端な荷重は禁物で、現在も公開の際には少人数づつでの見学としています。

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 建物の全景。「イケフェス大阪」のサイトから拝借しました。
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by suzu02tadao | 2017-02-25 08:00 | Comments(0)

昭和の残像 <文化住宅>

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 いわゆるモダニズムの歴史の中で、文化住宅というと、大正から昭和初期に開発された阪神間の芦屋や西宮に多数存在する洋風生活を取り入れた和洋折衷住宅のことです。
 しかしながら、一般的に関西で文化住宅といえば、1950~60年代に建てられた瓦葺きの木造モルタル2階建の風呂なしアパートのことを指します。

 安アパートの代名詞である一方で、下町らしい人情味のある文化住宅ですが、近年は老朽化が進み、取り壊されるケースも多く、とても貴重な存在になりつつあります…

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 なぜか文化住宅には、尾形亀之助の詩が似合うような気がします。


 春

 私は椅子に坐つてゐる

 足は重くたれて
 淋びしくゐる

 私は こうした私に反抗しない

 私はよく晴れた春を窓から見てゐるのです

 (「色ガラスの街」より)

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by suzu02tadao | 2017-02-22 08:00 | Comments(0)

帝都座(昭和8年)

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 前回に続き帝都座のパンフレット【週報:1933(昭和8)年4月27日~5月3日】です。


 裏表紙及び見開きはウテナ化粧品の広告になっています。
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 日活では入江たか子とともに双璧といわれた人気女優、夏川静江主演「未来花」。
 銀座資生堂前のスナップ。
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 ここでも、新宿にあった劇場が紹介されていますが、前回(昭和7年)から1年間で2館が増えていることがわかります。

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 さて、この帝都座は地上7階地下2階の建物ですが、設計は僊石政太郎(1879-1945)です。
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 僊石政太郎は映画館及び劇場建築のエキスパートとして活躍した建築家で、以前に取上げた富士館(浅草)も手がけています。
 僊石政太郎については、ネットで調べてみても情報は少ないのですが、なかなかユニークな経歴の持ち主のようです。
 生まれは島根県・安来西灘
 大工棟梁の河井栄八(河井寛次郎の父)に師事して18歳で棟梁になりますが、25歳で単身東京に出て工手学校に入学、新橋木工場で働きながら工手学校の外、国民英語学校中等科、中央工学校高等科を卒業。日本建築学会の正会員資格試験に合格して建築士の称号と技師の資格を得ています。

 苦学して建築家となり、その当時主流であった帝大出の建築家たちと肩を並べるまでになったその人生には、興味を惹かれるものがあります…

 残念ながら、現存する建物はないようですが、僊石政太郎が手がけた映画館及び劇場は下記の通りです。

昭和2年 富士館(浅草)
昭和3年 明治座(日本橋浜町)
昭和4年 新宿第一劇場(新宿)・帝国館(浅草)
昭和5年 大勝館(浅草/改築)・東京劇場(築地/設計顧問)
昭和6年 帝都座(新宿)・日本倶楽部(大阪)

<明治座>
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by suzu02tadao | 2017-02-20 07:00 | Comments(0)

帝都座(昭和7年)

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 かつて東京・新宿にあった帝都座のパンフレット【週報:1932(昭和7)年5月13日】です。


 裏表紙及び見開きはクラブ化粧品の広告になっています。
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 紹介されている映画の1シーンからも、当時の空気感が伝わってくるような気がします…
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 時代劇スター、片岡千恵蔵主演。
 ちょうどこの頃が、無声映画からトーキーへ切り替わる時期で、この映画は無声映画ですが、次作はトーキーになると告知されています。
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 前回取り上げたムーラン・ルージュ新宿座など、その当時、新宿にあった劇場が紹介されています。

 画家の木村荘八が、昭和7年当時の新宿の映画館街の様子を描いています。
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 武蔵野館を見込む横町の角から描いたものだが、描いた時間はとっぷりと日の暮れた八時だ。折角此の横町は風通しのいい、涼しいところである。ムーラン・ルージュと云った塩梅式で行手の空に風車が廻ってゐる。銀ブラの一党に比べてこゝの散歩党には寧ろねまきと云ひたい程度にぞんざいな浴衣がけが目に付く。
(『東京今昔帖』より)


 帝都座は1931(昭和6)年5月1日、日活映画の封切り館として開館されましたが、映画館の他に5階にダンスホールを設けて興行を行い、また、2階・3階に喫茶室「森永キャンデーストア」、地下には銀座のモナミの出店、大食堂「モナミ」もあって、現代でいう複合アミューズメント施設の先駆けであったようです。
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     (歌舞伎座番組より)


 さて、帝都座の建物は戦災を免れましたが、戦後まもなく帝都座を有名にしたのは、日本初のストリップ・ショー「額縁ショウ」でした。その仕掛け人が、以前に取上げた秦豊吉でした。

 その後、この建物は1972(昭和47)年までありましたが、現在、跡地は「新宿マルイ本館」になっています。
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by suzu02tadao | 2017-02-18 07:00 | Comments(0)

ムーラン・ルージュ

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 前回、ムーラン・ルージュ新宿座にふれましたが、これは、本家のフランス・パリのモンマルトルにあるキャバレー「ムーラン・ルージュ」を舞台にした映画のパンフレットです。

 「ムーラン・ルージュ」をタイトルにした映画は現在まで計6本作られているようですが、この作品は、1928(昭和3)年製作の最初のもので、E・A・デュポン監督の無声映画です。

概要(パンフレットより)
 パリジアはモンマルトルのミュジック・ホール「ムーラン・ルージュ」の花形女優であった。彼女の娘マーガレットは貴族の息子アンドレと恋に落ちたが、母親が女優であるといふ理由から男の父親が結婚をゆるさぬため若き二人は「ムーラン・ルージュ」にパリジアを訪れ一切を打明けた。パリジアは我子に対する愛から熱心に男の父親を説きついに彼等の結婚を承知させたが、若きアンドレはパリジアに初めて会つた夜以来、彼女の立派な情操に感じ憧憬の心を起すに至つた。やがてそれは愛に変つてゆかうとした。アンドレは迷い苦しんだ末、苦しさを忘れんと自殺を計つたが、彼が死の手段として選んだ自動車の事故は誤つてマーガレットに重傷を負はせた。男の心は初めて娘への同情と真の愛情とに生き、かくして二人は幸福なる結婚生活に入つた。

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 「ムーラン・ルージュ」をはじめとする、パリのミュージック・ホールやキャバレーを紹介した映画「モン・パリ」が日本で上映されたのも、ちょうどこの頃でした。

 関東大震災によって、浅草が壊滅状態となり、また人口の流入経路が変るなど、当時山の手を代表する歓楽街になりつつあった新宿の地に、1931(昭和6)年12月31日、ムーラン・ルージュ新宿座がオープンしました。

 ムーラン・ルージュとは、フランス語で「赤い風車」という意味で、本家の「ムーラン・ルージュ」には屋根の上に赤い風車がありますが、新宿座の入口にも赤い風車が回っており、当時の新宿の街の名物になっていたそうです。

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 さて、パリのモンマルトルといえば、ピカソが「洗濯船」と呼ばれる安アパートで制作活動を行うなど、その当時を代表する多くの芸術家の拠点になっていた場所として有名です。 
 画家のロートレックは、その生涯を描いた同名の映画がつくられるほど、「ムーラン・ルージュ」に通いつめましたが、踊り子たちをモデルに描いたポスターをはじめとする作品も有名ですね…

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by suzu02tadao | 2017-02-15 06:30 | Comments(0)

「ヴォガンヴォグ」中村進治郎

「BRUTUS(ブルータス)」1980年8月・創刊第2号
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 贅沢は素敵だ!という、その後の80年代を象徴するようなキャッチコピーで、華々しく登場した雑誌『ブルータス』ですが、創刊号よりも特集親爺たちの時代の第2号の方が、よりこの雑誌の方向性を示していたように思います。

 なぜなら謎の尖端青年(モダンボーイ)追跡と題して、雑誌新青年ヴォガンヴォグというコラムを担当していた中村進治郎を取上げていたからです。
 「ヴォガンヴォグ」すなわち<VOGUE EN VOGUE>はモード雑誌の「VOGUE ヴォーグ」を連想させる題名ですが、このコラムには最新のファッション情報から、着こなし、アクセサリーの活用法など、当時の「モボ・モガ」へのアドバイスが満載されていたのでした。
 さっそく、以前にも取上げた『新青年』(昭和5年10月号)のヴォガンヴォグ VOGUE EN VOGUEを見てゆきます。

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 『ブルータス』の記事で、
 < その文体は、八方破れのようでいてイキイキと躍動し、ビートのきいた語り口調で描破している。したたかな文章力である。これが時の青年たちを興奮させ、狂喜させたのであろう >
 とありますが、ニューヨークからの最新情報では…

◇ニウヨウクから◇

 初夏の、ある夜のことでございました。
 ブロオドエイの雑踏へおそろしくでつかな立派な自動車(ロオルスロイス)が止まつたので道ゆく人々は、何者?とばかり歩みをとめて眺めたのでございます。と、ブルジヨアらしい紳士とそれにつゞいて、一人のまことにあかぬけした、婦人(レデイ)がおりたのでありました。

 その婦人(レデイ)こそモノヲシラネエ田舎者と笑はれてをりましたクララ・ボオなのでございます。
 だが、何といふ激しい変り方!
 彼女は、すらつとやせて上品になり、ましてドレスの着方については、ハリイウッドにその名も高いジオン・クロツフオドも、リリアン・タツシユマンもデングリ返る程の素晴らしさでありました。

【※注】ジオン・クロツフオド=ジョーン・クロフォード、リリアン・タツシユマン=リルヤン・タッシュマン

 クララ・ボウは無声映画時代に、後のマリリン・モンローと同じようにハリウッドのセックス・シンボルであった女優です。
 人気絶頂の中でアルコール・ドラッグ・ギャンブル・セックスなど多くのスキャンダルの花を咲かせ、この年には彼女の金を横領していた秘書が解雇された腹いせに彼女の私生活を暴露したために、人気はあっという間に衰えてしまっていたのでした。

 ところで、この号の『新青年』の表紙の女性のモデルはクララ・ボウではありませんか…
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 他にも< コオヒイにシユガアを忘るるとも・君よ・これだけは守り給へ・>としてふをるむ・ぼをい十誡の中から…

1.流行(ヴオーグ)をよく知つてゐなければいけませんが、その中に耽溺してはなりません。どんな些細な事でも、自分らしく消化してやる事です。個性を現はすのは、ある程度までは結構ですが、強情に流行と喧嘩するのはいけません。
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 この当時、まだ24歳であったことを思えば、
「モボの総帥で、今でいう服飾評論家のはしりである」
「おしゃれ雑学の大家でもあり、ファッション界の草分けみたいな人でもある。この人こそ当時のモボの極めつけだとぼくはそう信じている」

とVANの石津謙介氏をして言わしめたのも納得です…

 1932(昭和7)年12月12日、中村進治郎はレヴュー劇場、ムーラン・ルージュ新宿座の歌姫、高輪芳子(当時18歳)と心中事件を起こします。
 高輪芳子が亡くなり、中村進治郎は一命をとりとめますが、その後「ヴォガンヴォグ」の仕事も打ち切られてしまいます。
 前年にオープンしたばかりのムーラン・ルージュ新宿座は経営が思わしくなかったのですが、この事件をきっかけに有名になり、その後は最盛期をむかえました。

 そして二年後の1934(昭和9)年11月15日、中村進治郎は東中野の「アパート二十六号館」で、大量の睡眠薬により自ら命を絶ちました、28歳でした。

 さて、織田作之助の足跡を追っていたら、そのまた二年後の1936(昭和11)年10月に上京した際、三高時代の友人、青山光二の下宿であった「アパート二十六号館」に泊まっていました…奇遇?ですねー

 閑話休題。
 中村進治郎については、『ブルータス』が記事にした頃には、時すでに遅しで、ほとんど資料が残っておらず、顔写真でさえも特定できるものはないようです…
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 ところで、石津謙介氏といえば思い出すのが…
 ちょうど『ブルータス』が創刊された頃に、あるセミナーを聴講した時の事、私の斜め前の席に座っていた初老の紳士が、講演の間中ずうっと居眠りをしておりました。確かに内容は退屈でしたが…
 講演が終わったとたんに、すっくと立ち上がり振り返った紳士こそは、そのセミナーの前のプログラムの講演者であった石津謙介氏だったのです。
 颯爽と歩きながら会場を後にするカッコイイ姿が、今でも目に焼き付いています…
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by suzu02tadao | 2017-02-12 12:00 | Comments(0)

「大丸」工事中

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 工事中の大丸心斎橋店です。

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 本館御堂筋側の外壁周辺部分だけを残して解体工事は終了し、高層部の建設工事が始まったようです。
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 もうしばらくすれば、このような姿も見られなくなると思うと…
 なかなか貴重な光景のような気もします。
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 そして…
 本館部分が無くなったために、北館の心斎橋筋の出入口付近から南館の「大丸」マークが見えていました!
 これも今しばらくだけですね…
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 工事フェンスに映る心斎橋筋の情景もなかなか新鮮です…
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 常に変化する心斎橋。
 やはり、街は生きていますね…

 ところで、「GUCCI」のお向かいにパチンコ店!があるのは大阪だけでしょうか…?
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【その他、大丸近辺】

 クールな御堂筋ガイド…
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 素敵なParty space !?
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by suzu02tadao | 2017-02-10 08:00 | Comments(0)

浪花組本社ビル

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 伝統ある左官業の会社「浪花組」の本社ビルはミナミの繁華街、宗右衛門町の近くにある八幡筋に面して建っています。

 織田作之助の小説には、戦前のこの界隈がよく登場しますが、『世相』の中で、「私」が道頓堀から清水町にあった馴染みのスタンド・バー「ダイス」のマダムに逢いに行くまでの道順を次のように書いています。

 橋を渡り、宗右衛門町を横切ると、もうそこはずり落ちたように薄暗く、笠屋町筋である。色町に近くどこか艶めいていながら流石に裏通りらしくうらぶれているその通りを北へ真っ直ぐ、軒がくずれ掛ったような古い薬局が角にある三ツ寺筋を越え、昼夜銀行の洋館が角にある八幡筋を越え、玉の井湯の赤い暖簾が左手に見える周防町筋を越えて半町行くと夜更けの清水町筋に出た。

 昨年の「イケフェス大阪」の際、案内してくれた「浪花組」の営業部長さんの話がとても面白かったのですが、入社試験の面接で初めてこの本社を訪れた時、周囲の環境に驚いて、絶対に落ちてやろうと思ったそうです…が、当時の中川貢社長のオーラに圧倒されて、今に至ったとのこと…
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 そのような周囲の看板ネオン輝くカオスな街並みに全く引けをとらない、怪しいナイトクラブ、あるいはスナックやバーがひしめく雑居ビルのような、インパクト大の外観を持つこのビルこそ、大阪を代表する建築家・村野藤吾の設計(1964年)なのです。
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 はじめに5階に上がりテラスへ出ると、庇等のデザインも幾何学模様で統一されていました。
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 5階エレベーターホールには喫茶店・心斎橋プランタン(2003年閉店)の籐製のパーテーションが立てかけてありました。
 心斎橋プランタンも村野藤吾の設計・デザインで、経営は「浪花組」でした。
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 心斎橋プランタンで使われていた椅子もありました。
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 本社ビルの家具類もすべて、村野藤吾デザインです。
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 総ステンレス製の地下金庫室内部。
 この部屋そのものが現代美術の作品のようでした。
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 1階は床から壁面にかけて総大理石造り。
 シンプルな時計がお洒落です。
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 奇抜な外観と対照的なシンプルな内部が、なぜか統一感のあるデザインでまとめられているという、まさに村野藤吾ワールドが堪能できました…
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by suzu02tadao | 2017-02-07 08:00 | Comments(2)

三宅恒方「旅と私」

<山陽の漁村にて>
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 三宅恒方(みやけ つねかた、1880 -1921)は、前回取り上げた阿部金剛の妻、阿部ツヤ子(三宅艶子)の父親で昆虫学者・理学博士ですが、随筆家としても知られました。
 妻は夏目漱石に師事した作家の三宅やす子。友人は物理学者でありながら、やはり随筆家としても定評のあった寺田寅彦でした。

 三宅恒方著の「旅と私」【1922(大正11)年1月】は、数年前に京都・知恩寺の古書市の、1冊200円・3冊500円のコーナーで、巻頭にあった水彩画に惹かれて入手した本です。
 調べてみると、明治-大正時代に文展・帝展で活躍した洋画家の中川八郎に絵を学んだようですが、旅先で描いたと思われるこれらの絵は、変な匠気がない素直な描写で、とてもいい絵だと私は思います。

 理学博士でありながら、このような絵を描く人物がいたところに、この時代の特質があるようで、夏目漱石が文人画家としても秀作を残していることと共通しているような気がします。

<瀬戸内海>
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<東京近郊>
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<姨捨駅より川中島を眺めて>
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<伊豆伊東にて>
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 この本は、三宅恒方が42歳で亡くなった後に、紀行文をまとめて出版されたもので、洋画家の石井柏亭が序文と絵を寄せています。
 以下、さわりです…

 会えばよく「また何処かへ一緒に出掛けたいものです」と云われた其三宅君と旅行する機会が永久に無くなってしまったことは残念でもあり淋しくもある。
 三宅君と旅で一緒になったことはたった一度しかなかった。それは大正元年の暮から翌二年の正月へかけて伊豆の伊東に遊んだ時のことである。同行は中川八郎、板倉賛治、大橋正堯三君と、それから三宅君とであった。なんでも其等の連中が皆伴立って行ったのではなく、私だの三宅君だのは後から別々に行ったのであったと記憶する。

石井柏亭 <伊豆伊東の海>(三宅恒方と写生旅行の日)
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by suzu02tadao | 2017-02-04 07:25 | Comments(0)