1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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倉敷美観地区

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 倉敷を訪れるのは約10年ぶりになります…

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 『汽車の窓から』谷口梨花(大正8年発行)では、
庭瀬の次は倉敷、左窓に見ゆる町がそれで、昔から富豪の多い地方で、人口一万二千人を有している、町の中央に丘があって公園となっている。
 という説明があるだけで、前回取り上げた笠岡や当時は山陽本線の次の駅だった玉島(現:新倉敷)の方が観光地としては見どころがあったようです…

 その後、江戸時代から続く古い町並みやレトロな洋館を残し、早くから無電柱化に取り組むなど景観整備の草分けとして、全国的にみても有数の観光地になった今では、以前から定評のある観光スポットなど、絵になる情景がいくつもあるところは、さすがだと思いました…

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 ただし、10年前よりも古い町並みの範囲が増えたような?…気もしないではないことと、観光客で賑わう美観地区とは対照的に、周辺の商店街などが寂れているのは少し気になりました。

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by suzu02tadao | 2017-09-28 07:00 | Comments(0)

笠岡レトロ紀行

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 山陽本線の笠岡駅を降りると、
 線路脇には、なまこ壁の大きな屋敷がありました…
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 屋敷に隣接して古い洋館も建っており、
 かつて港町として栄えた面影を残していました…
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笠岡の町は丘に沿って海に臨んでいる、四国への汽船便がある。神島は景勝の地で、其の南には大高島、小高島、白石島、北木島、真鍋島、小飛島、大飛島などが美しく海波に浮かんでいる。笠岡からは井笠鉄道があって山陽街道の井原まで行っている。

『汽車の窓から』谷口梨花(大正8年発行)より
井笠鉄道は1971(昭和46)年に廃止されています。

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 古い洋館と屋敷のある通りの先には、
 寂れたアーケードの商店街がありました…
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 駅から竹喬美術館までの道すがら、
 ところどころに残るレトロな街角…
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 線路脇の道をゆくと、傍らには古い石仏が…
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 村上水軍にまつわる古社である稲富稲荷神社の入口です。
 社殿はここから線路を越えて、また道路を潜るというユニークな参道を登った山の中腹にあります。
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 社殿は江戸時代後期に、笠岡在住の宮大工が技術の粋を集めて建築したもので、市の重要文化財に指定されているそうですが、参道入口にある手水舎も素朴ながら彫り物に彩色されていました。
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 古い大きな備前焼の狛犬が印象的でした…
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by suzu02tadao | 2017-09-25 07:00 | Comments(0)

小野竹喬 <欧州芸術巡礼紀行>

[聖ボナベントレ僧院]
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 西洋美術と東洋美術の融合による新たな絵画の創造を目ざした国画創作協会の創立メンバーであった、小野竹喬、土田麦僊、野長瀬晩花が洋画家の黒田重太郎と共に渡欧したのは1921(大正10)年でした。
 この時、もう一人の創立メンバーであった村上華岳が、持病の喘息が悪化したために渡欧を見合わせたことは以前にも紹介しましたが、この渡欧がそれぞれのメンバーの画業の上で、重要なターニング・ポイントになったことは事実のようです。 

 『欧州芸術巡礼紀行』は渡欧の間に黒田重太郎が時事新報に、各メンバーの描いた挿絵入りで文章を連載したものをまとめて書籍として出版したものですが、挿絵として載っている一連のスケッチの中で、私が一番惹かれたのは小野竹喬(1889-1979)の作品でした。 

[ピサの街]
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 「こちらにいる時はセザンヌなんかそう写実と思わなかったのですが、向こうに行ってみるとものすごく日本画よりも写実なんです。日本画でやっている写実なんて実にばかばかしいと思ってしまって、もう少し精神的なところに入らなくてはということを感じた」と後年に言っていた竹喬は、セザンヌから、クールベの写実とは異なる「実在(リアル)」の意味を悟ったようですが、竹喬の言う「実在」とは、筆触に現れる画家の人格や生命のことでした。

[エスコリアルの町]
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[セーヌ河岸]
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 渡欧後、竹喬の作品は伝統的な南画風表現を経て、晩年は彩り豊かな大和絵風表現になりますが、竹喬は渡欧中のスケッチを亡くなるまで手元に置いていたということです。

[カーニュの並木道]
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[フィレンツェの或る庭]
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 竹喬が手元に置いていたスケッチ(※カラー図版)は、『欧州芸術巡礼紀行』に掲載されたスケッチ(※モノクロ図版)とは若干異なるようですが、これらのスケッチには「実在」を追い求めた竹喬の真摯な態度が感じられ、私はふとパリの街角を「純粋」に描いた佐伯祐三の絵のことを思い出しました…

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 次回は笠岡のまちを少しブラブラしてみます…
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by suzu02tadao | 2017-09-22 07:00 | Comments(0)

「河内のオッサンの唄」八尾の街角

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 八尾といえば河内音頭で有名な歴史あるまちで、以前にも久宝寺寺内町を取上げています。
 先日、近鉄八尾駅からJR八尾駅までブラブラ歩く機会があったのですが、昔ながらの人情が残っているように思いました…

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 寺内町のようにまとまって古い町並みが続くわけではありませんが、古い家屋と昭和レトロが混在していて、ふと昭和時代に流行った「河内のオッサンの唄」を思い出しました…

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オーよう来たのワレ
まあ上がって行かんかい
ビールでも飲んで行かんかいワレ
久しぶりやんけワレ
何しとったんどワレ
早よ上がらんけオンドレ何さらしとんど
河内のオッサンの唄
河内のオッサンの唄

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by suzu02tadao | 2017-09-19 07:00 | Comments(2)

寺町二条「かぎや茶寮」 九月

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 『時世粧』の第三号のグラフを、一頁からゆっくり繰ってゆくと、三頁に次ぎのような詩を見出した。

  黄玉(トパアズ)の露のしずくを?
  いいえ 奥さん
  鎰屋(かぎや)のささ舟は
  あなたのお口へ
  美味を運ぶ
           堀口大学

 この詩に写真が付いている。古い見覚えのある鎰屋(かぎや)の窓際に、切子硝子の菓子皿にたぶんこの詩にある「ささ舟」が盛られてある。~(略)~
 私が「古い見覚えのある」と書いたのは、私がこの京都の鎰屋の存在を初めて知った今から二十三年前の秋、この寺町二条角にある鎰屋に、黒谷の友人の寓居から友人と毎晩ほど通って、菓子を食い紅茶を飲みながら、鎰屋の窓から寺町通を眺めながら、青春と詩を飽きずに語ったことがあるからである。


 これは以前に紹介した『時世粧 ZISEISO第四号(昭和10年10月15日発行)の宇野浩二「秋の京都の思い出」の書き出し部分です。
 この文章の後で、直木三十五を先頭に菊池寛や芥川龍之介などが一団となって京都東山を歩いてから鎰屋で休む場面になるのですが、更にその後は次のように続きます…

 私は鎰屋を思い出すと、昭和六年の夏、初めて読んだ、梶井基次郎の『檸檬』という小説の次ぎの一節を思い出すのである。
 「寺町通はいったいに賑かな通りで――と言って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二条通に接している街角になっているので(中略)裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、また近所にある鎰屋(かぎや)の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だった。」

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 昭和13年9月の鎰屋(かぎや)「季節 御菓子の栞」です。

尚十人様以上のテーパーティ等の御集会の設備も ございますれば御利用お願ひ申上げます
 老舗の和菓子店がアンテナ・ショップとして洋菓子店やカフェなどを展開している例は最近では珍しくありませんが、まさに鎰屋はその先駆けだったようです。
 
 それにしても、大正・昭和はなんてハイカラでモダアンだったのでしょう…!

 なお、今年の中秋の名月は10月4日とのこと…

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by suzu02tadao | 2017-09-16 07:00 | Comments(0)

旧西尾家住宅と武田吾一 【3】

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 旧西尾家住宅の主屋の縁座敷。

 元々は板縁であった縁側を、離れを増築した際に、武田五一の指導により、畳縁に変更して、洋風のガラス戸が備えられています。
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 全てのガラス戸には面取りカットガラスが使用されているため、日光によるプリズム効果で光の模様が映し出されます。
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 光の模様は、季節や時間帯によって様々に変化するようです…

 最初にここに来た時には曇っていて見えていなかったのですが、周囲を撮影している間に日が射してきて、美しい光の模様を見ることができたのは、とてもラッキーでした。

 照明器具も武田五一がデザインしたアールヌーボー調のものになっています。
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 西尾家は仙洞御料庄屋を代々務めた家柄で、当主が教養豊かな茶匠でもあったことから、江戸時代には多くの文人が訪れ、明治以降も財界人や文化人と盛んに交流がおこなわれたということです。
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 明治時代に建てられた主屋は、茶道藪内家の茶の湯の精神や当主の数寄屋趣味による瀟洒な意匠を取り入れた造りになっていました。
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 他にもいろいろと見どころのある主屋ですが、このレトロな電話器は吹田の地で最初に電話を敷設した時のもの。電話番号は0001番だったそうで、今も変っていないとのこと。
 ちなみに0002番はアサヒビール、0003番が吹田役場だったそうです。
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 旧西尾家住宅は、主屋と離れの他に茶室のある日本庭園などもあって、敷地全体が国の重要文化財に指定されており、吹田文化創造交流館として一般公開されています。(入館料は無料)

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by suzu02tadao | 2017-09-13 12:00 | Comments(2)

旧西尾家住宅と武田吾一 【2】

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 前回取上げた洋風棟の応接室の隣にあるビリヤード室です。

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 応接室のインテリアとはうって変わってシンプルな造りですが、風格が感じられます。

 なお、ビリヤード台は元々からあったものではなく寄贈されたもので、最近のものだそうです。
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 国会議事堂の設計にも関わった武田五一は、公共建築から個人邸、あるいは肥後橋、渡辺橋、銀橋などの橋に至るまで、生涯に多彩な近代建築作品を残した建築家ですが、卒論が「茶室建築」だったこともあって、優れた和風建築も手がけています。

 離れの洋風棟と和風棟をつなぐ渡り廊下には、竹と桜の皮付き丸太の垂木を並べた船底天井が用いられていました。

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 茶室のある和風棟の大きな丸窓が印象的でした…

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by suzu02tadao | 2017-09-11 08:00 | Comments(2)

旧西尾家住宅と武田吾一 【1】

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 大正14(1925)年築の旧西尾家住宅の離れは、武田吾一(1872-1938)の設計です。

 離れの建物は洋風棟と和風棟の二棟がありますが、洋風棟の応接室には、サンルームを隔てる窓上の欄間と出窓の上部に素晴らしいステンドグラスが用いられています。

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 アール・ヌーヴォー風のステンドグラスは、武田吾一のデザインではないようですが、数奇屋風の意匠のサンルームとの組み合わせは、和洋折衷の独特な空間をつくりだしていました。
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 ステンドグラスの下にある窓にはすべて面取りカットガラスが使われていて、高級感とレトロ感を醸し出しています。
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 室内には、日本のクラシック音楽の草分け的存在であった貴志康一の曲がBGMとして優雅に流れていましたが、どこかなつかしい日本民謡のような調べもあって、和洋折衷の空間にとてもよく馴染んでいました…

 なお、貴志康一は母の実家であったこの西尾家住宅で生まれています。
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 アールデコ風のモダンな照明は武田吾一のデザインですが、西尾家をモチーフにしているとのことで、なかなか遊び心を感じます…

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by suzu02tadao | 2017-09-09 07:00 | Comments(0)

エキゾチック・レトロ 【三休橋筋】

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 大きなカニが動く看板や派手なネオンなど…ギラギラとして煩雑なものが軒を連ねる道頓堀は、ステレオタイプな大阪のイメージとして定着していますが、一方で、そんな側面だけでは語り尽くせない〝大人〟の大阪があるのも事実です。

 紡績や薬など多くの問屋や、金融業が繁栄した大大阪時代を偲ばせる近代西洋建築や旧家が残り、華やかだった時代を今に伝えている船場。
 そんな船場の中央を南北に走る「三休橋筋」を歩けば、エレガントで異国情緒漂う、レトロな街角が楽しめます…

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 ところで、「三休橋筋」の由来は、江戸時代初期に長堀川に架けられた三休橋からですが、その名称の由来は、長堀川に架かる橋の中で往来の多い心斎橋・中橋・長堀橋の三橋を休めるための橋と言われています。
 他にも、三休橋は千日前にあった刑場への護送ルートにあたり、罪人が途中三度休ませてもらったからという説もあるようです。

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 周辺の街角レトロも少々…

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by suzu02tadao | 2017-09-07 07:00 | Comments(0)

ローレル化粧品 と 喫茶・銀座ヌプリ…!?

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 前回取り上げた1939(昭和14)年12月1日発行の映画雑誌「スタア」には、なかなか魅力的な広告が載っていました。

「ローレル 口紅・ほゝ紅」は太田栄治郎商店の広告です。
 私が所有するローレル粉白粉のパッケージ共々、斬新なデザインで、とても戦前とは思えません…

 ドイツ軍がポーランドに侵攻して「第二次世界大戦」が勃発したのがこの年で、日本でも翌年には「ぜいたくは敵だ」のスローガンが掲げられることになるのですが…

 さて、「一杯のコーヒーから」という曲がヒットしたのもこの年でした。
 この頃になると、女給のサービスが主体の「カフェー」とは別に、コーヒーを主体とした「純喫茶」「喫茶店」が増えてきており、1935(昭和10)年には東京市だけで10,000店舗もあったそうです。

 そんな中でも異彩を放つ「喫茶・銀座ヌプリ」の広告!
 平野甲賀デザイン?かと思ったけれど、そんなことはありえない…
 だが、しかし軍靴の音が響いていた時代に、このような尖端(トップ)なセンスはスゴイ!ではありませんか…!
〈ヌプリ〉とはアイヌ語で「山」のこと。
 尾張町・天金横は「服部時計店(現・和光)」の辺り!?

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by suzu02tadao | 2017-09-05 07:00 | Comments(0)