1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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モダンガールの旅 「汽車の旅」編

◇展望車 「汽車の旅」(鉄道省)絵ハガキより
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◇食堂車 「汽車の旅」(鉄道省)絵ハガキより
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 この「汽車の旅」絵ハガキは1935(昭和10)年頃のもののようですが、この当時の展望車や食堂車はご覧のような、1・2等車(現・グリーン車)であることが多かったようです。また、このような食堂車の場合はセレブな旅客の利用が前提であったため、洋食専門のいわゆる「洋食堂車」がほとんどだったといいます。
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 絵ハガキは全部で5枚セットで、他には「奈良ホテル」、「上野駅」、「青函連絡船」となっています。

◇奈良ホテル 「汽車の旅」(鉄道省)絵ハガキより
<鉄道省の直営に係り奈良朝時代の建築に則った総檜の二層楼で宿泊は欧式、米式併用である。>と解説されています。
 ちなみに、1909(明治42)年10月に竣工、営業開始しており、建物の設計は辰野金吾と片岡安です。
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◇上野駅 「汽車の旅」(鉄道省)絵ハガキより
1932(昭和7)年4月2日に落成、同月5日より営業を開始した。
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◇青函連絡船 「汽車の旅」(鉄道省)絵ハガキより
1908(明治41)年)3月7日 、運航を開始。1988(昭和63)年3月13日、青函トンネルの開通に伴い、同日をもって廃止された。
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# by suzu02tadao | 2012-06-13 21:30 | Comments(0)

モダンガールの旅 「熱海」編

◇熱海海岸「玉乃井旅館」ダイレクトメール(部分)
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 タイトルは「海水浴と温泉・熱海」となっており、文面は挨拶文に続いて…
 <~海山の懐しい頃となりましてそれぞれ御避暑の御計画も御有りの事と存じますが夏の熱海は涼風太平洋の海原より吹き大変涼しう御座います水清く波も静かに遠浅にて砂浜も広く - 魚釣り舟遊びボート波乗り砂遊びなぞ至極理想的の海水浴場で御座います、特に弊館は庭続きに海に接しておりますので海水着のまま直ちに砂浜に出られます。~>
となっています。

 このダイレクトメールは、全体がアール・デコ調のモダンなデザインで、とてもお洒落なものです…。消印の日付は昭和6年7月26日となっています。 
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 この当時の熱海は首都圏からの保養客が押し寄せ一大保養地になっていました。

 田中比左良の漫画「モガ子とモボ郎」【1929(昭和4)年】では、銀座で落ち合い、意気投合したモダンガールの「モガ子」さんとモダンボーイの「モボ郎」クンの二人が出かける行き先が熱海になっています。
 時代の最先端を行くアバンギャルドな「モガ子」さんは水着で温泉に入った後、そのまま浴室の窓から海に飛込み、脱いだ水着を「モボ郎」クンに投げて渡すというシーンがあります。
 二人の宿泊先は、「玉乃井旅館」だったのでしょうか?
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 昭和10年頃でしょうか?「玉乃井旅館」の絵ハガキです。ここにもモダンガールが登場しています。
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◇客室より魚見崎を望む 「玉乃井旅館」絵ハガキより
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 かつては新婚旅行や職場旅行などの定番となって大型ホテル・旅館が数多ひしめいていた熱海も、その後は斜陽化したものも多く、「玉乃井旅館」のあった場所も今では更地になっているということです。
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# by suzu02tadao | 2012-06-09 11:30 | Comments(0)

モダンガールの旅 「琵琶湖」編

◇「名勝の近江へ」表紙(デザイン:河野鷹思)
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 今では当たり前に使われる「観光旅行」という言葉は、「余暇活動としての娯楽的な旅」を意味するtourismの訳語として、デモクラシーの大きなうねりと共に、観光への関心が高まった大正時代になってから一般的になったという。
 そのような時代の流れの中で登場した最新のライフスタイルを享受するモダンガールの姿は、旅行ガイドやパンフレットの恰好のイメージモデルであったのだろう。

 当時、誰もがあこがれたコンパクト・カメラを構えるモダンガールが表紙の「名勝の近江へ」(昭和10年頃?)の中で琵琶湖は次のように紹介されている。

麗湖琵琶
 これは日本人にとってあこがれの湖です。こんなにも大きな、こんなにも美しい湖がどこにありましょう。山の富士に対して、湖の琵琶は、秀麗そのものであります。この湖をめぐって、史跡と名勝は点在し、近畿観光地の中心となっております。

 そして…
 ~豪華な近代船で湖上のハイキングをすることもできます。一周船は浜大津港から出航します。そして湖上の島々をめぐります。

湖上の島々をめぐる、「島めぐり」の内容は「太湖汽船」(現・琵琶湖汽船)のパンフレットに詳しい。
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びわ湖の帝王「京阪丸」による「島めぐり」

 世界の公園麗湖琵琶の雄大壮麗な風光、名高い竹生島の崇厳さ等はこの一日の「島めぐり」によって心ゆくまで味わえます。

◆就航期間:三月十五日より十月三十一日まで毎日
        (以後、十一月二十三日までの日曜祭日 出航)

◆発着時間:大津 午前十時出航
          同  午後五時半帰着

◆上陸地:竹生島(五〇分)、長命寺(六〇分)
       (七、八月は近江舞子にも寄港)

◆運賃: 大津より、二円三〇銭(普等)
            三円五〇銭(特等)


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ここではモダンボーイも登場…。まるでハリウッド映画の1シーンのようですね…。
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# by suzu02tadao | 2012-06-07 19:40 | Comments(0)

モダン・伊勢名所

◇伊勢名所之図 1917(大正6)年4月5日発行
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◇伊勢名所史料 1937(昭和12)年8月25日発行(部分)
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 伊勢神宮といえば、堀口捨己や丹下健三をはじめ日本を代表するモダニズムの建築家によって、日本建築の原型であるとの主張がなされ、「日本人の魂」の原風景とも言われてきたが、この「伊勢名所之図」と「伊勢名所史料」を見ると、それとはまた別の意味で、伊勢は近代化遺産の宝庫であることが分かる。
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 江戸時代より、庶民の間で伊勢神宮参詣は盛んであったため、1897(明治30)年には、参詣客を見込んで山田(現:伊勢市)まで鉄道が開通し、伊勢神宮への参詣路線として戦前は幹線同等に扱われ、東京や大阪などからの直通参詣列車が運転されていたという。
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 路面電車も、1903(明治36)年に運行を開始しており(東京都電より17日、大阪市電より1か月早い開業で、日本では7番目!)、ターミナル駅から伊勢神宮・二見浦へ向かう観光・参詣客輸送の役割を果たしていた。その後、1961年1月、バスに転換して全廃となった。
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 宇治山田郵便局【1909(明治42)年】は、明治期に建てられた唯一現存する木造の普通郵便局舎ということで、重要文化財に指定されており、現在は愛知県犬山市にある明治村に移築保存されている。
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 徴古館【1909(明治42)年】の設計者は赤坂離宮(現・迎賓館/国宝)や東京・奈良などの国立博物館(重要文化財)を手がけた当時の第一人者、片山東熊(1854-1917)。(※木造建築の農業館(重要文化財)も片山東熊の設計)
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 徴古館は1945(昭和20)年に戦火をうけ、建物と収蔵品の大部分を焼失したが、1953(昭和28)年、式年遷宮を記念して、建物は外部の花崗煉瓦石積の壁面はそのまま、二階建に改装され、重要文化財に指定されている。
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 1925(大正14)年には、標高555メートルの朝熊(あさま)山頂上にある金剛證寺への参詣客輸送のために朝熊登山鉄道(ケーブルカー、平岩 - 朝熊山間)が開業した。
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 「伊勢に参らば朝熊を駆けよ 朝熊駆けねば片参宮」と言われ、神宮へ参詣すると必ず金剛證寺へ参詣したため、鉄道開通の翌年には、年間52万人が登山鉄道に乗ったという記録があるという。
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 1944(昭和19)年1月10日、太平洋戦争の激化と共に、登山鉄道の運転は休止となり、同年8月にはケーブルカーの線路が軍用のため金属供出により徴収され廃線となった。
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# by suzu02tadao | 2012-06-03 17:00 | Comments(0)

足立源一郎 ~ 奈良にて

◇旧足立源一郎邸 1919(大正8)年
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 足立源一郎(1889-1973)は、日本を代表する山岳画家として国内外に足跡を残し、数々の名作を描いたことで有名であるが、自身の設計により建築した奈良市高畑町の旧足立邸(中村邸)は国の登録有形文化財に登録されている。
【参考】レトロな建物を訪ねて

※以下、「登録有形文化財」説明板より
<登録有形文化財
 中村家住宅(旧足立家住宅)主屋・塀
 ~ 主屋は、赤瓦を葺き、外壁をモルタルで仕上げた洋風住宅です。フランスから帰国した足立自ら南プロバンス風に設計したと伝わっています。内部にはステンドグラスで飾った玄関、吹抜けのアトリエ、サンルーム等があります。土塀にも赤瓦を使用し、瀟洒な門柱を構えています。~>


 足立源一郎は1914(大正3)年、フランスに留学して、4年半パリで画業に励んだ後、1918(大正7)年、帰国して翌年にはこの自邸を建てている。
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 1920(大正9)年に日本美術院第7回展終了後、足立をはじめ洋画部会員は連袂脱退する。そしてこれ以降、日本美術院から洋画部は無くなる。

◇「カスク ノワール」日本美術院第7回展 出品作
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 題名の「カスク ノワール」とは婦人の被っている黒い帽子のことのようだが、この絵は留学時代にパリで描かれたものであろうと思われる。

 1922(大正11)年1月、日本美術院の元洋画部会員が中心となって春陽会を組織する。主要メンバーは足立の他、梅原龍三郎、山本鼎、小杉未醒、岸田劉生、木村荘八、萬鉄五郎、中川一政などであった。
 足立源一郎は文筆家としても定評があり、その年の8月には、専門的に洋画を描こうとする人や研究者のために『人物画を描く人へ』を著しており、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ルーベンス、ドガなど巨匠の作品に加えて自身の作品をまじえて解説している。

◇伊太利の男[1915(大正4)年]『人物画を描く人へ』より(東京国立近代美術館 蔵)
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◇自画像[1916(大正5)年]『人物画を描く人へ』より
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 その一方で同じ頃、共著ではあるが、『古美術行脚 大和』を著しており、内容は大和地方にある東大寺や法隆寺などの仏像を中心とした文化財のガイドブックである。
 当初は洋画家の足立が何で?と思ったが、序文を読んでみると、当時の先駆的な役割を担って海外に留学した芸術家の意識が見てとれて興味深い。
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『古美術行脚 大和』 序 より(※抜粋)
 <明治末期以来とみに盛んになった泰西芸術の移植は、大戦の終結と共にさらに急激になった。~
 しかし果たして、セザンヌ、ルノアールを賛仰し、ロダン、マイヨールを崇敬することのみによって吾々の心は完全に充たされるであろうか。~ 新進国民としての発展にのみ喜悦し、何ら祖先の偉業を追慕する事なしに満足できるであろうか。
 彼等が常にその伝統を誇るごとくに、吾々も誇るべき多くの祖先の偉業と伝統を保有しているのである。ただ惜しい事には、維新以来既に日浅しとにはあらねど、軍国の事に急にして今日まで彼等のごとくに完備した美術館の設置を見る事なく、ために一般にせっかくの国粋に親しむ機会がなかったのである。
 大和が古美術の郷土であるとは皆人の知る所であって、奈良はさながらの一大美術館である。美術館に入って誠実な目録のないのは何よりも口惜しい事である。吾々奈良に在住する者さえも常に遺憾としておったのはそれであった。~
 古美術を鑑賞せんとする人々の便宜ともなるべくこの書を著すことになったのである。~
   大正十一年夏       奈良にて
                       著者>


 1923(大正12)年、再度ヨーロッパに向け出発した足立は、スイスのグリンデルワルドなどに入り山の絵を描きはじめる。1925(大正14)年帰国するが、この年の第3回春陽会展後に岸田劉生と梅原龍三郎が脱会するなど、春陽会での会員間のごたごたがあり、嫌気がさし、山への傾斜がより強くなる。

 足立源一郎がこの高畑の家に住んだのは1927(昭和2)年までで、翌年には中村義夫(画家、1889-1957)に譲り渡している。
 その後、ついには日本各地の山岳いたるところにその跡を残すことになり、1年の大半を北アルプスで過ごすようになる。

 旧足立邸の隣には「志賀直哉旧居」がある。
 志賀直哉はここで『暗夜行路』や『痴情』などの作品を執筆した。
 志賀を慕って武者小路実篤や小林秀雄、尾崎一雄、入江泰吉、亀井勝一郎、小林多喜二、桑原武夫ら白樺派の文人や画家・文化人がしばしば訪れ、文学論や芸術論などを語り合う一大文化サロンとなり、いつしか「高畑サロン」と呼ばれるようになった。
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 旧足立邸「登録有形文化財」説明板には先の文章に続いて
 <なお、この一帯には、明治初頭まで、春日大社の神官たちが、土塀で囲った屋敷に暮らしていました。当家の土塀も、そうした歴史を受け継ぐものです。>とあるが、なるほど周辺には土塀の家が今でも残っている。
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# by suzu02tadao | 2012-05-31 12:30 | Comments(0)