1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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其角俳句と江戸の春

◇「東京文学散歩(下町篇)」【隅田川】(1955年)角川写真文庫より
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 日本の1920年代を探訪する『モダン都市東京』(海野弘著)は、「向島」を起点として始まる。
 <私は堤防の上のベンチに坐って夜の運河をしばらく眺めていた。私は隅田川の左岸にいた。背後に三囲神社があり、右手には白鬚橋、左手に言問橋、対岸には台東体育館とプール、そして山谷堀の水口があった。ここから見ると、隅田川は自然の川というよりは、人工のプールのようだ。~>
 以前、東京にいた時、『モダン都市東京』の冒頭の場所を訪ねてみた事があった。
 その時に目印にしたのが三囲(みめぐり)神社だったのだが、ここで私が出会ったのが宝井其角であった。
 三囲神社の境内には其角の大きな句碑がある。
  夕立や田をみめぐりの神ならば
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この句碑の傍らには説明板があり、次のように書かれている。
<宝井其角(たからいきかく)「ゆふたちや」の句碑(雨乞の碑)
 元禄六年(1693)は大変な干ばつで、秋の収穫を心配して困りきった小梅村の人々は三囲神社に集まり、鉦や太鼓を打ち雨乞いをしていました。ちょうど、三囲神社に詣でた俳人其角が、このありさまをみて、能因法師などの雨乞の故事にならい「遊ふた地や田の見めぐりの神ならば」と詠んだのです。この話は其角自選句集の『五元集』にも「うたえば翌日雨降る」と記されているように、早速効果があったと伝えられています。~>

◇三囲神社の墨堤に向った入口の鳥居
 「東京文学散歩(下町篇)」【隅田川】(1955年)角川写真文庫より
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◇現在の三囲神社の鳥居
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 宝井其角は松尾芭蕉の弟子で、師の芭蕉に「門人に其角、嵐雪あり」(『桃の実』)といわしめる蕉門十哲の筆頭の俳人である。しかしながら、その作品は、ワビ、サビの世界、芭蕉の閑寂枯淡の境地とはかなりかけ離れており、また遊里を愛し、永年の飲酒が祟ってか47歳の若さで亡くなっている。

  鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
  闇の夜は吉原ばかり月夜かな
  夕すゞみよくぞ男に生れけり
  我が雪と思へばかろし笠の上


 其角は自然風土よりも市井の人事を詠み、人情の機微を詠んでいる。そのために、去来や凡兆などの蕉門後期の門弟たちには疎まれる傾向があったようだ。

 最近では其角俳句はほとんど忘れ去られており、其角に関する著書は少ないが、『昭和史』で著名な半藤一利さんが『其角俳句と江戸の春』(2006年刊)を著している。尚、この本の中でもふれているが、永井荷風は其角をとても評価していたようで、『断腸亭日乗』の昭和3(1928)年2月13日の項で次のように記している。
 <晋子其角は年わづかに四十七にて歿したり。されど短命の生涯に二度まで京都に遊び、其名を永く後世に伝へたり。人この世に生るゝや寿は天命なり。才名を世に伝ふることを得ば短命敢て悲しむに当らざるべし。悲しむべきは才つたなくして学の浅きことなり、余早くも五旬に達して碌々として為すこともなし、たまたま物書かむと思へど常に病苦の妨ぐる所となる、歎くも悔るも五十の声を聞きては既に及ばぬことなり。~> 
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# by suzu02tadao | 2012-04-10 16:40 | Comments(0)

春爛漫 ~ 古書市 ~ 濹東綺譚

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◇「ツイン21古本フェア」会場より大阪城を臨む
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 この土日に「天神橋三丁目プチ古書即売会」と「ツイン21古本フェア」 に行ってきた。
 天神橋の古書市で昭和14年発行の「大東京区分地図」を購入したが、ちょうど桜が見ごろだったので、花見をしながら地図を眺めていると、今、東京スカイツリーのある向島の隅田川沿いが昔から桜の名所だったことを思い出した。
 向島は現在は墨田区だが、戦前の東京は現在のように23区ではなく35区であって、昭和14年当時には、スカイツリーのある辺りから両国にかけては本所区となっており、また「濹東綺譚」の舞台となった玉の井の辺りは向島区であった。
 「大東京区分地図」と比べてみると、「濹東綺譚」の挿し絵の地図は、結構正確であることが分かる。

◇昭和14年「大東京区分地図」より
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◇「濹東綺譚」挿し絵より
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◇永井荷風が玉の井通いして秘かに描いた地図
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◇戦火をまぬがれて残った「ぬけられます」
 「東京文学散歩(下町篇)」【墨東】(1955年)角川写真文庫より
 ※「ツイン21古本フェア」 にて購入。
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# by suzu02tadao | 2012-04-09 14:20 | Comments(0)

情景

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# by suzu02tadao | 2012-04-05 11:58 | Comments(0)

東洋劇場(後の大劇 ビル)

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1933(昭和8)年8月30日、大阪・千日前に竣工。9月より映画館として営業を開始。
1934(昭和9)年4月に大阪劇場(大劇)と改称し、8月1日より大阪松竹少女歌劇団(OSSK)の本拠地として、映画とレビューの二本立て興行を行うようになり、「春のおどり」も翌年3月からは、それまでの松竹座(道頓堀)から大劇で公演されるようになった。

◇休憩室【左】、観客席(大衆席)【右】
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◇和洋大食堂の一部【左】、喫茶室の一部【右】
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大地階 スポーツヤード (入場無料)
場内は大公園を作り、お子様方の御遊び場所として安全なる汽車、自動車あり、一日を永く愉快に郊外に遊ぶの心地 ‼ 真の楽天地は此処 ‼ 別天地!

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 当初、子供向けの遊戯施設だった地下一階は、1950(昭和25)年にはアルバイトサロン(現在のキャバクラ)の嚆矢となる飲食店になり、独特のキャッチコピーが新聞に掲載された。支配人を務めた磯田敏夫は織田作之助門人の文士でもあり、自らの経験が元になった映画「ネオン太平記」(1968年日活)ではロケにも使用された。

 1967(昭和42)年、不採算物件であった大劇の劇場部分は複合ビルに改装されて、既に営業していた地下のアルバイトサロンと上階の映画館(大劇シネマ)を含んだ一大娯楽施設に転換した。ジャズ喫茶「やかた」、ボウリング場「大劇ドリームボウル」、ダンスホール(後のディスコ、現在のクラブに相当)「大劇ダンス天国」などが設置され、一階は飲食店数店(百番・千房など)の他千日デパート火災で移転を余儀なくされた一部名店街が入店し、館内はさながら複雑な迷路状態となっていた。

 「モダン・シティふたたび」海野弘著(1987年刊)の中で、大劇ビルは「千日前ラビリンス」として紹介されている。
 <~東洋劇場は今の大劇ビルである。一九三三年に八木工務店の設計でつくられた東洋劇場は西日本一の洋画劇場といわれたほどの映画宮殿であった。今日、ゲームセンターやキャバレーなどが入り、派手な看板におおわれて、裏の路地からでないと建物が見えない。
 私は横の方から階段を上ってみた。手すりなどに昔がしのばれる。どんどん上っていって、上の階で、ドアを開けると、自衛官の募集所であった。私は千日前で都市の迷路に迷いこんでしまった。>


 そして、1991(平成3)年に老朽化のため取り壊され、跡地には1996(平成8)年に「なんばオリエンタルホテル」が開業した。
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# by suzu02tadao | 2012-04-02 08:50 | Comments(0)

富士館(日活映画封切館)

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 以前にとりあげた水島良成のデザインによる「富士週報」を発行していたのが、浅草にあった映画館「富士館」だが、竣工当時の資料をみると、外装・内装共にアールデコ調のモダン建築だったことがわかる。

◇建物正面
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◇舞台面
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◇観客席側面
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◇喫茶室
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 この建物の竣工は、1927(昭和2)年12月25日。
 設計:僊石政太郎 施工:清水組 室内装飾:高島屋。
 当初は日活映画封切館であったが、1942(昭和17)年4月、戦時統合で日活の製作部門が大日本映画製作株式会社(大映)に統合され、同館でも大映作品を公開することとなった。
 1947(昭和22)年、日活が独立を回復し、以降「浅草日活劇場」と改称、日活の直営館となった。
 1973(昭和48)年、閉館した。「浅草日活劇場」は浅草東映劇場の地下を賃借し移転し、跡地はキャバレーとなった。現在同地ではパチンコスロットパンドラが営業している。~(以上、wikipedia参照)とあるが、建物自体は1986年まではあったようだ。

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 外装は総て特製スクラッチタイル張り。
 建物正面の窓間のアールデコ調のパネル彫刻が特長だが、これは電鋳(電気鋳造)鍍金仕上ということで、1986年当時の写真では、この部分は鍍金がはげて黒くなっていた。

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 正面玄関のステンドグラスは近代建築の破片の蒐集で有名な一木努さんのコレクションの中にあったように思うが、パネル彫刻はどこかに残っていないのだろうか?
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# by suzu02tadao | 2012-04-01 11:45 | Comments(0)