1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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吉原治良 「図説」 -抽象美術運動のエポック-

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 先日の「吉原治良」展では展覧会図録がなかったので、絵ハガキを探していたら、古書店で第24回二科展出品作「図説」を見つけることができた。

 この作品は先日の展覧会には展示されていなかったものだが、調べてみると、吉原治良及び日本の抽象美術運動にとっては重要な作品だということが分かった。
 昭和9年に制作されたこの作品は、同年に二科展デビューを飾った吉原治良が、それまでのデ・キリコ風のスタイルから脱却して抽象絵画への転向を図って、昭和12年の第24回二科展で発表した中の一点である。

 下の写真は第24回二科展会場のもので、ちょうどこの「図説」が展示されている前にいるのが吉原治良(右)と長谷川三郎(左)である。
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 吉原治良が抽象絵画に転向した1937(昭和12)年は、戦前の抽象美術運動がひとつのエポックをなした年であり、長谷川三郎や村井正誠、山口薫らが中心となり抽象美術を標榜する「自由美術家協会」が結成された。
 また長谷川三郎は同年に日本ではじめての本格的な抽象美術の解説書『アブストラクト・アート』を著している。

長谷川三郎 「蝶の軌跡」 1937(昭和12)年
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 このような動きの中で吉原治良は、翌1938(昭和13)年には二科会の前衛画家らと「九室会」を結成する。
 「九室会」という名は、東京府美術館で開かれる二科展で前衛画家たちの作品が第九室に集められていたことに由来する。

 抽象美術運動は戦時中には中断を余儀なくされるが、終戦後、吉原治良は1954年に前衛的な美術を志向する「具体美術協会」を結成し、リーダーとなって国際的に活躍する。
 長谷川三郎は1950年にイサム・ノグチを日本に紹介するなど、日米の現代美術交流で活躍した後、サンフランシスコ美術大学客員教授として渡米し、各地で個展等を開催し制作活動も意欲的に行なったが、1957年、アメリカで客死する。
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# by suzu02tadao | 2012-05-28 13:30 | Comments(0)

芦屋市立美術博物館

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 芦屋市立美術博物館で開催されている(終了間近!)「没後40年 吉原治良」展は、「具体美術協会」時代の作品をはじめ、「具体」結成以前の作品も一堂に介して、約50年におよぶ創作活動の精髄の展覧ということで、以前もここでとりあげた第35回二科展出品作の「少女と七羽の鳥」や、吉原治良が20~30代だった頃に制作された戦前の作品も多く展示されており、なかなか良かった。
 ただ、惜しむらくは展覧会図録がなかったことが残念でならない…。

 芦屋市立美術博物館の建物(1990年)は、坂倉建築研究所大阪事務所の設計ということで、大変モダンなものだが、ポスター(パンフ)の貼り方も建物にうまくマッチしていた。
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 敷地内には小出楢重の復元アトリエがあり、楢重の作品のモチーフとして登場する家具類やイーゼルなどの画材を展示して一般公開している。
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 当時の写真と比べてみると、レイアウトやイーゼルの向き等は実際に制作をしていた時と展示とでは若干違っているようだ…。
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 帰りの道すがら、「具体」の作品集や先日の「村山知義展」を観たせいか、人家の板壁も「作品」に見えてしまうのだった…。
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 最寄の阪神芦屋駅近くの「芦屋警察署」も、モダン建築【1927(昭和2)年】です。
【参考】近代建築Watch 
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# by suzu02tadao | 2012-05-24 14:25 | Comments(0)

東京電力下谷変電所

 上野駅~御徒町駅の間にあるアメ横の辺りを、例によってブラブラと目的もなく歩いていた時に偶然発見したのが「東京電力下谷変電所」だった。

【表側】
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 町歩きの楽しみは、なんと言っても散歩の途中で、その町の近代化や歴史の痕跡を発見することである。
 もちろん、ガイドブックや案内図などを頼りに目的のものを探索する楽しさというのもあるけれど…。が、しかし、やはりブラブラと歩きながら、偶然にそういったもの…思わず「何だ!これは!?」と言ってしまいたくなるようなものに遭遇した時の喜びに勝るものはない。
 この建物が「東京電力下谷変電所」だと分かったのも数日後のことだった。
 また、竣工年【1931(昭和6)年】以外は設計者などの詳細が分からないというのも気にいった。
 設計者はドイツ表現主義の影響を受けたような感じだが、いやみな造形もなくて、全体的なまとまりも良く、なかなかの実力者だと思える。

【裏側】
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 こういった佳作が、ごちゃごちゃとした繁華街の中にさりげなく佇んでいるというのも、町の歴史の証と言えるのではなかろうか…。

 これだから、町歩きはやめられない…。


【追記】
 すぐ近くにはこんなものを売っている店もありましたヨ…。
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# by suzu02tadao | 2012-05-22 10:41 | Comments(0)

「平和記念東京博覧会」Part 2

◇平和記念東京博覧会パノラマ図
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 前回とりあげたこのパノラマ図には、【五姓田】サインが入っていたのだが、いろいろと調べてみると、二世・五姓田芳柳(ごせだ ほうりゅう、1864-1943)の作品であることが判明した。
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 二世芳柳は下総国(茨城県)の出身。1878(明治11)年に上京して、明治期を代表する洋画家のひとりである五姓田義松(初世芳柳の二男)や英国人画家ワーグマンに師事し、1885(明治18)年には、初世芳柳の養子となり二世芳柳を名乗った。1889(明治22)年に明治美術会の創立に参加。1900(明治33)年のパリの万国博には作品を出品した。さらに1910(明治43)年の日英博覧会の際は、渡英してジオラマ(背景画の前に立体模型を置く見せ物)を描くなど、洋画、日本画、またそれら諸技法を融合させた独自の画風を展開、幅広い分野の絵画を柔軟に手がけ、明治から昭和の画壇で活躍した。

 さて、平和記念東京博覧会について、前回には呼び物のひとつの堀口捨己が設計したパビリオンをとりあげたが、もうひとつ話題を呼んだのは、会場の一隅に設けられた、「文化村」と呼ばれる14棟のモデルハウスからなる住宅展示場だった。

◇文化村出品住宅
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 平和博が開催されたこの年には本格的な郊外の洋風住宅街が東京の下落合と洗足に誕生しており、展示されたモデルハウスはそれら新興住宅街に建てられるべき、日本人の新しい生活様式を踏まえた住宅群の雛形、あるいはミニチュアモデルともいうべき役割りを果たし、その後に「文化住宅」と称されるイメージの源となったのだが、この辺のいきさつについては、『消えたモダン東京』(内田青蔵著)の中で詳しく説明されている。

 ところで、「文化村」は新生活の場として話題は呼んだものの、会期中に売れたのはわずか数戸という寂しい結果に終っており、平和博は全体的にみても興行的には失敗であった。
 『ランカイ屋一代(わが博覧会100年史)』(中川童二著)の中でも、「不景気平和博」として、当初は好評だった水上飛行機の滑走も、会期の終わりごろには入場者が少なくなり、<お客が行列をつくって待っているという光景は見られなくなり、プロペラの音が空しく池面に響いていた。>と記されている。

◇水上飛行機
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 豪華な夜のイルミネーションも、1914(大正3)年の東京大正博覧会ほどの話題は呼ばなかったという…。
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# by suzu02tadao | 2012-05-20 11:00 | Comments(0)

「平和記念東京博覧会」Part 1~ 堀口捨己

◇平和記念東京博覧会パノラマ図(部分)
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 平和記念東京博覧会は、1922(大正11)年(※関東大震災の前年)3月10日から7月20まで東京上野公園内で開催された博覧会で、第一次世界大戦後の平和を祈願して、文化性や娯楽性が盛り込まれたもので、戦前では最大の規模であり、期間中1100万人の入場者で賑わったという。
 
 このパノラマ図を手に入れたのは、もう20年近く前だが、購入した理由は、手前にあるパビリオンのデザインが見てのとおり大変モダンであったからで、大正時代、しかも関東大震災以前の日本に既にこういった建物(たとえパビリオンであっても)が存在したことに、ちょっとした驚きと共に好奇心を抱いたからだ。

 これらのパビリオンが、堀口捨己(ほりぐち すてみ、1895-1984)の作品(しかもデビュー作!)であることを私が知ったのは、ほんの数年前になってからだ…。
 堀口捨己は岐阜県に生まれ、東京帝国大学建築学科に進み、卒業を控えた1920(大正9)年、石本喜久治、瀧澤眞弓、森田慶一、山田守、矢田茂等の東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成する。

 <堀口にとって最初の仕事は平和記念東京博覧会のパビリオンの設計であった。上野の不忍池に面した第二会場の建物として中央に放物線状の屋根を持つ塔を中央に据え、両翼の一方に動力・機械館、もう一方に交通・航空館と林業・鉱山館などが実現した。放物線状の屋根や開口部などの分離派特有のモチーフや幾何学抽象的な形状で各建物の性格を差別化する表現が試みられている。>
分離派建築博物館--堀口捨己 -- より
【参考】分離派建築博物館・・・JAPANESE 1920'sARCHITECTURE・・・

◇動力・機械館
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◇交通・航空館
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◇林業・鉱山館
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 さて、ここにもう一人、堀口捨己のデビュー作ともいえるパビリオンに魅せられた人物が、同じ年に写真家としてデビューしている。
 戦前の写真界を代表する先駆者として、土門拳、森山大道をはじめ多くの写真家に影響を与えている安井仲治(やすい なかじ、1903-1942)である。

 <~安井が生まれた年の翌年、一九〇四年に創設された伝統を誇る浪華写真倶楽部に入会するのは一九二二年である。この年の浪展には、東京、上野公園で開催されて人気を集めていた平和記念東京博覧会の動力・機械館(設計 堀口捨己)を撮影した「分離派の建築と其周囲」を出品している。~実質的なデビュー作といえる作品に、このようなモダンな被写体を選んだところに、安井の時代に対する鋭敏な感覚を見ることができるだろう。>
『都市の視線(日本の写真 1920―30年代)』飯沢耕太郎著 より
◇安井仲治「分離派の建築と其周囲」

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 その後、堀口捨己は1923年渡欧してバウハウスやオランダのアムステルダム派の建築に直接触れ大きな刺激を受けた。翌年に帰国するとアムステルダム派と数奇屋建築を融合したようないくつかの小住宅を実現する。その代表例が現在、江戸東京たてもの園に移築保存されている小出邸(1925)である。

 <小出邸は帰国直後の設計でありオランダ建築の各派の影響をそのままひとつの住宅に集約した様子がうかがえる。外観は田園住宅的なアムステルダム派的で、内部はロッテルダム派的な抽象的な構成が室内造作に採りいれられている。>
分離派建築博物館--堀口捨己 -- より

◇小出邸(江戸東京たてもの園)
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【参考】http://www.bunkouken.com/b_koidetei.htm

 小出邸の2階の窓から見えているのは、隣の前川國男邸の屋根(下の写真)。
 私がこれらの写真を撮った頃には、堀口捨己にはあまり興味が無く、小出邸の室内写真はほとんど撮っていない。(… 前川邸の室内写真は結構あるのだが…。)
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 堀口捨己については、後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図ったとされ、その作品も、大島測候所(1938/現存しない) や旧若狭邸 (1939)などのモダニズム建築がある一方で、八勝館 御幸の間(1950)のような数寄屋造りの傑作もあり、「和」と「洋」の問題を直視し自らの感性で建築のありかたの本質に迫ろうとする姿勢は戦前の分離派時代から生涯貫き通されたといわれている。
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# by suzu02tadao | 2012-05-18 14:30 | Comments(0)