1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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『停車場の趣味』 岡本綺堂

 駅のことを「停車場」と云わなくなって久しい。
 私なぞは、その昔の石橋正次のヒット曲「夜明けの停車場」がなつかしく思い出される…まさに「停車場」は昭和とともに過ぎ去っていった言葉なのかもしれない。

◇品川駅(明治30年代)
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 岡本綺堂といえば、その歯切れのよい江戸ことばの語り口が魅力の『半七捕物帳』が代表作ということで、「江戸」のイメージが強いが、『半七捕物帳』が書かれたのは、1917(大正6)年から1936(昭和11)年で、まさに近代化の渦中であり、綺堂の随筆を読めば、明治の終わりから関東大震災を経て、移りかわる東京の町の様子がよくわかる。1926(大正15)年に発表された『停車場の趣味』はそんな中でも私が好きなものの一つである。
 まあ、『半七捕物帳』自体も、『シャーロック・ホームズ』という近代探偵小説が元になっており、モダン文学と言えなくもないのだが…。

以下、『停車場の趣味』抜粋…

 <これは果して趣味というべきものかどうだか判らないが、とにかくわたしは汽車の停車場というものに就て頗(すこぶ)る興味を有っている。汽車旅行をして駅々の停車場に到着したときに、車窓からその停車場をながめる。それが頗る面白い。尊い寺は門から知れるというが、ある意味に於て停車場は土地その物の象徴といってよい。
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 そんな理窟はしばらく措(お)いて、停車場として最もわたしの興味をひくのは、小さい停車場か大きい停車場かの二つであって、どちら付かずの中ぐらいの停車場はあまり面白くない。殊に面白いのは、一(ひと)列車に二、三人か五、六人ぐらいしか乗降りのないような、寂しい地方の小さい停車場である。~>

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 <夏から秋にかけては、こういう停車場には大きい百日紅(さるすべり)や大きい桐や柳などが眼につくことがある。真紅に咲いた百日紅のかげに小さい休み茶屋の見えるのもある。芒(すすき)の乱れているのもコスモスの繁っているのも、停車場というものを中心にして皆それぞれの画趣を作っている。駅の附近に草原や畑などが続いていて、停車している汽車の窓にも虫の声々が近く流れ込んで来ることもある。東海道五十三次をかいた広重が今生きていたらば、こうした駅々の停車場の姿を一々写生して、おそらく好個の風景画を作り出すであろう。>
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 <大きい停車場は車窓から眺めるよりも、自分が構内の人となった方がよい。勿論、そこには地方の小停車場に見るような詩趣も画趣も見出せないのであるが、なんとなく一種の雄大な感が湧く。そうしてそこには単なる混雑以外に一種の活気が見出される。~>
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 <~わたしは麹町(こうじまち)に長く住んでいるので、秋の宵などには散歩ながら四谷の停車場へ出て行く。この停車場は大でもなく小でもなく、わたしにはあまり面白くない中位のところであるが、それでも汽車の出たあとの静かな気分を味わうことが出来る。堤の松の大樹の上に冴えた月のかかっている夜などは殊によい。若いときは格別、近年は甚だ出不精になって、旅行する機会もだんだんに少くなったが、停車場という乾燥無味のような言葉も、わたしの耳にはなつかしく聞えるのである。>

◇東京市街図(大正14年)部分
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# by suzu02tadao | 2012-07-28 16:50 | Comments(0)

敦賀にて -夏紀行-

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 敦賀は古代より日本海側の玄関口として港湾を中心に栄え、北陸道と畿内を結ぶ位置から交通の要衝とされ、かつては、シベリア鉄道に接続するウラジオストク航路の日本側の入口となっていた。
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# by suzu02tadao | 2012-07-26 10:37 | Comments(0)

藤沢桓夫と「大阪」

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 もうすぐ「天神祭」だからという訳でもないのだけれど…、引続き大阪…そして大阪を代表する小説家の藤沢桓夫(ふじさわ たけお、1904 - 1989)についてふれてみたい。

 上図の『大阪手帖』【1946(昭和21)年刊】の装丁は吉原治良ということで、ちょっと意外で…藤沢桓夫と接点があったことが嬉しく思えたのだが、戦前からこの時代にかけては、藤沢桓夫をはじめ、画家と密接な交流があった小説家は多く、この本の「わが交友録」の中で、画家では田村孝之介(1903 - 1986)を紹介している.
 後には、田村と共著の『大阪 我がふるさとの』を著しており、こちらでは『大阪手帖』で発表したものを再載した随筆もあるのだが、同じ大阪出身ということで大変にうまが合ったようで、『淡雪日記』の装丁や朝日新聞に連載し大評判となった『新雪』の挿絵を田村孝之介が担当している。

◇田村孝之介:画 「道頓堀」(『大阪 我がふるさとの』)より
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 そして、藤沢桓夫にとっては、学生時代の同人誌「辻馬車」の表紙を手がけた小出楢重との交流が一番忘れられないものだったようだ。(※田村孝之介は信濃橋洋画研究所で小出楢重に学んでいる。)

 私が藤沢桓夫にハマるきっかけとなったのは『大阪自叙伝』だが、私は小出楢重の絵「市街風景」(中之島風景)が表紙になっている中公文庫版のほうが好きだ。それは、この本の「大阪文化と中之島」に次のようなくだりがあるからだ。

 <大阪が生んだ天才洋画家、小出楢重が好んで描いた中之島風景の画面でも、裁判所その他の青銅の円屋根は不滅の美しさを観る者の心にしみこませる。あの文明開化調の蒼古美を後世につたえるためにも、中之島風景は、破壊するなどもっての他、府市民によって保護され、生きつづけて行くべきである。
 ≪追記≫ 私がこの文章のこのあたりを書いたのは、昭和四十七年の暮れ頃だったと思うが、中之島の裁判所の建物は、直後の四十八年に取り壊されたと聞く。地下の小出楢重がこのことを知ったら、きっと、「無茶しよるな」と眉を寄せるに違いあるまい。>

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 余談だが、小出楢重をはじめ鍋井克之、足立源一郎など大阪出身の画家には文章のほうでも筆がたつ人が多かったのも事実である。

 ところで、私が本当に藤沢桓夫にハマったのは以前に東京にいた時だった。
 東京古書会館で『傷だらけの歌』【1947(昭和22)年刊】を見つけて購入した後、さわりだけ読んだだけで放っておいたのだったが、大分経ってからのある日、池袋界隈を探索しようと思って、『池袋モンパルナス』(宇佐美承著)を読みなおしていたら、唐突に『ローザになれなかった女』のことが出てきたのだった。そこで、改めて『傷だらけの歌』を読んでからは、藤沢桓夫に対する認識も深まったのだった。神保町の東京堂書店で『回想の大阪文学』(なにわ塾叢書)を購入したのもこの頃だった。(※本当に神保町はスゴイ所ですね…)
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 ここで、話は少し飛ぶが、『モダン・シティふたたび』(海野弘著)の中で、大阪出身でフランスで活躍したグラフィックデザイナー、里見宗次(さとみ むねつぐ;ムネ・サトミ、1904 - 1996)についてふれているが、里見は今宮中学校で藤沢桓夫と同学年だったはずであり、また里見がパリに留学したのは、小出楢重の勧めであったことを考えると、お互いに全く知らなかったはずはないともいえるが、藤沢桓夫の著書(回想録)の中には里見の名前は出てこない…。

 それにしても、藤沢桓夫の著書のタイトルには「大阪」が付くものが多い。
 ここで取りあげた以外にも、『大阪の話』、『大阪物語集』、『大阪千一夜』、『大阪五人娘』、『大阪八景』、『新・大阪物語』、『私の大阪』など…。
 そして、『大阪 我がふるさとの』の「あとがき」では次のように語っている。
 <私は、大阪で生まれ、大阪で育ち、現在も大阪に住んでいる。大阪以外の土地で暮らしたのは、東京での学生生活の前後の数年間だけだ。三十歳以後はずっと大阪を離れたことがない。そして、もう少し具体的に言うと、私は、明治の大阪に生れ、大正の大阪で育ち、昭和の大阪を生きて来たことになる。~>
 まさに、藤沢桓夫はミスター・モダン大阪そのものである。

◇田村孝之介:画 「夏祭の思い出」(『大阪 我がふるさとの』)より
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# by suzu02tadao | 2012-07-23 16:20 | Comments(0)

富田屋八千代

◇山田伸吉:画 「富田屋八千代」(『道頓堀物語』三田純市著)より
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 船場~中之島のモダン建築巡りをした後、少し北に歩いて天神橋の古書即売会をのぞいた。
 そこで、上図の挿絵に惹かれて買ったのが『道頓堀物語―小説上方芸人譜』(三田純市著)で、この本の装丁及び挿絵は(やはり!)山田伸吉であった。
 なお、山田伸吉については、絵は独学で学んだとされているが、この挿絵などをみると、美術学校には通わなかったにせよ、しっかりとした絵画の基礎(デッサン)は学んだと思われる。そうでないと、ここに在る奥行は表現できないはずである。
 ところで以前、山田伸吉と同じ絵の系統と書いた画家の木村荘八(1893 - 1958)が、その著書『現代風俗帖』の「美人変遷史」で、富田屋八千代(とんだや やちよ、1887 - 1924)をとりあげている。
 この『現代風俗帖』には『濹東綺譚』の挿絵のいきさつや、「モダンといふこと」の考察などが載っていて興味は尽きないのだが、それらについてはまた機会を改めるとして、私は何故か、この『現代風俗帖』を2冊持っており、というのも、木村荘八は同じ頃、『東京今昔帖』など似たような内容のものを著していて、既に所有しているかどうかあいまいだったため、値段の安さもあって、購入してしまったのだった…。
 ところが、この2冊、「再版:昭和27年3月25日発行」と「三版:昭和27年4月20日発行」とでは、富田屋八千代の写真が下図のとおり違っているのだった。

「再版:昭和27年3月25日発行」
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「三版:昭和27年4月20日発行」
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 最初は、再版の写真が間違っていたので、差し替えたのだろうと思ったのだが…、おそらく再版のものはブロマイド写真であって、実際のところはこんなお茶の入れ方はしない筈で、内容にふさわしくないと判断したためであろうと思われる。

 以下、「美人変遷史」の内容は次のようなものだ…
<~又「美人」は云ふ迄もなく「顔」の問題だけでなく挙措風姿全体の問題だと思ふので――昔阪地で富田屋八千代(第一図)がモンダイだった頃に、或る人が語って、或る旗亭で八千代に逢ったさうだ。八千代は静かに合ひのからかみを開けて、一座の案内へ入って来ると、その襖の開け閉てのところで、畳半畳とは動かない居周りの挙措動作に決まり決まりが〆まって、精彩奕々とし、「これは美人だなア」と、その人は思った、と、話した。その人はその時まだ「顔」はろくに見なかったさうである。>
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 一方の『道頓堀物語』では、八千代がまだ見習いとして本名のミキ(美記)と呼ばれていた頃、後の姉芸者豆千代と銭湯で出会った時のこんな場面が出てくる。
 <「ごめんやす…」
 誰にともなく口にする挨拶に、えもいわれぬ愛嬌がある。ミキが思わず見惚れたのは、豆千代の着物の脱ぎ方だった。ミキが養母のタマから教わったとおり、ということは、結局ミキとたいして違わない手順で着物を脱ぐのだが、その様子(さま)がまるで違うことにミキは気がついた。ハラリ、まるで牡丹の花弁が落ちるように、豆千代は着物ごと脱衣籠の傍に蹲み、蹲んだかと見ると、ふうわり手拭を前に当て片手に金盥を抱えた裸身が立上がる。まるで一分の狂いもない名人の舞を見るような鮮やかさである。>

 こういった経験を経る中で、芸事や立居振舞を身につけてゆき、日本三名妓の一人と云われた富田屋八千代ができ上がったのであろう。
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  さて、富田屋八千代といえば、様々な逸話が伝えられていて、エピソードには事欠かないが、なんといっても当時無名であった日本画家の菅楯彦(1878 - 1968)との結婚は、世間を驚かせ、また大変に話題になったという。
 私が菅楯彦の作品を初めて観たのは、5年程前に「湯木美術館」であったと思う。
 その作品は軽妙洒脱な趣をもつ大和絵風の風俗画といったもので、「湯木美術館」のような小美術館にはピッタリで、挿絵にも適したものだが、そういった作品の特長は山田伸吉にも、また木村荘八にも当てはまる。
 ところで、菅楯彦は大阪の名誉市民第一号だったにもかかわらず、没後に遺族が作品を一括寄贈しようとしたところ、大阪市に拒絶されたということだ…。 と、前回に続いてまた大阪の悪口を書くはめになってしまった…。

 最後は、楯彦・八千代夫婦とも、また木村荘八とも交流のあった吉井勇の歌で閉めることにする。
 これらは、『随筆大阪』錦城出版社(昭和18年刊)の中で、「浪華抄」と題して、吉井勇が既出の<浪華をうたへる歌の中より、今なほ心に残れるもののみを>選んだ中からの2首である。

 
 筆取りて達磨大師の絵を描きぬ八千代が春の夜のたはむれ
 いまの世に在るべく惜しき絵だくみは浪速にひとり菅の楯彦

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# by suzu02tadao | 2012-07-19 15:45 | Comments(0)

陽気過ぎる大阪

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 1920年代のモダン大阪を探訪する『モダン・シティふたたび』(海野弘著)では、北尾鐐之助の『近代大阪』をはじめ、織田作之助、藤沢桓夫、宇野浩二などの当時の大阪を題材にした作品からの引用が多いが、画家でありながらも、谷崎潤一郎をして座談の名手と感嘆せしめた小出楢重の随筆からの引用も多い。

◇小出楢重「帽子をかぶった自画像」
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 小出楢重が生まれ育った島之内及び船場には、1920年代にはまだ伝統的な和風の商家が多く、実際に楢重が住んでいたのも和風の住宅で、かつて日本画家・北野恒富の住居だったという。
 このような中で、大阪にモダニズムはあるかと問いつづけ、まさに格闘しながら絵を描いたのであった。
 1921年にフランスに行ってから、楢重は生活様式を和風から洋風に一変させた。
 代表作のひとつであるこの「帽子をかぶった自画像」の背広姿は、そのような画家の立脚点を求めようとする決意の表明であったという。

 しかしながら、当時はそんな洋画を飾るべき空間もまだあらわれておらず、そこでまた楢重は悩むのであった。
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 今日からみれば、様式のごった煮のような建物も、モダニズムとの格闘の結果であり、また新しい時代へ踏み出すための啓蒙の現場でもあった。
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 『モダン・シティふたたび』の中でもふれているが、楢重は、モダン文化の特質を、毎年新しいものを求めて古いものを捨てていくものであるという。
 しかしながら、年輪によって磨かれて出てくるつやや、さびのようなもの…それを「新しき雅味」と呼び、
 <巴里(パリ)なぞにはこの新らしき雅味が至る処に存在する。それが巴里の羨やましい処で仏像を洗い落したような尖端は発祥しない。それが芸術家をして巴里の生活を憧れしめる重大な原因の一つでもあるといっていいかも知れない。>
と書いている。
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 楢重自身もモダン建築を見て歩くのが好きだったようだが、「西洋館漫歩」(『めでたき風景』)の中で、次のように書いており、私はとても共感してしまう。
 <近来大阪の都市風景は日々に改まりつつあり、新しき時代の構図を私は中之島を中心として、現れつつあるのを喜ぶけれども、同時に古き大阪のなつかしき情景が消滅してしまうのを惜むものである。
 私は本当の都市の美しさというものは汚いものを取り捨て、定規で予定通りに新しく造り上げた処にあるものでなく、幾代も幾代もの人間の心と力と必要とが重なり重なって、古きものの上に新しきものが積み重ねられて行く処に新開地ではない処の落着きとさびがある処の、すくい切れない味ある都市の美しさが現れて行くのだと思っている。
 私はそんな町を眺めながら味わいながら散歩するのが好きだ。>

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 <ところが学術、文芸、芸術とかいう類の多少憂鬱な仕事をやろうとするものにとっては、大阪はあまりに周囲がのんきすぎ、明る過ぎ、簡単であり、陽気過ぎるようでもある。簡単にいえば、気が散って勉強が出来ないのだ。>
「陽気過ぎる大阪」(『大切な雰囲気』)

◇小出楢重「六月の郊外風景」
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 結局、小出楢重は1926年に、当時まだ漁村であった面影を残す芦屋に、洋風の本格的なアトリエを建て、移住してしまうのであった。
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# by suzu02tadao | 2012-07-17 14:30 | Comments(0)