1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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「蒲田行進曲」

◇楽譜「蒲田行進曲」表紙:1929(昭和4)年
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 「蒲田行進曲」は、松竹キネマ蒲田撮影所の所歌で、映画「親父とその子」の主題歌として、1929(昭和4)年に発表され、同年8月、川崎豊と曽我直子のデュエットで、日本コロムビアからレコードが発売され流行歌となった。
 1982(昭和57)年、つかこうへいの小説を原作として大ヒットした同名の映画の主題歌(歌手:松坂慶子・風間杜夫・平田満)としてリバイバルされたものが有名で、JR蒲田駅では発車メロディとして使用している。

◇「蒲田行進曲」歌詞<唄 川崎豊/曽我直子 作詞:堀内敬三 作曲:R.Friml>

虹の都 光の港 キネマの天地
花の姿 春の匂い あふるるところ
カメラの眼に映る かりそめの恋にさえ
青春もゆる 生命(いのち)はおどる キネマの天地

胸を去らぬ 想い出ゆかし キネマの世界
セットの花と 輝くスター ほほえむところ
瞳の奥深く 焼き付けた面影の
消えて結ぶ 幻の国 キネマの世界

春の蒲田 花咲く蒲田 キネマの都
空に描く 白日の夢 あふるるところ
輝く緑さえ とこしえの憧れに
生くる蒲田 若き蒲田 キネマの都


【参考】蒲田行進曲 - YouTube

 さて、この楽譜の装丁デザインにあるように、当時のキネマ(映画)はモダンで華やかなあこがれの世界であったようだが、これは斎藤佳三ではなく、藤沢龍雄の作品である。

 藤沢龍雄(1893-1969)は、森永のエンゼルマークを考案したデザイナーとして知られており、人物画が得意で、キンダーブックなどの絵本画家としても活躍した。
 1926年には、当時第一線で活躍していた濱田増治、多田北烏、室田久良三とともに「商業美術家協会」を設立している。
 1920年代も後半になると、日本のグラフィックデザイン界も新たなる局面を迎えており、それまでは良くも悪くも欧米のデザインをいち早く取り入れて、それを消化することに懸命であったのだが、この頃より、「日本独自のモダン・デザイン」を目指しはじめたのだった。

 藤沢龍雄も、『現代商業美術全集(第2巻)実用ポスター図案集』(アルス、1928年刊)の中で、自身の作品を次のように解説している。

日本趣味を主題にしたポスター
 現時日本のポスターがことごとく西洋の模倣と解されている際、日本人が日本人の持つ味、及びその線なり色彩で表現しようと試みたのがこのポスターである。
~(略)~日本の版画と近代味の混和が、この作品の狙いどころである。化粧品、呉服店等のポスターもこの辺からソロソロ新しい作風を示して行ってもいいと思われる。

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各種実用ポスター四種
 応用の広い、そしてポスターとしては最も危な気のない定則的模範的なものとして、四種類を創作されたものである。縦長のポスターとして実用に向く点は多かろう。

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# by suzu02tadao | 2012-10-02 15:43 | Comments(0)

「浪花小唄」

◇楽譜「浪花小唄」表紙:1929(昭和4)年
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 「浪花小唄」は、この年の5月に発売された「東京行進曲」に続いて、6月にビクターレコードから発売されてヒットした曲で、その副題に「道頓堀夜景」とあり、またフレーズに「♪ テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ♪」とあるように道頓堀を歌った曲であり、同じ頃に流行った「♪ 赤い灯 青い灯 道頓堀の~♪」の「道頓堀行進曲」と共に長い間、大阪のテーマソングになっていた曲である。
 なお、最初に発売された二村定一盤と1ヶ月後に発売された藤本二三吉盤とでは歌詞が違っているが、男性版と女性版といったところのようである。

◇「浪花小唄」二村定一:歌詞

うつる灯(ほ)かげを ボートがくだく
可愛やこぼれる 片えくぼ
テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ

虹の灯(ひ)のまち 夜あかし雀
たもと たもとの 紅が散る
テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ

消えてまたつく 五色のあかり
男ごころを 知りゃせまい
テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ


【参考】浪花小唄 二村定一 - YouTube

◇「浪花小唄」藤本二三吉:歌詞

いとし糸ひく 雨よけ日よけ
かけた情を 知りゃせまい
テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ

燃えて火となれ 私のこころ
こがれこがれりゃ 火ともなる
テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ

恋のサイレン 何処までとどく
待てば思いも みなとどく
テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ

消えてまたつく 五色の灯り
女ごころを 知りゃせまい
テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ


【参考】浪花小唄 藤本二三吉 - YouTube

 二村定一も藤本二三吉も、この当時はビクターと専属契約を結んでおり、以前ここで紹介した「都会交響楽」もこの二人が歌っている。
 二村定一(ふたむら ていいち、1900-1948)は、昭和初期を代表する歌手・ボードビリアンで、歌手としては「浪花小唄」の他にも「君恋し」(戦後にフランク永井がカバーして大ヒットしたが、オリジナルはこちらです)など数多くのヒット曲があり、「東京行進曲」の佐藤千夜子とともに、日本の流行歌手のパイオニアといわれている。
 ボードビリアンとしても、川端康成の新聞小説『浅草紅団』で紹介された「カジノ・フォーリー」などで活躍した「エノケン」こと榎本健一と共演して、大人気を博したのだった。
 藤本二三吉(ふじもと ふみきち、1897-1976)は、「♪ 月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に~♪」の「祇園小唄」の歌手としても有名である。

 ところで、『浅草紅団』には、「浪花小唄」が出てくる場面があり、しかも、この小説の主人公ともいえる「弓子」の重要な言葉のある場面なので、それを紹介しておきたい。

 <「~私は女じゃないの。姉さんを見たんで子供ん時から、決して女にはなるまいと思ったの。そしたらほんとうに、男っていくじなしね、だれも私を女にしてくれないの。」
 ―――テナモンヤないかないか、道頓堀よ。
      虹の灯のまち、夜あかしすずめ・・・・・・・・
 と――オォケストラ・ボックスのジャズ・バンドよりも騒がしく、地下室のカジノ・フォウリイ直営食堂から、拡声蓄音機の「浪花小唄」が響いて来る。
 舞台は「ステッキ・ボォイ」の第四景「新宿駅プラット・フォウム」の場だ。~>

(水族館 十)より

 他に「都会交響楽」も登場しており、『浅草紅団』がいかに当時の風俗を詳細にルポしてできたものかが、うかがい知れるが、ここでは、大阪のご当地ソング「浪花小唄」が東京で流行の先端を行く浅草をも凌駕していたという事実だけにとどめておこう。
 実際、この頃は、大阪資本のカフェーが銀座をはじめ東京のいたるところに進出していた時代であったという。

 さて、この楽譜の装丁デザインは、サインは無いが斎藤佳三のものである。なお、『モダン道頓堀探検』(橋爪節也編)によると、別バージョンの表紙もあるようだ。
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 この曲が発売されたのと同じ頃、昭和4年5月25日発行の観光ガイドブック『大阪名所遊覧/栞』の中で、道頓堀は次のように紹介されている。 

 <華やかな心斎橋筋を南戎橋を渡って東に折れた所又は市電日本橋で下車南詰を西である。
 大阪随一の歓楽街である。先頃まで歌われた赤い灯、青い灯の道頓堀は二百数十年の伝統を受けた娯楽場で五座の櫓がずらりと軒を並べ他の地に於ける此種の娯楽場とはなんとなく趣きが違って居るので、昔よりその情景を喜ばれて居た。
 殊に近年カフェーの発展と共に、赤、青等色とりどりに飾られて宗右衛門町と櫓町と共にこのカフェーの灯火に彩られた川の面は、春の宵、夏の夕、なんとなく艶めかしい小波をたたえて、行く人の心をそそるのである。>


◇『大阪名所遊覧/栞』より
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# by suzu02tadao | 2012-09-29 14:00 | Comments(3)

四天王寺骨董市 <昭和レトロ・モダンに浸る>

 今回は楽譜の紹介は一休みにして、先日、「四天王寺骨董市」に行ってきたので、それについてレポートしてみようと思う。
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 数年振りの四天王寺骨董市だが、昔に比べると、出店数も六割ほどになり、規模はやや縮小されてはいるが、古本市とはまた別の面白さがあった。
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 だいたいが昭和時代頃の品ぞろえが多く、商品の展示というよりも、商品ディスプレイといったほうがいいくらいセンスの良い店が多くなっている。
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 1960年代と思われるアメリカのポスターや雑誌などを売っている店。
 こういうディスプレイ・センスには脱帽である。
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 「解剖台の上のミシンとコウモリ傘の出会い…」ではないが、どうしても雑多なものが混ざるため、いたる所でシュールな光景に出くわし、それを眺めるのもまた楽しい。
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 これも売り物か?と思ったら…消火栓だった。
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 こんな電気スタンドや、こんな本棚…昔々ありましたね…。おや?!これは温度計ではなくて「寒暖計」ですね…。
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 さて、本日の戦利品を、私がその昔、参考書とした雑誌『遊楽』(1996年2月号)「特集:魅惑のパッケージデザイン」の記事の上に並べてみた。
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 右手前から時計回りに説明すると…
 まず、鬼才といわれた片岡敏郎による広告が有名な戦前の「スモカ歯磨」。
 「タンゴドーラン」は戦前の大阪にあった宇野達之助商会の製品。私は以前から緑色のものを所有しており、他に赤色のものもあるようだ。
 国会議事堂の図柄の「アカネ歯磨」は今一つわからないが、陸海軍御用品とあるところから戦前のものであることは間違いない。
 「OCAP(オカップ)ホゝ紅」は戦前にあった平尾喜三郎商店の製品。
 最後はパケージではなく景品のようなもので、裏面は鏡になっており、回りをべっ甲柄のセルロイドで巻いてある。なお「カネヒラヤ」は今も健在のようだ…。

 これらのものは、均一台にある古本の値段では買えないが、出合う確率はウン万円もする稀覯本と同じ程度で、それを思えば安いものである…と自分を納得させる「貧好き」の私であった。

 この『遊楽』の記事によると、このような「パッケージデザイン」に力を入れるようになったのは大正時代の中頃からで、ことに化粧品については、女性の社会進出とともに、多数の製造販売会社から競うようにして売り出されたため、昭和初期頃のものには大胆なデザインのパッケージが多いのだという。

 さらに続けて、これらのパッケージデザインについては下記のように書かれている。
 <~みごとなまでの欧米的デザイン感覚の採用と、それにもかかわらず共存する日本的な情趣である。この二つの要素が無理なく融合し、独自のデザイン世界を創造している。~(略)~伝統的和模様と西洋的色彩が共存するわが国のラベルデザインには、まぎれもなく一昔前にわが国が達成したと幻想した「幸福な時代」の気分が反映されている。
 そして、この濃密な時代の気分こそが、これらのパッケージデザインにかぎりない魅惑と郷愁をもたらす。
 パッケージデザインは、商品とともに時代をも包装して後世に送り届けるタイムカプセルなのである。>


【追記】
 四天王寺の西大門の参道に裏側が面している「天王寺消防署元町出張所」もレトロな建物だが、建築年も設計者も不明のようだ…。
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# by suzu02tadao | 2012-09-26 14:00 | Comments(0)

「新東京行進曲」

◇楽譜「新東京行進曲」表紙:1930(昭和5)年
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 「新東京行進曲」は、前年にビクターレコードから発売されて、日本の映画主題歌の第1号となり25万枚を売上げる大ヒットとなった「東京行進曲」と同じコンビ、作詞:西条八十、作曲:中山晋平の作品である。
 ただし、歌手はこの年に渡欧した佐藤千夜子ではなくて、四家文子に替わっている。
 この曲も同名の日活映画の主題歌となったものだが、映画では戦後の1953年に公開された同名の松竹映画の方が有名のようだ。

◇「新東京行進曲」歌詞

(1)ネオンサインについ誘われて、今日も銀座のアスファルト、逢えば悩まし、逢わねば悲し、恋と思案のカクテール

(2)恋の東京、幹線道路、会って別れる交叉点、右が一号、左が二号、通るあの妓(こ)もまた二号

(3)名さえ賑わし、あの神楽坂、こよい寅毘沙、人の波、可愛い雛妓(おしゃく)と袖すり交(かわ)しゃ、買った植木の花が散る

(4)昨日チャンバラ、今日エロレヴュー、モダン浅草ナンセンス、ジャズが渦まく、あの脚線美、投げるイットで日が暮れる


 「東京行進曲」の大ヒットに気をよくして、企画されたもののようだが、やはり、二匹目のドジョウはいなかったようで、映画ともどもあまりヒットしなかったようだ。
 もっとも、この頃には「東京行進曲」の歌詞で、「♪ 昔恋しい 銀座の柳 仇な年増を 誰が知ろ~♪」とあるように、銀座の柳は関東大震災で焼失して無く、「東京行進曲」のヒットにより復活したのを記念して、1932(昭和7)年にレコードが発売されヒットした「銀座の柳」を四家文子が歌っている。

 「東京行進曲」も「新東京行進曲」、どちらも楽譜は斎藤佳三の装丁デザインであるが、先に発売された「東京行進曲」が、未来派あるいは構成派的な絵であるのに対して、「新東京行進曲」は和装の美人画風になっている。
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 ここで、西條八十(さいじょう やそ、1892 - 1970)について、少しふれておきたい。
 西條八十が、本格的に歌謡曲を書き始めたのは、この「東京行進曲」からであるが、その他に、戦前では「侍ニッポン」「銀座の柳」「旅の夜風」「誰か故郷を思わざる」「蘇州夜曲」など、戦後には「悲しき竹笛」「青い山脈」「王将」など無数のヒット曲を書いた。
 一方でボードレールなどの研究者としても有名で、戦前は早大仏文学科教授であった。
 また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。金子みすゞを最初に見出したのも西條八十だという。

 私なぞは、森村誠一原作の角川映画『人間の証明』の有名なキャッチコピー、
 <母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
 ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
 谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ…>

西條八十作の詩『帽子』の冒頭部分を思い出すのであった。
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# by suzu02tadao | 2012-09-24 11:20 | Comments(0)

「都会交響楽」

◇楽譜「都会交響楽」表紙:1929(昭和4)年
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 この楽譜も斎藤佳三の装丁デザインで、同名の日活映画の主題歌となったもので、作詞も西条八十である。

◇「都会交響楽」歌詞
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 歌詞の内容だが…、なんと、1番の歌い出しから<おれはブル(ブルジョア)だよ 葉巻のけむり ~>ときて、2番は<おれはプロ(プロレタリア)だよ 菜っ葉の服よ ~>となっている。また女性の歌のパートでは、ウェイトレスやマネキン娘といった典型的なモダンガールを登場させている。
 当時はブルジョアやプロレタリアという言葉も、政治的と言うよりは、風俗としてとらえられていた感がある。事実、この曲が作られた1929(昭和4)年頃になると軽薄なモボ・モガに代わってインテリぶったマルクス・ボーイと呼ばれる人種が氾濫してきたようである。

 なお、「都会交響楽」の1・2番はYouTubeで聴くことができる。
【参考】都会交響楽 二村定一・青木晴子 - YouTube

 ところで、映画「都会交響楽」は溝口健二監督のいわゆる傾向映画と呼ばれる、社会の矛盾を訴える内容のプロレタリア映画ということであるが、原作は「Wikipedia」によると
 <新感覚派からプロレタリア文学に転向したばかりの片岡鉄兵、モダニズム文学の作家、浅原六朗、当時はプロレタリア作家であった林房雄、新興芸術派の作家、岡田三郎の4人>ということで、当時の注目を浴びていた作家を、傾向とは関係なく集めましたという感じがしないでもない。
 これは西条八十の歌詞にある、当時の都会の風俗をとりあえず、あれもこれも取り入れましたといった感じと共通するものである。
 だから「都会交響楽」という題名なのだと言われればどうしようもないのだが…。
 ある意味で、この混沌とした内容そのものが、当時の状況を表しているのかもしれない。

 例えば、『歩きつづける男』(改造社、1930年刊)は、後に発禁になるプロレタリア小説なのだが、当時の片岡鉄兵は、1980年代のバブル時代のDCブランドを思わせる服を身につけているような姿で、なにかちぐはぐな印象を受ける。
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 このように、混乱した時代のめくるめく都会の現実を、名匠溝口健二がどのように描いたのか観てみたいのだが、残念なことに、この映画の上映用フィルムはどこにも保存されておらず、現状、観賞することの不可能な作品であるということだ…。

 なお、この映画の元になったヴァルター・ルットマン監督のドイツ映画『伯林 大都会交響楽』は、ドキュメンタリー画面のモンタージュによって、大都会ベルリンの姿をリズミカルに描いた前衛作品である。
 海野弘は、1930年に出版された、東京を描いた文学のアンソロジー『モダン TOKYO 円舞曲』に収められている龍胆寺雄「甃路(ペエヴメント)スナップ」は映画『伯林 大都会交響楽』から影響を受けているようだと書いている。

 ところで、前回とりあげた群司次郎正の小説『ミス・ニッポン』の装丁は村山知義なのだが、村山知義は時代の最先端を行く前衛芸術家で、またファッション・リーダーでもあり、そのお河童頭がトレードマークであった。

 一時期プロレタリア作家であった藤沢桓夫が、村山知義に出会ったエピソードを交えて、当時のことを書いているのでそれを紹介してみたい。

 藤沢桓夫は大学生の時、下宿の近くの郵便局で偶然に、左傾化する前のお河童頭の村山知義に出会ったのだが、その当時は友人で詩人の小野十三郎や、龍胆寺雄が天才と評価した小説家の久野豊彦なども、お河童頭をしており、また親友の武田麟太郎は、それどころか無精髭に長髪という後のヒッピーのような姿をしていたということで、その当時の東京ではお河童頭の文学者や芸術家の青年はめずらしくなかったという。
 <その頃はプロレタリア文学の台頭の前夜に当り、敏感な若い文学志望者たちは、ブルジョア文学の歴史的な崩壊の過程で、思想的に動揺し、混乱し、苦悩していた。その苦悩の姿は、未来派、立体派、表現主義、ダダイズム、構成主義、等々の形で現れ、活字をわざと逆様にしたり、大小さまざまの活字の入れ混った詩や小説が書かれたりした。
 お河童頭も、所詮は、新しい形式への足掻きの、一つの日常的な現れであったかも知れぬ。同じ苦悩から、私はそれまで楽々と書けた小説が少しも書けなくなって来ていた。労農党が結成され、日本のプロレタリアートはようやく自己の巨大な姿を歴史の場面に押し出して来ていた。~>

「青春」(『大阪手帖』)より

 「都会交響楽」がつくられた1929(昭和4)年は世界恐慌がはじまった年でもある…。
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# by suzu02tadao | 2012-09-21 09:00 | Comments(2)