1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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船場モダン漫歩

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 前回も少しふれたように、多くのモダン建築が、大阪・北浜の近くの船場界隈には今も生きていて、この街を歩くと、いきなり北尾鐐之助が著した『近代大阪』【1932(昭和7)年刊】の世界にタイムスリップしてしまう…。
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 <船場の中でも、北方の中之島に接する北浜から、今橋、高麗橋にかけての一角は、昔の金相場、秤(はかり)座、両替店などの名残りが、銀行、ビルブローカー、交信所などの大建築物となって、船場というよりも、大阪の町の中で、最も力強い、立派な近代都市の建築層をつくり出してゐる。中之島-北浜、-堺筋、-高麗橋、南北線-この一画は、大阪における大建築物の集合するところとして、恐らく代表的なものであらう。
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 冬の日の晴れた朝など、この辺を歩いてゐると、掃き清められたコンクリートの道路には、冷え冷えと美しく水が打たれ、建物が高く町並が狭いので、日がまだ上の方より照らさず、ところどころビルディングの一角から、まぶしい朝の光が、片側の石壁に細くスポットライトのように落ちる。そんなところには、胴着にすっぽりと幼児を背負った子守女などが、日向ぼこをしてゐる。その前をポケットに両手を突込みながら、白い息を吐き散らして、靴音高く歩いて行く若い会社員や、タイピストの群れをみてゐると、何かしら身内の引しまるやうな気がする。>
 子守女以外は、現在の風景とほとんど変わりない。…いや、角を曲がったら、子守女と出会いそうな気分になってくる…。

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 今も残る建物のディテール、あるいは目の前にある情景とほとんど同じものを、北尾鐐之助も見ていたはずなのだ…。
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 もともとこの辺りは商家がたち並んでいた所で、和風モダンな洒落た店も目につく。
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 当初、「資生堂」が入っていた「高麗橋野村ビルディング」に、今では「サンマルクカフェ」が入っているように、ここにあるモダン建築は国や大阪府の登録有形文化財に指定されていても、現在もオフィスや飲食店などとして機能している…つまりは、生きているものばかりなのだ。
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 さながら、ここは街全体がモダン建築の美術館といえる。
 今、大阪には近代美術館は無いが、いっそのこと、この街全体を絵画などのアートやデザインを含めた近代美術館にしてしまえばおもしろい…などと勝手に思うのであった…。
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# by suzu02tadao | 2012-07-14 13:30 | Comments(0)

「丹平ハウス」…そして「丹平ビル」

◇「丹平商会」社員用NOTE BOOK【1926(大正15)年】
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 丹平商会(現・丹平製薬)は、1894 (明治27)年の創業で、「健のう丸」、「今治水」、「アスター軟膏」などの長年にわたって発売され続ける医薬品を取り扱っている会社で、これは当時(1926年)の社員用手帳のようだ。
 表紙の女性の絵は赤松麟作(1878-1953)のものではないかと思う…
 この手帳にも載っている大阪・心斎橋2丁目にあった「丹平ハウス」は、1924年にできており、1階にハイカラな喫茶ソーダファウンテンがあり、階上には赤松麟作の「赤松洋画研究所」があって、佐伯祐三などもここで学んでいる。
 また、他には上田備山や安井仲治が参加した「丹平写真倶楽部」があり、手塚治虫の父である手塚粲もここの会員であった。
 このように「丹平ハウス」は当時の先端的な文化スポットであった。

◇「丹平ハウス」
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◇「丹平商会」社員用NOTE BOOK 見開き
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 大阪・北浜の近くの船場にはモダン建築が現在も多く残っており、2年前、この辺りをうろうろとしていた時に、見つけたのが「丹平ビル」だった。
 先日、久しぶりに行ってみると、なんと!ビルは跡形も無くなくなっていて、更地にクレーン車が入っており、マンション建設中となっているのだった…
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 すでに、昨年の秋には取り壊されることが決まっていたようだ…
【参考】BMC丹平ビルお別れ会
    「丹平ビルお別れ会」

 1957年築で、ヴォーリズ事務所の設計…知らなかった。
 1950~60年代のモダン建築は取り壊されるものが多いようだが、残念なことだ…

◇「丹平ビル」(2年前に撮影)
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◇「丹平ビル」(2年前に撮影)
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# by suzu02tadao | 2012-07-11 10:30 | Comments(0)

モダン TOKYO 案内

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 アール・デコ調のモダンなデザインの「TOKYO 案内」。
 おそらく、1935(昭和10)年頃のものだと思われるが、なんと!発行は東京市役所内にあった東京市設案内所となっている。
 1920~30年代については、復興小学校や逓信省の建物など、公的なものでも、建築ではモダンなものが少なくないが、当時の東京市役所もなかなかやるもんだ…と思ってしまう。

◇見開きA-1
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◇見開きA-2
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◇見開きB-1
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◇見開きB-2
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 まるで、ルネ・ラリック(1860 - 1945)作の東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)【1933(昭和8)年】の客室扉を思わせるデザインである。
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 内容は、
 <~日本帝国の興隆を反映して伸びゆく我等の帝都は、世界のメトロポリスとして、輝かしい将来へ力強く踏み出したのであります。
 そびえ立つ巨大なビルディング、坦々たる舗装路、完備せる交通機関、あらゆる近代的都市施設をもつ東京は、一方また古代文化を代表すべき数多の名所旧跡を擁しております。近代と古代、新しきものと古きもの、これらの対称的な美を、渾然たる調和の裡に包含しているのが東京のもつ最大の魅力でしょう。>

 と当時の東京を紹介している。
 最後は案内所の紹介で終っており、案内所で無料で配布されていたもののようだ。

 そして、この全体のアール・デコ調のデザインだけでなく、表紙の「二重橋」をはじめ掲載されている写真も、当時の写真表現の新潮流であった「新興写真」的な表現になっている。
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 雑誌『主婦之友』【1932(昭和7)年9月号】の附録の絵ハガキにも、やはり同じように「新興写真」的な表現のものがある。
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【参考】「新興写真」の代表的な作家である堀野正雄(1907 - 1998)の作品
「鉄橋」(1932年)
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# by suzu02tadao | 2012-07-08 08:30 | Comments(0)

『 ニコニコ 』-第35号-

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 最初、ヤフオクでこの雑誌『ニコニコ』を見た時、何だこれは?と思い、【ニコニコ】でググっても、ニコニコ動画ぐらいしかヒットせず、よく分からないままに、表紙の絵がなかなかこなれていて気に入ったので、とりあえず入札したら、なんとも、初値200円のままで私の所有するところとなった…。
 『ニコニコ』(第35号)は1913年(大正2年)12月1日発行で、表紙は平福百穂のものだが、その内容は、開けてびっくり玉手箱…ではないけれど、いやはや、これが大変に楽しめるものだった。

 まず、松井すま子(須磨子)の思い出日記(一)。これは須磨子の唯一の著書、翌年(1914年)に発刊された『牡丹刷毛』にも収録されている。
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 須磨子の文章はやや独りよがりなところがあり、分かりにくいが、彼女の非常に一途な性格がよく表われているものではある。

 松井須磨子の思い出日記(一)の前には、福澤諭吉の養子となり、「日本の電力王」と言われた福澤桃介(ふくざわ ももすけ、1868 - 1938)が記事を書いており、「来るべき人気役者」として松井須磨子をとりあげている。
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 須磨子は洋服の似合う体格をしていると褒めた後、<~それから、須磨子の顔だが、あの顔は素顔で見る時は一向感服した顔でないが、一度化粧をほどこして舞台に現れると、実に美しい顔になる、~それに声もよい、鼻に抜ける気味はあるが、まずいい声といって差支えない、~今後の問題の女は、まず第一に須磨子というところであろうと思う、~>と評価する一方で、
 その後、1920年頃より同居して夫婦同然の生活を始めることになる川上貞奴については、<日本で有名であるのみならず、世界的に名声を博して居る。~しかし~、どちらかというともう下り坂である。盛りを過ぎた姥桜だ、~>と書いていて、思わず…ほんまかいな!と、つっ込みたくなる。

【下図】村田嘉久子(1893 - 1969)は、帝劇女優。帝劇閉鎖後は松竹の新派に加入し、歌舞伎劇や女優劇で活躍した。
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 すでに、この時点では須磨子と島村抱月との恋愛が問題とされ、文芸協会を脱退して、抱月と芸術座を旗揚げしており、
「文芸笑話 -バドボーイ記-」というコラムには、先生一寸……という題で
 <~何とか旅館へ泊り込んだある日の事、謹厳なる抱月先生、フロックコートで廊下を通っていると、どこからか女の声で「先生、ちょっと……」と呼ぶものがある。見回したところ誰もいない。するとまた声がするので、よく見ると便所の中から聞こえてくる。「何ですか?」と聞くと、「先生、紙…紙!」 抱月先生落着きはらって「少しお待ちなさい」
 この中にいたのは誰だか知ってるかね。道理で臭いなどとは古いゝ。~>
といった有名なエピソードも載っている。
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 また同コラムには、夏目漱石(1867 - 1916)も登場しており、そうか、大正2年には、漱石先生もまだ生きていたんだ…と改めて感慨にふけるのであった…。
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 さて、私はあまり興味はないのだが、この号の『ニコニコ』で一番の特集記事は、超心理学者として念写・透視などの実験や学会発表を行って、激しい非難を受け、この年(1913年)に東京帝国大学を追放された福来友吉(1869 - 1952)の「余と千里眼問題」及び「念写と透視」であろうと思われる。
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 「ニコニコ倶楽部」の幹部役員として、『ニコニコ』の編集主任の松永敏太郎と共に編集顧問として福来友吉も名を連ねており、「ニコニコ主義」をモットーにした不動貯金銀行(現在のりそな銀行)創業者で、雑誌『ニコニコ』の生みの親である牧野元次郎(1874 - 1943)も、冒頭で福来友吉の研究を擁護する記事を書いている。
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 他にも興味をそそられる記事はいろいろあるのだが、「読者文芸欄」短歌の選者・吉井勇の句と、「京都に於ける吉井勇氏 長田幹彦氏の発展通信」という訳のわからない色紙を紹介しておく。

 宇治にて
月夜よし寝じなと云ひし君がため宇治のひと夜は忘れがたかり
ことさらに君にそむきてわれひとり宇治の河原におもひ草摘む 

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【おまけ:蓄音器の広告】踊るビリケン…背後には大仏!?
(中国が清国となっていますが、1912年に清国はなくなっています。)
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# by suzu02tadao | 2012-07-04 18:20 | Comments(0)

「パヴロバ舞踊音楽大会」

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 エリアナ・パヴロバ(Eliana Pavlova 1899 - 1941)は日本にバレエを根づかせた最初の人物として知られている。
 私がパヴロバを知ったのは昨年の事で、例によって、掲載されている広告(下図)に魅せられて、この「パヴロバ舞踊音楽大会」のパンフレットを手に入れてからだ。
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 エリアナ・パヴロバが日本バレエの母と呼ばれるのは、1927(昭和2)年、鎌倉でバレエ教室を開設して、東勇作、橘秋子、貝谷八百子、近藤玲子、大滝愛子、島田廣らの、今日のバレエ・ブームと言われる日本のバレエ界の基礎を築いた人々を育てたからで、それ以前のパヴロバについてはあまり資料は残っていないらしい。

◇「パヴロバ舞踊音楽大会」より
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 この「パヴロバ舞踊音楽大会」は1923年7月の公演のもので、エリアナ・パヴロバと妹?のナデジタ・パブロバの他には、芝麗子、瀬川光子、瀬川正子、春野芳子、深澤君男らが出演しており、なんと、後に日本を代表するオペラ歌手となった藤原義江(1898 - 1976)も出演している!
 ※藤原義江はこの年の4月10日に帰国したばかりで、5月6日には「帰朝第1回独唱会」を開催して大成功している。

◇ナデジタ・パブロバ嬢
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<ナデジタ・パブロバ嬢はエリアナ・パヴロバ嬢の愛妹にして、エリアナ嬢とともに舞踊の名手なり、特にジャズダンス、チャールストン、ステップ等を得意とす。>

◇エリアナ・パヴロバ嬢
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<世界的露国名舞踊家としてのエリアナ・パヴロバ嬢は、幼少の頃から天才的芸術家として前露国帝室技術員の栄職にあり、我が国に来朝して以来、専ら舞踊教授に数多の舞踊家を養成し、現に「パヴロバ高等舞踊研究所」を開き舞踊の教授をしている。>

◇パヴロバ高等舞踊研究所
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 「パヴロバ高等舞踊研究所」の案内で、住所は<東京市赤坂区榎坂町二番地>となっているが、この東京・赤坂にあった「パヴロバ高等舞踊研究所」については、エリアナ・パヴロバについて書かれた様々な資料をあたってみたが、よく分からなかった。
 しかし、よく見ると、案内の中に、舞踊教授(九月一日開始)とあり、アッと気がついた…。1923(大正12)年9月1日は関東大震災が起こった日だった!
 つまりは、教室を始めたその日に被災したというわけだ…。

 関東大震災で被災したエリアナ・パヴロバだが、松竹座とも関係が深く、その後、創成期の大阪松竹楽劇部の指導も行った。
 あの飛鳥明子もエリアナ・パヴロバから多くを学んだといわれる。

◇「松竹座ニュース」【5/22~5/28】〔浅草/新宿〕1930(昭和5)年より
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<エリアナ・パヴロバ嬢は、来朝以来既に数年の間、日本の芸術魅惑に誘われて親しく我が国で舞踊研究にいそしむ熱情的な芸術家であります。その間、かつてはわが大阪松竹楽劇部にあって教鞭をとられた事もありました。嬢が優婉の特技たる瀕死の白鳥こそは、本格的な舞踊芸術の陶酔と感激とにわれわれを魅惑するでありましょう。>
と紹介されている。

◇「松竹座ニュース」【5/22~5/28】〔浅草/新宿〕1930(昭和5)年表紙
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# by suzu02tadao | 2012-07-02 09:40 | Comments(0)