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1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
by 大阪モダン
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<御園石鹸> 伊東胡蝶園

◇「御園石鹸」化粧箱(缶)
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 前回、佐野繁次郎が伊東胡蝶園で「パピリオ」の商品デザインを引き受けたのは、1935(昭和10)年からだと書いたが、上図は、それ以前の「御園」ブランドのもの…。

 伊東胡蝶園は、明治時代に日本で初めて、純無鉛で健康に害のない「御園白粉」を製造・販売した会社で、「白粉の御園」は、「歯磨のライオン」(小林富次郎商店)、「クリームのレート」(平尾賛平商店)、「クラブの洗粉」(中山太陽堂)とならぶ化粧品業界では「明治の四大覇者」と呼ばれたという。

 昔から石鹸は盆暮の主要な贈答品であったようで、これらのものは贈答用の化粧箱(缶)だが、上図の真中のものは『日本のアールデコ』(末續堯著、1999年刊)でも紹介されている。
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 <御園はおそらく1910年代のバルビエのファッション画からヒントを得たものと思われる。缶の周囲にはバイオリン、楽譜、ステッキ、花束、テニスラケット、市松模様のハンドバッグ、ゴルフバッグ、ファッション傘、つばの広い帽子が描かれており、大変ロマンティックだ。これなら女性も購買意欲をそそられる。>
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 ここで、バルビエとはジョルジュ・バルビエ(George Barbier、1882-1932)のことで、アールデコ様式を代表するフランスのイラストレーターである。
【参考】George Barbier Gallery (ジョルジュ・バルビエ・ギャラリー)

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 『日本のアールデコ』は、日本のアールデコについて初めてまとめられた本で、末續氏はこの本の中で次のように述べている…。

 <日本のアールデコは、単なる西洋もののコピイであるという考え方が、市場では支配的であったように思う。日本から戦前に輸出された日本のアールデコが、欧米の店頭やオークションでどのような価格で取引されているかを知れば、愕然とするに違いないのだが・・・・・。>

 <~アールデコの桧舞台であった1920、30年代は既に古典の領域に入るものでもあるし、1950、60年代の作品ですら欧米ではミューゼアムピースの世界に入りつつある現実を、我々は直視しなければならないのではないだろうか。>

# by suzu02tadao | 2012-10-29 15:30

『銀座百点』~佐野繁次郎

◇『銀座百点 No.37』 1958年1月号(表/裏)
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 『洋酒天国』、『あまカラ』 とくれば、当然、『銀座百点』をとりあげなければならない…。
 実際、『銀座百点』の創刊号には「大阪に『あまカラ』という気のきいた雑誌があり、本誌もスタイルはそれにならいました。」(編集夜話)との一文があるという。
 『銀座百点』については、私は佐野繁次郎の独特の手書き文字が気に入って手に入れた、上図のやや傷みのはげしいものしか所有していない。

 佐野繁次郎による装幀本は数多くあり、そのデザインにはファンも多く、数年前にもコレクターによる『佐野繁次郎装幀集成』という本も刊行されているくらいだが、私が佐野繁次郎(1900-1987)に興味をもったのは、例によってパッケージ・デザインからであった…。

 もう15年程前の大阪は老松古美術祭、伝説の店「あぜくら」で、以前に紹介した骨董雑誌『遊楽』にも掲載されていた、古いパッケージのちょっとした出物を購入した際、値切る代わりに、下図(手前)の化粧品「パピリオ」のパッケージをお願いして付けてもらったのだった。
 見てのとおりのモダンなデザインで、その際、「あぜくら」のオヤジも、「あれ!?…、これは戦前か…、それにしては垢ぬけてるなぁ、うん、まあ、いいよ…」と言っていたのを覚えている。
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 その後、2005年に改装される前の東京ステーションギャラリーで開催された展覧会で、はじめて私は、佐野繁次郎の活動(絵、装幀、デザイン)の全貌を知ったのだった。
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 この時の展覧会図録によると、佐野繁次郎が当時の伊東胡蝶園で「パピリオ」の商品デザインを引き受けたのは、1935(昭和10)年からで、その斬新なデザインで一躍有名ブランドへと押し上げ、佐野自らも重役を務め、低迷していた会社を一気に盛り立てたという。
 当時、「パピリオ」の宣伝部にいた花森安治が、『暮らしの手帖』の誌面のキーとなった、手書き文字で顧客に語りかけるスタイルを佐野から受け継いだことは有名な話である。

 佐野繁次郎はもともと大阪・船場の生まれで、画家を志したのは、十代の頃からの知り合いであった佐伯祐三(1898-1928)の影響であった。

 佐伯が亡くなった翌年、佐野は佐伯祐三の絵について次のように語っている。
 <佐伯の繪には僕は豫てから音楽を感じてゐる。が、それはリズムといふ言葉では言ひたくない。音楽とリズムは放せない。が、佐伯はリズムある音楽といふより音だ。一つ一つのところから放つてゐるたまらない美音だ>

 そして、大阪の信濃橋洋画研究所では小出楢重(1887-1931)に師事することになる…。
 <小出氏は、その本式の方の仕事、油絵からいつても、日本洋画中、僕の最も尊敬する人の一人だ。~あんな大したくせをもつてゐて、そしてそれで本格をあすこまでに築いてしまつた作家、-即ち、よそにはない、ヨーロッパのどこにもあんなのはない、~僕は、絵は、その自分のくせをこめて、~それを本格にもつてゆく仕事でなきや嘘だと思つてゐる。>

 さて、下図の新生社の雑誌『女性』(1946年8月号)の表紙も佐野繁次郎であるが、人物の頭をカットするという大胆で斬新なレイアウトが異彩を放っている。
 また、「墨のデッサン」と題して(1)足をふく女、(2)着物をきんとする女、(3)荷物背負う女と、3ページにわたって作品が巻頭を飾っており、さらには、菊地寛の連載小説「瓶中の處女」のカットも描いていて、まさに「サノシゲ」ワールドのオンパレードになっているのだった。

◇雑誌『女性』 1946年8月号(表紙)
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◇「墨のデッサン」(1)足をふく女
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◇「瓶中の處女」
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 なお、この雑誌『女性』については、藤沢桓夫「君に告げん」(宮田重雄画)や小島政二郎「六月雪」(岩田専太郎画)も載っているなど、他にもいろいろと楽しめる内容になっている…。
# by suzu02tadao | 2012-10-26 14:44

『あまカラ』

◇『あまカラ No.54』 1956年2月号
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◇『あまカラ No.84』 1958年8月号
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 前回、『洋酒天国』をとりあげたので、その流れで『あまカラ』をとりあげたのだが、私がこの2冊を購入したのは、藤沢桓夫が執筆した「きつねうどん」と「野暮な酒」が、それぞれに掲載されていたからで、これらは後に随筆集『大阪 我がふるさとの』(1961年刊)の中に収められている。

 1951(昭和26)年8月に創刊された『あまカラ』は、1968(昭和43)年5月まで17年間にわたって、大阪・甘辛社から毎月5日に発行された月刊誌で、鶴屋八幡をスポンサーに持つ広報誌でありながら、執筆陣の豪華さ、内容のレベルは“広報誌”の域を超えており、『洋酒天国』と同じように、当時のこのような雑誌文化の豊かさを見せ付けている。

 モダンで洒落た表紙は、編集の中心人物であった大久保恒次(1897-1983)の装丁デザイン。
 大久保は関西の食通として有名で、『上方たべもの散歩』『うまいもん巡礼』」などの著作があり、今でいうフードコーディネーターの先駆けでもあった。

◇『あまカラ No.84』 目次
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 ここで装画を担当している山内金三郎(1886-1966)の経歴がおもしろい。
 大阪で生まれ、画業を志して上京し、小林古径、前田青邨、奥村土牛を輩出した梶田半古の門下となり、東京美術学校日本画専科に入学し、卒業後は大阪に戻り、大津絵、泥絵、絵馬、ガラス絵、郷土玩具などを扱う「吾八」を開店。画家としても文展に入選しているが、その後、この「吾八」の馴染みの客であった阪急百貨店の小林一三に招かれて、美術部の月刊PR雑誌『阪急美術』の編集長や古書店「梅田書房」のオーナーとしても活躍した。
 この「梅田書房」にいた廣岡利一が独立して開業したのが、美術古書籍及び美術工芸品を扱う「りーち」(現:株式会社リーチアート)で、私は昔から、梅田「阪急古書のまち」にあるこの店や兄弟店ともいえるギャラリーヒロオカをよく利用していたので、とても身近に感じるのであった…。

 この雑誌で長期連載されて好評を博した「食いしん坊」を書いた小島政二郎(1894-1994)は、1920年には『三田文学』編集委員になり、芥川竜之介、菊池寛らと交流し、また戦前から直木賞・芥川賞の選考委員になった小説家で、大正から昭和の文壇史に精通しており、この連載の中にも芥川や菊池など当時活躍した小説家がよく登場する。

 「食書ノート」の古川緑波(1903-1961)は、恰幅の良い体格にロイド眼鏡の丸顔がトレードマークで、昭和前期に「エノケン・ロッパ」と、同時期に活躍した榎本健一と並び称されて人気を争ったコメディアンだが、大の美食家でもあった。
 ちょうど、『あまカラ』に執筆していた時期は、持病の糖尿病の悪化に加え、あらたに結核を患い、体調の悪化と戦いながら活動していた時期であったが、「食」への飽くなき追求は衰えることなく、結局、亡くなる2年前の『あまカラ No.89』まで連載している。

 この『あまカラ No.84』の執筆陣を見ても実に多彩であるが、この他にも、吉田健一、戸塚文子、福島慶子、谷内六郎、幸田文、森田たまなど、食べもの随筆では定評のある豪華な執筆者がずらりと連なっていたのであった。
# by suzu02tadao | 2012-10-24 10:26

『洋酒天国』 1956年

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 前回とりあげた、1957(昭和32)年発行の『関西芸術座 No.3』をながめているうちに、同じ時期に発刊されていた『洋酒天国』のことを思い出した…。

 『洋酒天国』は、1956(昭和31)年4月、壽屋(現在のサントリー)から創刊された広報誌で創刊者は開高健、坂根進、柳原良平の3人。
 編集兼発行人は芥川賞作家となる開高健(1930-1989)で、後には直木賞作家となる山口瞳(1926-1995)が加わったことはよく知られている。

 家にあったものを取り出してきてみたが、「洋酒天国」のタイトル・ロゴは、なんと!これもまた早川良雄のデザインであり、なるほど、独特の手描き文字はまさにうってつけで…アートディレクター・坂根進のセンスがここにも光っていたのだった。

 今回とりあげたのは1956(昭和31)年6月発行の第3号で、表紙は、最近もトリスハイボールのCMでよく見かけるアンクル・トリスの生みの親・柳原良平のペーパークラフト作品、扉および本文のカットは坂根進が担当しており、ご覧のように、下図の豪華な執筆陣を見ただけでも、ほろ酔い気分になってくる…。
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 主な執筆者では…、まず、薩摩治郎八(1901-1976)は、1920年代にパリに渡り、華やかな社交界に君臨し、藤田嗣治など当時パリで活躍していた日本人芸術家を支援したほか、美術や音楽、演劇などの文化後援に惜しみなく私財を投じて、今にすれば約600億円を使うというその華麗で洒落た浪費ぶりから「バロン・サツマ」と呼ばれた人物である。
 この号より連載の「おとぼけ回想記」は本人曰く、そのパリ時代の酒についての、ウラみ、ツラみ、懐かしさを綴ったものであるそうな…。

 早川雪洲(1886-1973)は、日本人としてもっとも早い時代に国際的に活躍した映画俳優で、当初アメリカでスターダムに伸し上がり、第一次世界大戦後には、アメリカ国内のみならず世界的にも絶大な人気を誇った。第二次世界大戦中にはパリに居り、この頃同じくパリに住んでいた薩摩治郎八とも親交を持った。
 <飲み道楽である私は、海外生活四十年にわたって殆んど世界各国の酒を飲み歩いた。~>で始まる国際派俳優のウンチクは、当時はとても魅力的だったのではないかと思われる。

 春山行夫(1902-1994)は、最先端のモダニズム詩人、あるいは「セルパン」などでは編集者としても活動し、ヨーロッパの最新美術やシュルレアリスムの紹介にも力を入れた日本の初期現代詩運動の中心人物、オーガナイザーであり、『洋酒天国』の代表的な執筆者の一人である。

 双葉十三郎(1910-2009)は、淀川長治と並び称される映画評論家であり、またレイモンド・チャンドラーなど探偵小説の翻訳や評論により、戦後の日本にアメリカのハードボイルド小説をいち早く紹介した第一人者でもあった。
 ところで、早川雪洲もそうなのだが、アメリカのバーボン・ウィスキーのことをバーバンと表記しているところが時代を感じさせるが、それはそれで渋味を感じる。

 洋画家の三岸節子(1905-1999)は、戦前のモダニズムを代表する画家で夭折した三岸好太郎(1903-1934年)の妻であり、1939年より新制作派協会会員となっている。

 前回にこのブログでもふれた下着デザイナーの鴨居羊子(1925-1991)もイラストと文を載せている。
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 林龍作(1897-1960)はヴァイオリニストで、パリに留学した際には画家の佐伯祐三とも親しく交わっており、ここでは「西洋骨董巡礼」と題して、佐伯祐三が買ってきた「煙草壺」等について書いている。
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 なお、佐伯祐三の作品「オプセルヴァトワール附近」は、林龍作がその当時住んでいたホテル・ボーヴォワール6階52号室から見える風景を描いており、その部屋からの眺めが気に入った佐伯が、林に頼んで部屋の一画を借り、この作品を描いたということで、二人の親交の深さがうかがい知れる。

◇佐伯祐三「オプセルヴァトワール附近」
  1927(昭和2)年 (和歌山県立近代美術館蔵)
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 執筆者について書きだすと、どんどん脱線して『洋酒天国』から離れていくので、この辺で止めておこう…。

 さて、『洋酒天国』は創刊当初の発行部数は2万部程度に過ぎなかったが、宣伝臭の無い洒脱な内容が人気を集め、最盛期には発行部数20万部を誇り、1963年1月に第61号で休刊した。
 その後、日本は高度経済成長期を迎え、またバブル時代を経て、ワインやウィスキーなどの洋酒はこの当時に比べればとても身近なものとなり、国際的なソムリエコンクールでは日本人の優勝者まで出すようになったが、現在でも『洋酒天国』を楽しく読めるのは、それぞれが洗練されたユーモアと遊び心に満ちた内容になっているからなのだろう。
# by suzu02tadao | 2012-10-20 15:37

『関西芸術座 No.3』 1957年

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 この冊子も、四天王寺の古本祭りで見つけたもので、早川良雄がデザインしたパンフレットと同じ均一台にあったものだ。
 表紙の絵に魅かれて確認してみると、なんと意外にも作者は鴨居玲(かもい れい)であった。

 鴨居玲(1928-85)は、北国毎日新聞記者であった父親の赴任地・金沢(一説によると大阪)で生まれ、金沢、ソウルで小学校時代を過ごした後、大阪に移り、1940(昭和15)年、関西学院中等部に入学。その後、再び金沢に転居し、1946(昭和21)年に金沢美術工芸専門学校に第一期生として入学、宮本三郎に師事。
 1952(昭和27)年に西宮へ転居した後は、神戸やその近郊を拠点にし、田村孝之介が率いる六甲洋画研究所や神戸・二紀会などを中心に制作活動を行っており、この表紙の絵はその頃のものである。
 1959(昭和34)年に渡仏。そして1969(昭和44)年には「静止した刻」(下図)により、具象絵画の登竜門である安井賞を受賞。主にこの作品のように社会や人間の闇を描いた画家であった。
 しばしば、新天地を求めてパリ、南米、スペインなど海外に中長期滞在しつつも、1985(昭和60)年に急逝するまで、国内では神戸を生活と創作の拠点にしていた。

◇「静止した刻(とき)」1968(昭和43)年
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 なお、姉の鴨居羊子は下着ブームの火つけ役を果たした下着デザイナー。
 余談になるが、早川良雄は鴨居羊子の下着ファッションショー「チュニックショー」の演出・舞台デザインを手がけている。

 さて、1957(昭和32)年11月15日発行のこの季刊誌『関西芸術座 No.3』(12ページだけのものだが…)の内容であるが、この年にラジオドラマ作品『つばくろの歌』で芸術祭文部大臣賞戯曲部門を受賞(次席は井上ひさし)、また関西芸術座で戯曲「虫」を発表するなど鮮烈なデビューを果たした、若き日(23歳)の藤本義一が大きくクローズアップされている。
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 巻頭には、藤本義一・作である関西芸術座公演の「虫」(下図・上)と「つばくろの歌」(下図・下)の舞台写真が掲載されている。
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 他にも、この年に『暖簾』を刊行して作家デビューし、翌年に『花のれん』により第39回直木賞を受賞した山崎豊子と関西芸術座の女優との座談会「女であるということ -女優と生活-」が掲載されている。
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 この当時は、まだマス・メディアによる文化の東京一極集中が行われる以前であり、まだまだ、関西の文化活動も元気だったことが伝わってくる…。
# by suzu02tadao | 2012-10-17 13:20