1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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ヴォーリズと近江八幡 <1>

◇旧八幡郵便局 1921(大正10)年
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 近江八幡を訪れるのは十数年ぶりで、以前訪れた時の旧八幡郵便局はまだ保存再生運動が始められたばかりの頃で、今は復元されている玄関アーチもなく、ほとんど廃屋同然の姿であった。
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 今回、旧八幡郵便局をはじめとする近江八幡のウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880 - 1964)が設計した建物をいくつか見ていくうちに、それぞれに共通するひとつの言葉が浮かんだ。
 それは、「佇まい(たたずまい)」である。
 ヴォーリズの設計した建物はどれも、その用途にふさわしい「佇まい」を見せており、すなわちそのものにふさわしい雰囲気をかもし出しているように思う。
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「建築物の品格は、人間の人格の如く、その外装よりも、むしろその内容にある」
(ヴォーリズ建築事務所作品集冒頭部分より)
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# by suzu02tadao | 2012-09-08 16:45 | Comments(0)

「表紙構成 --- ひろ・はら」 原弘

◇雑誌『サラリーマン』(1月号):1930(昭和5)年1月1日発行
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 最初にこの雑誌を見た時、表紙のデザインは村山知義か柳瀬正夢ではないか?と思ったが、当たらずといえども遠からず…で、築地小劇場に通い続けて、村山知義や吉田謙吉から多大な影響を受けていた原弘(はら ひろむ、1903-1986)が手がけたものである。

 原が築地小劇場で特に感激したのは、村山知義によるゲオルク・カイザーの「朝から夜まで」の構成主義舞台(下図)であった。
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 また、エル・リシツキーやバウハウス及び「ノイエ・ティポグラフィー(ニュー・タイポグラフィー)」の運動に魅了されていた頃でもあった。

◇原が新鮮さに息が止まるほどの大きな衝撃をうけたというエル・リシツキーのマヤコフスキーの詩集『声のために』の見開きページ
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 このように、革命後のソヴィエトのエル・リシツキー等の芸術家の前衛的な活動に興味をもっていた原は、母校である東京府立工芸学校の教員をする傍ら、「プロレタリア美術研究所」に通い、プロレタリア美術展にも2回出品している。

 月刊誌『サラリーマン』は、戦後にベストセラーとなった『現代用語の基礎知識』等を企画した長谷川国雄(1901-1980)が、1928年8月に「大衆のための経済解説」をコンセプトに世に送り出したもので、原が表紙のデザインを手がけたのも、この雑誌のコンセプトに共感したためであろう。

 この雑誌の目次には、「表紙構成 --- ひろ・はら」と記されており、あえて表紙構成としたところに、当時の原の意識が表れている。

 そして、この年(1930年)に原弘は花王石鹸の新製品パッケージ・デザイン指名コンペに加わり、見事、入賞をはたし、それ以降の活躍の第一歩を踏み出すのであった。

 <~むかしからある花王石鹸の包装を全く変えて、10銭売りの大衆商品として売りだすという、社運をかけた大仕事の、そのパッケージ・デザインの指名コンペの一人にぼくが選ばれたわけである。そのとき選ばれたのは、村山知義、吉田謙吉、広川松五郎それに印刷局の関なんとかという人だったと思う。ぼくはその中では最年少であり、尊敬する先輩が二人もいるので緊張したが、結果はぼくのヴァーミリオンのベタに、ローマ字を白ヌキにしたのが採用になった。~>
『デザインの世紀』原弘著より


◇新装花王石鹸パッケージ(1931年)
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# by suzu02tadao | 2012-09-05 11:45 | Comments(0)

「南青山骨董通り」

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 上図の現代の北欧デザインにも見えるモダンな図柄の皿は古伊万里で、もう二十数年前、南青山の通称「骨董通り」にある古美術店「たさぶろう」で買ったものである。
 その際、「元禄はある…」という店主の話に触発されたのが、私の時代を遡ってのモダン探訪の旅の始まりであった。
 それからは、『蚤の市の迷路』(竹永茂生著)にも記されているように、
 <土、日曜となると日の出と同時くらいに~蚤の市めざしてまっしぐら。~まるで時や遅しとダッグアウトからグラウンドへ駆け出さんとする甲子園球児のごとく飛び出していくのだから、我ながら何か物の怪に取り憑かれたと思うしかない。~云々>
となったのであった。

 当時はちょうど、コピーライターの仲畑貴志さんも骨董病にとり憑かれた頃で、既にコレクターとして定評のあった装幀デザイナーの菊池信義さんも骨董関係の本を著しており、また表参道及び青山通りが今以上にトレンドの発信地であった時代で、東京に用事がある時は、必ずといっていいくらいにこの辺りに立ち寄り、「たさぶろう」の裏手にあった喫茶店「ルポゼ」で一休みというのが私の行動パターンであった。

 『南青山骨董通り』(淡交社 1989年刊)の著者でもあり、TV等でおなじみの中島誠之助先生の店「からくさ」も当時はここにあったが、「貧好き」の私は一度もこの店で買い物をしたことがなかったため、この店で御当人を見たことはなかった。

 もっぱら(といってもたまにだが…)買い物をしたのは「古民藝もりた」で、6~7年前に下図の初期伊万里の陶片を購入した際、店主の森田直さんに、「なんとか、図柄の良いところだけが残ったといった感じですね…」と言われたのが印象的であった。
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 図柄の特に「雲」の表現が気に入って求めたものだが、これを見ると初期伊万里の絵付けは絵師の仕事であり、以前には同一視された「くらわんか」と呼ばれる量産を目的とした本来の民芸品とは別物であることがよく分かる。

 ところで、この「雲」と「柳」と「帆舟」の図柄は、古典に由来するものであろうと思われるが、そういうことにうとい私は意味がわからない。
 また冒頭のモダンに感じられる図柄にも意味があり、おそらく吉祥文様であろうと思われる。
 本当はそういった意味を理解した上で鑑賞しなければ、その当時の人々が味わったであろう趣の半分も味わっていないような気がする。
 近・現代人はほとんどこういった図柄や模様(文様)から意味を読みとることができないし、また、因習的な要素も含まれているため、時として一部のモダニストは自身の無知を棚に上げ、こういったものを「いかもの(キッチュ)」として蔑むのである。

 ここ数年は、こういったものの買い物には御無沙汰しており、同じ「古」が付くものでも「古書」が中心となっている。
 下の写真は、3年前のもので、今は金沢に移転している「オヨヨ書林」の店の入口付近から撮ったもので、向こう側に見えるのが「骨董通り」である。
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 この日は、まず根津美術館前の「日月堂」で目の保養をした後、「骨董通り」をひやかしてから、ここに来たのであった。
 実は、このブログのタイトルの他、ここで紹介した「松竹座ニュース」のいくつかは「オヨヨ書林」(東京古書会館及び西部古書会館の市)で入手したものなのである。
 つまりは、青山は今でも、私のモダン探訪の起点となっているのだ…。

 モダン探訪の始まりが銀座ではなくて青山だというところが、私が属する世代の特徴であろうと思われる。
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# by suzu02tadao | 2012-09-02 16:50 | Comments(0)

「加悦SL広場」

◇重要文化財 「123号蒸気機関車」運転席より
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 SLにも重要文化財に指定されているものがあることを、「加悦(かや)SL広場」を訪れるまでは知らなかった。
 「123号蒸気機関車」は1874(明治7)年に開通した大阪-神戸間で活躍したもので、日本の鉄道の黎明期を支えたものだという。

◇「123号蒸気機関車」の銘板
 英国最古参機関車メーカー Rt.Stephenson製 1873年6月製造
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 ここでは27両の貴重な車両を展示しているが、ほとんどの客車は新造時の姿に修復されていて、内部に入ることができるため、当時のノスタルジックなインテリアを堪能できるのが魅力である。
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 鉄道旅行がまだまだ贅沢だった時代のものだけに、ディテール等もひとつひとつが凝った造作になっており、丁寧に仕上げられている。
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 1925年製造の客車を改造したヨーロピアン調インテリアの「カフェ蒸気屋」では食事もできる。
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 「加悦SL広場」のある与謝野町は、かつて大正から昭和初期には「丹後ちりめん」の里として栄え、また与謝蕪村や与謝野鉄幹・晶子などのゆかりの地でもある。

【参考】与謝野モダンの旅
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# by suzu02tadao | 2012-08-30 15:20 | Comments(0)

「ランランチック」 今竹七郎

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 上図は、今竹七郎(1905 - 2000)がデザインした「ランランチック」のパッケージ及び、1935(昭和10)年の「ランラン油粧品」新聞広告(大阪朝日新聞社主催彩色広告競技特選受賞作品)【昭和のモダニズム 今竹七郎の世界(1989年)より】である。

 「昭和のモダニズム 今竹七郎の世界」は、1998年に西宮市大谷記念美術館で展覧会が開催された時に購入したもので(※その時には今竹七郎はまだ健在【92才】であった!)、先日、久しぶりに取りだしてきて、解説や本人自身がまとめたバイオグラフィーを読みなおしてみると、これがなかなかおもしろい。

 1926年、21才の頃、まだ神戸大丸でデザイナーとして本格的に活動する前に、関西初の月刊少女雑誌「乙女の園」の全ページのイラストとカットを担当しており、この雑誌の表紙は小磯良平であった。
 1929年には中山岩太らと神戸商業美術研究会を発足させ、1937年にはデザイン・ジャーナル誌『プレスアルト』の発起人となるのだが、主動メンバーには日本におけるモダニズム建築の先駆者のひとりである本野精吾がいた。
 また、「具体美術協会」を結成した吉原治良とは家も近く、かなり親密な交際があったようで、吉原治良から「具体」への参加を求められていたという。

 関西を中心に、日本のグラフィック・デザイン界にあって、その胎動期から戦後を通じて活躍し、モダンデザインの父と呼ばれる今竹七郎だが、その活動の範囲はデザイン界だけにはとどまらない。

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# by suzu02tadao | 2012-08-27 14:34 | Comments(0)