1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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三笠静子(笠置シズ子)の驚くべき進境!

◇松竹座ニュース【1934(昭和9)年 3/7~3/12】〔道頓堀〕
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 松竹座ニュース【1934(昭和9)年 3/7~3/12】の表紙のデザインは、この頃にはめずらしく 山田伸吉(shinkichi サイン)が担当している。
 恒例の「春のおどり」では、かつてのプリマドンナ飛鳥明子は前年に退団しており、今なおOSK日本歌劇団の劇団ソングである、作詞・岸本水府、作曲・松本四良の「桜咲く国」からその内容が紹介されている。
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 文章はこれに続いて、
 <単独にショウとして見せる従来のレヴュウの概念を棄てゝ、小話式に音楽の波と踊のリズムに乗せて面白く喜んで頂けるもので、もう一つの野心は舞台と客席の融合、フットライトを隔てたステージと客席とがそれを越えて一つの雰囲気にとけ込むと言ふ野心も或意味で成功させたと思ってゐます。
 ボンボーサに扮する、三笠静子の驚くべき進境は、この一景を非常に高い水準にまで引きあげ、彼女の存在をもう一つ大きくしました。
 今日、これだけ魅力あるうたと動きを見せて舞台をデリカにする踊子は 東西を通じて、先ず五人と居ないでせう。~>

 ここで三笠静子は、笠置シズ子のことで、翌1935(昭和10)年、崇仁親王が三笠宮を名乗ったのを機に、三笠を名乗るのは恐れ多いと笠置シズ子と改名した。

 1938(昭和13)年「帝国劇場」で旗揚げした「松竹楽劇団」に参加した際に、笠置シズ子は服部良一と出会う。
 服部は自伝「僕の音楽人生」の中で笠置との出会いについて、大阪で一番人気のあるステージ歌手と聞いて「どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませた」だが来たのは、髪を無造作に束ね薬瓶を手に目をしょぼつかせ、コテコテの大阪弁をしゃべる貧相な女の子であった。だがいったん舞台に立つと「…全くの別人だった。三センチもある長いまつ毛の目はバッチリ輝き、ボクが棒を振るオーケストラにぴったり乗って「オドウレ。踊ウれ」の掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女の子たちとは別格の感で、なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと納得した」とある。
 第二次大戦以降は、服部良一作曲の『東京ブギウギ』が大ヒットし、戦後の荒廃した庶民の心に開放感をもたらし、以後『大阪ブギウギ』や『買物ブギ』など一連のブギものをヒットさせ、「ブギの女王」と呼ばれた。
 ヒット曲のひとつ『ヘイヘイ ブギー』では笠置が「ヘーイ・ヘイ」と客席に歌いかけると観客が「ヘーイ・ヘイ」と唱和し、文字通り舞台と客席が一体となるパフォーマンスを繰り広げたが、まさにこの昭和9年の「春のおどり」は<かくあるであらう未来の姿をも描いた>ものであったようだ。

 笠置シヅ子(本名:亀井静子)【1914 - 1985年】は、小学校卒業後大阪松竹楽劇部生徒養成所に入所。1927(昭和2)年、「日本八景踊り」で初舞台を踏む。その後、1933(昭和8)年、『秋のおどり・女鳴神』の演技でスターの仲間入りを果たした。

◇第7回「春のおどり」(昭和7年)第五景「朝霞」より。
 一番左が三笠静子(順に、伊達良子、住ノ江節子、小町糸子、中島薫)
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# by suzu02tadao | 2012-04-23 14:00 | Comments(0)

東京鉄道遺産 ~モダンシティ・ストーリー

◇上野駅舎【1932(昭和7)年】
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◇1932年頃の上野駅舎
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 雑誌『東京人』3月号は、特集「東京鉄道遺産100」ということで、川本三郎、原武史、丸田祥三、内田宗治の四名が、後世に伝えていくべき鉄道遺産100を、それぞれ自身の鉄道遺産ベストテンとともに紹介している。
 <東京駅赤煉瓦駅舎のような鉄道遺産の大物中の大物といったものではなく、ユニークな捉え方で選んで>
いて、川本三郎さんが<この中ではいちばん鉄道オタク度が低い>と言いながらも、大変にシブい!ベストテンを選んでいるのは、さすがというところだ。
 <散歩の途中で、東京の近代化や歴史を発見する喜び。>とあるように、「東京鉄道遺産100」の中には、私が以前に東京の町をブラブラと歩きながら、思わず撮影したものもいくつか含まれている。

◇総武線松住町架道橋【1932(昭和7)年】
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◇東武伊勢崎線隅田川橋梁【1929(昭和4)年】
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◇東京都港湾局晴海線「春海橋」【1957(昭和32)年】
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◇小名木川支線(貨物線)の城東電軌跨線橋【1926(大正15)年】
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◇京成本線博物館動物園駅跡
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◇東武伊勢崎線浅草駅【1931(昭和6)年】
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◇万世橋-御茶ノ水間煉瓦積みアーチの高架橋群
  【1908~12(明治41~45)年】
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◇新橋-東京間煉瓦積みアーチの高架橋群と、そのガード下
  【1909~10(明治42~43)年】
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 下の写真も、新橋-東京間煉瓦積みアーチの高架橋群と、そのガード下(新橋駅近くの幸橋ガード)だが、なんと!、雑誌『太陽』1987 No.313特集「モダンシティ・ストーリー」の中に同じ場所を撮影した写真を発見した。
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◇雑誌『太陽』1987 No.313特集「モダンシティ・ストーリー」より
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 特集記事「都市のリリシズム・・・・松本竣介の東京」の中で、
 <人が格別注意を払わないような場所に、竣介の眼は吸いこまれていった。無機質な橋桁やうす汚れたガード下、暗く沈んだ運河の水面……彼は確かな線で物の輪郭をつかみ、都会の一隅が醸し出す憂いと詩情をカンバスに塗りこめた。それは新しい都市風景の発見であった。>というキャプションが付けられている。
 撮影者は高梨豊さんで、私の素人写真とは比べものにならないほど雰囲気のある写真で、モダニズムを探訪する人間にとってはバイブルのひとつともいえる本に載っているのは、やはり嬉しい。

 高梨豊さんといえば、田村隆一さんと一緒に「半七捕物帳」を手がかりに、旧幕の江戸、震災前の東京、そして戦後の東京を、足で探し歩くという『ぼくの東京』も、私の町歩きガイドブックのひとつである。
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# by suzu02tadao | 2012-04-21 13:50 | Comments(0)

「汽車の窓から」谷口梨花

◇「東京駅」(『汽車の窓から』より)
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 1872(明治5)年に日本で初めて鉄道が施設されると、その後は明治政府による官設鉄道と民間による私設鉄道によって運営されてきたが、両者が併存する状態は輸送効率上の障害となることから、1906(明治39)年に鉄道国有法が制定され、主要な私鉄は買収されて国有鉄道となり、国を挙げての鉄道整備が行われた。そして、長距離の旅客移動が容易となったことで、鉄道の利用者も増えて、一般的に観光旅行に対する関心も高まった。
 近代的な旅行ガイドブックの出版も国家主導ですすめられ、1911(明治44)年、鉄道院が『鉄道院線沿道遊覧地案内』を刊行。その後、『鉄道旅行案内』と改訂される。そして『鉄道旅行案内』で執筆・編集に関わっていた谷口梨花が、1918(大正7)年に博文館より出版したのが『汽車の窓から』である。
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 私が持っている『汽車の窓から(西南部)』は1919(大正8)年発行のものだが、発売から1年で19版を重ねていることでも分かるように、当時のベストセラーであったことがうかがえる。
 その内容については、この本の冒頭にもあるように、
 <~私は旅行者の多くが必ず遊覧せらるべき名勝地や都市などに就ては、汽車を下りて案内するの注意を怠らなかった。即ち車窓に於ける景観の説明者たるのみならず、鎌倉の案内者たり、箱根の案内者たり、富士登山の案内者たり、京都大阪奈良の案内者たり、伊勢神宮の案内者たり、吉野山の案内者たり、厳島の案内者たり、阿蘇登山の案内者たり、別府、耶馬渓、大宰府、出雲大社、其他主要なる地に就ては、汽車を下りての案内者たらんことを期したのである。>
 ということで、鉄道に沿いながらも、依然として江戸時代と同じような名所旧跡を訪ねる旅の紹介となっている。

◇「箱根乙女峠より見たる富士」(『汽車の窓から』より)
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 例えば富士山の案内では、富士を詠った俳句が紹介されているが、この俳句及び作者の選択の仕方に、江戸時代から近代への過渡期的状況が示されているように思う。
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【参考】
西山 宗因(にしやま そういん)【1605-1682】江戸時代前期の俳人・連歌師。談林派の祖。
 俳諧連歌ははじめ関西を中心に流行し、次第に全国へ波及し、松尾芭蕉の蕉風俳諧の基礎を築いた。 談林派は、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特色としたが、蕉風の発生とともに衰退した。
松尾 芭蕉(まつお ばしょう)【1644-1694】江戸時代前期の俳人。
 蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。
小沢卜尺(おざわ ぼくせき)【 ?-1695】江戸時代前期の俳人。
 江戸日本橋大舟町の名主。はじめ北村季吟に、のち松尾芭蕉に学ぶ。江戸で宗匠となった芭蕉に日本橋小田原町の住居を提供した。
伊藤 信徳(いとう しんとく)【1633-1698】江戸時代前期の俳人。
 京都の裕福な商人で、江戸に下り、芭蕉等と交流した。京都俳壇の代表的俳人として、当時その俳壇的地位は芭蕉と相拮抗していたといってよい。
宝井 其角(たからい きかく)【1661-1707】江戸時代前期の俳人。
 江戸堀江町で生まれ、松尾芭蕉の門に入り俳諧を学ぶ。蕉門十哲の第一の門弟と言われており、芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となる。
加賀 千代女(かが の ちよじょ)【1703-1775】江戸時代中期の俳人。
 加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれた。一般の庶民にもかかわらず、幼い頃から俳諧をたしなんでいたという。52歳には剃髪し、素園と号した。72歳の時、与謝蕪村の『玉藻集』の序文を書く。生涯に1,700余の句を残したといわれている。
与謝 蕪村(よさ ぶそん)【1716-1784】江戸時代中期の俳人、画家。
 松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の創始者でもある。独創性を失った当時の俳諧を憂い『蕉風回帰』を唱え、天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。蕪村に影響された俳人は多いが特に正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えた。
大島 蓼太(おおしま りょうた)【1718-1787】江戸時代中期の俳人。
 信濃国(長野県)伊那郡大島の人。生涯に行脚すること三十余度、編集にかかわった俳書二百余、免許した判者四十余、門人三百余と伝える一大勢力を誇示するに至った。正岡子規が「俗気紛々たる句多し」と評して以来、そうした蓼太評が一般化したが、中興俳壇に果たした役割は与謝蕪村以上に大きい。
正岡 子規(まさおか しき)【1867-1902】明治時代の俳人、歌人、国語学研究家。
 俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人である。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。

 谷口梨花の著書には他にも『-趣味の旅- 芝居と地蹟』(昭和3年)があるが、これは<芝居に描き出された場所と人物との遺跡について記したもので、申さば芝居名所旅行案内である。>というもので、当時ポピュラーだった岡本綺堂作「修善寺物語」にちなみ、「頼家と其墓」も紹介されている。

 やはり、本格的な近代観光を主唱する内容をもった出版物としては、1924(大正13)年に発行され、今年に休刊となった雑誌「旅」の登場を待たなければならないようだ。

 尚、私が持っているものについては、前の持ち主が十分に利用し尽しており、表紙等の表面は擦りきれ、内部も至るところに赤や青鉛筆での線引きがあったりで、その意味では気楽に使えるため、特に「青春18きっぷ」の旅では、この1世紀の沿線の時代の推移を味わうのには都合がよく、常に携帯して重宝している。
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# by suzu02tadao | 2012-04-16 13:30 | Comments(0)

「中山太陽堂の大正時代」展

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 大正100年にちなみ、大正モダニズムの世界を、化粧品・文具・雑誌などを中心に紹介。 主な展示史料は、大正期の中山太陽堂製品及びポスター等・プラトン文具(インキ・万年筆、シャープペンシル等)及びポスター等・雑誌(プラトン社発行『女性』『苦楽』等)。
 当然、展示史料はガラスケース等の中に展示されていたが、 なんと、雑誌『女性』の創刊号【1922(大正11)年5月発行】だけは、手にとって見れたので(最初は復刻版?かと思った…)、じっくりと内容を確認することができたのはうれしかった。

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 近くには「大阪府立江之子島文化芸術創造センター」が、4月1日よりオープンしています。
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住所:大阪市西区江之子島2丁目1番34号
大阪市営地下鉄「阿波座駅」8番出口から西へ約150m
 www.enokojima-art.jp
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# by suzu02tadao | 2012-04-14 09:45 | Comments(1)

其角俳句と江戸の春

◇「東京文学散歩(下町篇)」【隅田川】(1955年)角川写真文庫より
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 日本の1920年代を探訪する『モダン都市東京』(海野弘著)は、「向島」を起点として始まる。
 <私は堤防の上のベンチに坐って夜の運河をしばらく眺めていた。私は隅田川の左岸にいた。背後に三囲神社があり、右手には白鬚橋、左手に言問橋、対岸には台東体育館とプール、そして山谷堀の水口があった。ここから見ると、隅田川は自然の川というよりは、人工のプールのようだ。~>
 以前、東京にいた時、『モダン都市東京』の冒頭の場所を訪ねてみた事があった。
 その時に目印にしたのが三囲(みめぐり)神社だったのだが、ここで私が出会ったのが宝井其角であった。
 三囲神社の境内には其角の大きな句碑がある。
  夕立や田をみめぐりの神ならば
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この句碑の傍らには説明板があり、次のように書かれている。
<宝井其角(たからいきかく)「ゆふたちや」の句碑(雨乞の碑)
 元禄六年(1693)は大変な干ばつで、秋の収穫を心配して困りきった小梅村の人々は三囲神社に集まり、鉦や太鼓を打ち雨乞いをしていました。ちょうど、三囲神社に詣でた俳人其角が、このありさまをみて、能因法師などの雨乞の故事にならい「遊ふた地や田の見めぐりの神ならば」と詠んだのです。この話は其角自選句集の『五元集』にも「うたえば翌日雨降る」と記されているように、早速効果があったと伝えられています。~>

◇三囲神社の墨堤に向った入口の鳥居
 「東京文学散歩(下町篇)」【隅田川】(1955年)角川写真文庫より
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◇現在の三囲神社の鳥居
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 宝井其角は松尾芭蕉の弟子で、師の芭蕉に「門人に其角、嵐雪あり」(『桃の実』)といわしめる蕉門十哲の筆頭の俳人である。しかしながら、その作品は、ワビ、サビの世界、芭蕉の閑寂枯淡の境地とはかなりかけ離れており、また遊里を愛し、永年の飲酒が祟ってか47歳の若さで亡くなっている。

  鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
  闇の夜は吉原ばかり月夜かな
  夕すゞみよくぞ男に生れけり
  我が雪と思へばかろし笠の上


 其角は自然風土よりも市井の人事を詠み、人情の機微を詠んでいる。そのために、去来や凡兆などの蕉門後期の門弟たちには疎まれる傾向があったようだ。

 最近では其角俳句はほとんど忘れ去られており、其角に関する著書は少ないが、『昭和史』で著名な半藤一利さんが『其角俳句と江戸の春』(2006年刊)を著している。尚、この本の中でもふれているが、永井荷風は其角をとても評価していたようで、『断腸亭日乗』の昭和3(1928)年2月13日の項で次のように記している。
 <晋子其角は年わづかに四十七にて歿したり。されど短命の生涯に二度まで京都に遊び、其名を永く後世に伝へたり。人この世に生るゝや寿は天命なり。才名を世に伝ふることを得ば短命敢て悲しむに当らざるべし。悲しむべきは才つたなくして学の浅きことなり、余早くも五旬に達して碌々として為すこともなし、たまたま物書かむと思へど常に病苦の妨ぐる所となる、歎くも悔るも五十の声を聞きては既に及ばぬことなり。~> 
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# by suzu02tadao | 2012-04-10 16:40 | Comments(0)