1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
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深日港(ふけこう)

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 深日と書いて「ふけ」と読みます…

 深日は大阪の最南端・岬町にありますが、万葉集・大和物語・続日本記にも登場するというような、古くから知られた地名です。
 もともとの読みは「ふけひ」で、それが「ふけ」に転訛したとのこと。

 かつての深日港はフェリーの発着場でした…
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 1948(昭和23)年、南海電鉄多奈川線の深日港駅は、深日港の完成に合わせて開業。
 同時に淡路航路と四国航路のフェリーが開設され、難波からの連絡急行の運転で、大阪 - 淡路島・徳島間を最短で結ぶメインルートとして賑わいました。
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 しかしながら、1970年代以降は大阪港や神戸港に発着するフェリーや高速船の充実もあって、深日港ルートを利用する旅客は次第に減少し、終には、1998(平成10)年の明石海峡大橋の開通によって旅客や航送車などが激減したため、深日港のフェリーは廃止になったのでした。
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 かつては6両の列車が停車していた当時の面影を残している、深日港駅のホーム。

 今や2両編成の電車が一時間に2本停車するだけです。
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 駅の横手には、かつてのフェリー客用の臨時改札口が、忘れ去られたように当時の姿のままで残っていました。
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 駅前の線路脇に残る、かつては旅館だった建物。
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# by suzu02tadao | 2017-06-02 11:00 | Comments(0)

中之島バラ園

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 中之島公園のバラ園は以前から何度も撮影していたので、特に新鮮味はなかったのですが…
 ふと思いついて、北浜レトロビルをバラと一緒に撮ってみました。

 バラの花だけを撮った時よりも、一段といい雰囲気になりました…
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 そのほかにも対岸やバラ園の中にはテラス席のあるカフェ・レストランもあるので、背景に周囲の風景を入れて撮った方が、お洒落ですね…
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 バラの他にも可憐な花の花壇があって、バラ園を背景にすると、これもなかなかいい雰囲気です…
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 バラ園から見た北浜レトロビル。
 日本じゃないみたいですね…
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# by suzu02tadao | 2017-05-31 07:00 | Comments(2)

バヤリース&ビール

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 バヤリース・オレンジが日本国内で製造販売されたのは、1951(昭和26)年かららしいですが、これは、その当時の包装紙のようです。
 アンディ・ウォーホルが手がけたコカ・コーラのポップアート作品みたいで面白かったので、20数年前に老松町の骨董店で手に入れたものです…

 アサヒビール初代社長であった山本為三郎(1893-1966)は、その著書『上方今と昔』の中で次のように語っています。

 こんどの戦争が終ってみると、アメリカでは昔からオレンジ・ジュースはあったのですが、戦争中に瓶詰飲料として非常にはびこって来ていたのです。私が三十数年前に必要だと思って売出したレモラのようなものが、たいへん喜ばれている。そこでバヤリース・オレンジというものを、日本へ採入れたのです。これはカリフォルニア・オレンジです。宝塚でやっているウイルキンソン会社にやらしたのですが、今日ではブームといっていいくらい、各地で瓶詰オレンジ・ジュースがサイダーと並んで盛んに売れています。

 レモラというのはレモンとオレンジのジュースですが…

 これはうまいというので好評だったのですが、当時はサイダーと両立しない、レモラが売れると三ツ矢サイダーが売れなくなるというので、とうとう中止してしまいました。

 アサヒビールの前身であった大日本麦酒株式会社の戦前のパンフを見ると、確かに「三ツ矢レモラ」が「三ツ矢サイダー」や「リボンシトロン」と共に載っていました。
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 やはり、その当時の中心は「三ツ矢サイダー」と「リボンシトロン」だったようです。
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 前回、かつて大阪がガラス産業の中心地だったことにふれましたが…

 明治の昔、当時の農商務省が外国から技術者を入れて、東京の品川でガラス工場をつくり、職工を養成したのですが、それが芽をふき、実を結んだのは関西でした。
 明治の中葉に、島田孫市とか徳水玉吉とかいう人が品川で養成されて、大阪で工場を始めたのも、私の父がビールびん、サイダーびん、それから輸出びんをつくったのもその次くらいでしょう。そのガラスびん製造業が縁になって、私はサイダーに関係し、ビールに関係することになりました。


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    鍋井克之・画(『上方今と昔』より)


 『上方今と昔』では、次のようにも書かれています…

 大阪のアサヒビヤホールでは、コップ一杯五銭で売りました。硝子の中の処が細まった形をしたコップです。明治三十五年に今の新世界と天王寺公園の処に博覧会が開かれた時は、会場内にビヤホールを設けて、やはり一杯五銭で売りましたが、この時に初めてビールというものを味わって、それから好きになった人も多いようです。

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 大日本麦酒株式会社はアサヒ、エビス、サッポロの各ビール・メーカーが合併してできた会社で、当時の市場占有率は約7割もあったといいます…
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 山本為三郎は「民藝運動」の支援者で、河井寛次郎、バーナード・リーチ、濱田庄司、富本憲吉、棟方志功および芹沢銈介といった作家たちの作品をはじめとするコレクションは、アサヒビール大山崎山荘美術館の中核を占めていますが、それらは山本為三郎自身が日常親しく愛用したものばかりだったようです。

 『上方今と昔』は装幀を佐野繁次郎が手がけたもので、こちらもポップでステキですね…

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# by suzu02tadao | 2017-05-28 07:00 | Comments(0)

大阪の「ええもん」色々…

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 老舗の和菓子屋「菊壽堂」の名物、“高麗餅”です。

 高麗餅は、こしあん、粒餡、白餡、抹茶、ごまの5種類。
 5色それぞれの餡でやわらかい求肥(餅)を包み、お寿司のように握った色鮮やかな和菓子。
 餡は甘さ控えめで小豆本来の味が堪能でき、見た目の美しさも一緒に味わえる一品です。

 今から50年位前に「手軽に食べられる和菓子」として考案されたもので、高麗餅の名前の由来は、当時親交のあった歌舞伎役者、八代目の松本幸四郎さんが歌舞伎の屋号である「高麗屋」にちなんで名付けてくれたものだといいます。

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 「菊壽堂」の創業は江戸時代、天保年間(1830年)。
 実際は1600年代の創業のようですが、昭和20年の空襲で店が焼けたため、資料がないらしい…
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 このような大阪の「ええもん」を集めたセレクトショップが、天神橋筋商店街2丁目にある『天満天神MAIDO屋』です。

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 この店のすぐ近くにある大阪天満宮の門前には「大阪ガラス発祥之地」という碑がありますが、宝暦年間(1751年)に長崎商人・播磨屋清兵衛 が天満天神鳥居前に工場(玉屋)を設け、市井に販売したのが大阪のガラス産業の始まりだったそうです。
 それ以降、この界隈は日本のガラス製品販売の中心地として隆盛を極め、第二次大戦前には大阪における輸出第一位を占める重要輸出産業になっていました。

 戦後になると大阪のガラス産業は急速に衰退しましたが、そのような大阪ガラスの伝統を今に伝えているのが「天満切子」です。

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 その他にも『天満天神MAIDO屋』には、大阪の「ええもん」が色々とありました…
 ちなみに店内は自由に撮影OKです。

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 大阪はかつて「水の都」「橋の都」といわれました。
 松川二郎著『趣味の旅 名物をたづねて』(大正15年刊)の中では、牡蠣船が紹介されています。

 舟料理の一種に牡蠣船がある。
 これ亦甚だ大阪気分に富んだもので、頃は十一月木枯しの風やうやく霜を帯ぶるに至ると、彼方の橋の下、此方の河岸にかき船があらはれて、風につれてほのかに鼻を打てくる磯の香に、抑へ方なき味感をそゝられるのであつた。

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 今では、大阪の牡蠣船は「かき広」の1隻だけになってしまいました。
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 大阪の「ええもん」といえば、やっぱり通天閣は外せませんね…
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# by suzu02tadao | 2017-05-25 07:00 | Comments(0)

昭和11年「未来の夢」

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 現在飛行機では不可能だとされてゐる、垂直上昇や空中停止が出来るやうになれば、人間の生活はいよいよ地上から空にも延長されることは確かである。
 そして一年でも二年でも空中に止まり、又時に気象や天候の加減によつて、位置、高度を自由に変へることが出来るやうになれば、空の生活は極めて安全で愉快なものであらう。
 もちろん燃料や、食糧、その他日常の必需品は低空に下りて釣り上げればよいし、又地上に用向きのある場合には、おーいと手をあげて空中間タクを呼べばよい。

 上のイラストは「空の文化住宅」と題されたもので、昭和11(1936)年の雑誌『家の光』9月号の特集記事「科学者の描く未来の夢」の中の一つです。
 ビルそのものが「天空の城ラピュタ」のように空中に浮かぶという大胆な発想には驚かされます。

 この「滞空ビル」は…
 ビルの上方に強力にして極めて軽量な機関(エンジン)で不断に回転される整調推進器(コントラプロペラ)によつて得る風力が卵形の外壁に添って流れ、環状翼に作用して浮力を得て、空中に浮かぶやうな仕掛になつてゐる。
 そして水平運動は下方の垂直推進器によつて行はれる。
 ビルの下方、円型に見えるのは着陸のための建築物である。

 「滞空ビル」には、下のイラストのように可動式のものもあるようで…
 これは左右の回転翼の角度を変へて前進、後進、垂直、いづれの方向にも動くことが出来る滞空ビルの一種である。

 「ロケット式成層圏旅客機」などのロケットの利用も盛んになって…
 太平洋横断も「ちよつと隣まで。」と、気軽に僅か数時間でできるし交通費も安くならう。

 外国行郵便物などは磁気誘導ロケットで安全急速に目的地に飛ばせることができるやうになつて、もはや、陸上、海上の旧式な交通は昔語りとして顧みられなくなつてしまふのではあるまいか。
 その頃は現今では不可能だとされてゐる推進器の音響除去装置なども、当然可能な時代に入つてゐるであらう。

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 最近では未来都市といえば、環境に配慮した構想が当たり前になっていますが、すでにこの当時、「緑の都会と文化的田園」が提案されています。

 人間は、太陽の光と、自然の緑とに接しなくては健康上、精神上堪へられなくなるが、大建築の屋上はいづれも青々と草木を茂らせ、僅かの空地や地下にさへ人口太陽灯の光で大庭園や草園が都会人の心に十分の潤ひと慰安とを与へるから、むしろ現在の無味乾燥なビル街より遥かに理想的なものになるであらう。

 又、都市の空気や川は常に空気及び水路浄化施設によつて清浄に保たれてゐるし、各種の発達した交通機関も不快な音響を立てて市民に過重の心労を与へたり、交通事故、作業能率の低下となるやうな原因を取除くだらう。

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 さすがに農村部を中心とした雑誌『家の光』だけあって、次のような都会と農村が一体になった斬新な構想も描かれていました…

 水利を完備し水田は平地のみでなく、一つの農作用建築物の各層に亙つて年中自由に必要なものの栽培が行なはれよう。家畜、家禽等もすべて立体的な飼育をするやうになるであらう。又絶壁などにも幾層ものコンクリートの柵を作り、こゝに米を植ゑることになるのではあるまいか。
 この時代には地面に栽培する以外には土壌を用ゐず農作物悉く水栽培によるから、栽培が簡単になるばかりでなく、多くの太陽光線も要求せず、又、必要によつては人工光線で補ふやうになるだらう。従つて作物の収穫も平均する。

 田園管理の簡易化は、農村人の富と知識の増進となり、都会と農村とが産業的に、生活的に、知識的に、正しい意味での文化的接近が遂げられると思ふ。

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 この他にも、エネルギー問題や人口増加に対応した食糧問題についても取上げていて、その当時の科学者が描いた世界が、下にあげた、ここ数年の間に提案されている近未来のイメージとほとんど同じような内容であることがわかります。

 さて、このように斬新で素晴らしいビジョンが描かれた、昭和11(1936)年は転機の年でもあったようです。
 日本では二・二六事件があり、また、ヒトラーがナチス・ドイツの台頭を世界に誇示したベルリン・オリンピックが開催される中で、その後、世界情勢はますます緊迫して行き、ついには第二次世界大戦へと突入していったのでした。

 これらの素晴らしいビジョンを実現するための科学技術は、兵器のために活用されることになり、その後の焼け跡からの復興では、経済効率だけを優先させた挙句、多くの公害問題を引き起こしました。
 そして…
 今世紀になったくらいからやっと、同じように環境に配慮した未来図が描けるようになったという次第です。

 なんとも遠回りしてきたものですね…

 それにしても、ここに描かれた世界は本当に近未来なのでしょうか…?
 まさか、また遠回り…!?

[ Urban Skyfarm ]
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[ Floating Responsive Agriculture ]
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[ 2050 Paris Smart City ]
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# by suzu02tadao | 2017-05-22 10:00 | Comments(0)