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「汽車の窓から」谷口梨花
◇「東京駅」(『汽車の窓から』より)
1872(明治5)年に日本で初めて鉄道が施設されると、その後は明治政府による官設鉄道と民間による私設鉄道によって運営されてきたが、両者が併存する状態は輸送効率上の障害となることから、1906(明治39)年に鉄道国有法が制定され、主要な私鉄は買収されて国有鉄道となり、国を挙げての鉄道整備が行われた。そして、長距離の旅客移動が容易となったことで、鉄道の利用者も増えて、一般的に観光旅行に対する関心も高まった。 近代的な旅行ガイドブックの出版も国家主導ですすめられ、1911(明治44)年、鉄道院が『鉄道院線沿道遊覧地案内』を刊行。その後、『鉄道旅行案内』と改訂される。そして『鉄道旅行案内』で執筆・編集に関わっていた谷口梨花が、1918(大正7)年に博文館より出版したのが『汽車の窓から』である。 私が持っている『汽車の窓から(西南部)』は1919(大正8)年発行のものだが、発売から1年で19版を重ねていることでも分かるように、当時のベストセラーであったことがうかがえる。 その内容については、この本の冒頭にもあるように、 <~私は旅行者の多くが必ず遊覧せらるべき名勝地や都市などに就ては、汽車を下りて案内するの注意を怠らなかった。即ち車窓に於ける景観の説明者たるのみならず、鎌倉の案内者たり、箱根の案内者たり、富士登山の案内者たり、京都大阪奈良の案内者たり、伊勢神宮の案内者たり、吉野山の案内者たり、厳島の案内者たり、阿蘇登山の案内者たり、別府、耶馬渓、大宰府、出雲大社、其他主要なる地に就ては、汽車を下りての案内者たらんことを期したのである。> ということで、鉄道に沿いながらも、依然として江戸時代と同じような名所旧跡を訪ねる旅の紹介となっている。 ◇「箱根乙女峠より見たる富士」(『汽車の窓から』より) 例えば富士山の案内では、富士を詠った俳句が紹介されているが、この俳句及び作者の選択の仕方に、江戸時代から近代への過渡期的状況が示されているように思う。 【参考】 西山 宗因(にしやま そういん)【1605-1682】江戸時代前期の俳人・連歌師。談林派の祖。 俳諧連歌ははじめ関西を中心に流行し、次第に全国へ波及し、松尾芭蕉の蕉風俳諧の基礎を築いた。 談林派は、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特色としたが、蕉風の発生とともに衰退した。 松尾 芭蕉(まつお ばしょう)【1644-1694】江戸時代前期の俳人。 蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。 小沢卜尺(おざわ ぼくせき)【 ?-1695】江戸時代前期の俳人。 江戸日本橋大舟町の名主。はじめ北村季吟に、のち松尾芭蕉に学ぶ。江戸で宗匠となった芭蕉に日本橋小田原町の住居を提供した。 伊藤 信徳(いとう しんとく)【1633-1698】江戸時代前期の俳人。 京都の裕福な商人で、江戸に下り、芭蕉等と交流した。京都俳壇の代表的俳人として、当時その俳壇的地位は芭蕉と相拮抗していたといってよい。 宝井 其角(たからい きかく)【1661-1707】江戸時代前期の俳人。 江戸堀江町で生まれ、松尾芭蕉の門に入り俳諧を学ぶ。蕉門十哲の第一の門弟と言われており、芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となる。 加賀 千代女(かが の ちよじょ)【1703-1775】江戸時代中期の俳人。 加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれた。一般の庶民にもかかわらず、幼い頃から俳諧をたしなんでいたという。52歳には剃髪し、素園と号した。72歳の時、与謝蕪村の『玉藻集』の序文を書く。生涯に1,700余の句を残したといわれている。 与謝 蕪村(よさ ぶそん)【1716-1784】江戸時代中期の俳人、画家。 松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の創始者でもある。独創性を失った当時の俳諧を憂い『蕉風回帰』を唱え、天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。蕪村に影響された俳人は多いが特に正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えた。 大島 蓼太(おおしま りょうた)【1718-1787】江戸時代中期の俳人。 信濃国(長野県)伊那郡大島の人。生涯に行脚すること三十余度、編集にかかわった俳書二百余、免許した判者四十余、門人三百余と伝える一大勢力を誇示するに至った。正岡子規が「俗気紛々たる句多し」と評して以来、そうした蓼太評が一般化したが、中興俳壇に果たした役割は与謝蕪村以上に大きい。 正岡 子規(まさおか しき)【1867-1902】明治時代の俳人、歌人、国語学研究家。 俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人である。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。 谷口梨花の著書には他にも『-趣味の旅- 芝居と地蹟』(昭和3年)があるが、これは<芝居に描き出された場所と人物との遺跡について記したもので、申さば芝居名所旅行案内である。>というもので、当時ポピュラーだった岡本綺堂作「修善寺物語」にちなみ、「頼家と其墓」も紹介されている。 やはり、本格的な近代観光を主唱する内容をもった出版物としては、1924(大正13)年に発行され、今年に休刊となった雑誌「旅」の登場を待たなければならないようだ。 尚、私が持っているものについては、前の持ち主が十分に利用し尽しており、表紙等の表面は擦りきれ、内部も至るところに赤や青鉛筆での線引きがあったりで、その意味では気楽に使えるため、特に「青春18きっぷ」の旅では、この1世紀の沿線の時代の推移を味わうのには都合がよく、常に携帯して重宝している。
by suzu02tadao
| 2012-04-16 13:30
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