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1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
by 大阪モダン
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みづゑ<追悼・小出楢重>

◇画室に於ける小出楢重氏(『みづゑ No.314』より)
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 『みづゑ No.314』 【1931(昭和6)年4月号】には、この年の2月13日に亡くなった小出楢重の特集記事が載っている。

 小出楢重と共に「信濃橋洋画研究所」を設立するなど、大阪を拠点にして活躍した鍋井克之は「小出楢重君の追憶(美術学校時代より新進作家となる頃迄)」と題して、東京美術学校時代から知り合いだった小出楢重について書いているのだが、小出が文展に出品しては落選を繰返していた時に、小説家の広津和郎を小出に紹介したことがきっかけとなり、出世作「Nの家族」を二科展に出品して入賞した事や、小出の素描が挿絵に向いていることを鍋井が見抜いて、やはり小説家の宇野浩二に小出を紹介して、作品の装幀と挿絵を手がけたことが、その後、挿絵画家としても活躍するきっかけになったことなど興味深い内容になっている。

 更に、鍋井克之は『みづゑ No.324』 【1932(昭和7)年2月号】で、「小出楢重の一周忌に際して -付『小出楢重画集』発刊-」と題した中で次のように述べている。
 <~西欧の画集は、世界を相手にしているので立派なものも出せるのであろうが、日本人の画集も、これと思うような人のは、せめて数冊でも西洋へも見せるようになればいいと思う。日本の画人は同業者どうしの欠点をあげては、自ら肩をそびやかしている感じであるが、日本の油絵を世界的に開けて行く路をつけるための仕事にも努力したいものである。こんなことと画集の発行とを結び付けてはおかしいが、とりあえず画集のいいのがあることは願わしい次第である。>

◇仏蘭西人形-顔 【1930年作】(『みづゑ No.314』より)
みづゑ<追悼・小出楢重>_c0239137_2184255.jpg

 また、『みづゑ No.314』で、木村荘八は「小出君を悼む」と題して次のように述べている。
 <思えば、身辺に年来、萬鉄五郎を悼み、岸田劉生を悼み、前田寛治を悼み、又、小出楢重を悼み来る。>
 <ことに此の人亡しとすれば、画壇に此の人に代わるこういう人は居ない。此の人に描かれると云うと、往年のラッパでも、果物でも、近年の、好んで観者に尻を向けた裸体婦人に至るまで、これは抑々初めっからの、ロココ趣味がかった椅子などの描写からして、何かそこに、怪異の気がある。作者は好んでそう描こうとしたものでは無かっただろうが、一脈の怪異飄逸が感悟されて、しかもこれがしっくりといつも画技の中から来るもので、すこしも趣味的あるいは文学的援助を透かして来るのではないから、この点が故人の画家として残した明瞭な画界への足跡だと推服する理由ながら、端的に云えば、あえて小出楢重の使った額縁で、一枚たりとも、非美術的なものがあったとすれば、おおよそ懸賞付きで探そうとも無いはずである。>


 前回も書いたように、内容も確認せずにこれらの『みづゑ』を購入したのだが、奇しくも、この四天王寺の古本市で、下図の小出楢重の絵葉書及び同じ頃の、岸田劉生と佐伯祐三の絵葉書も購入しており、なんとなく因縁めいたものを感じたのであった。

◇「地球儀のある静物」第12回二科展【1925(大正14)年】出品作(絵葉書)
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by suzu02tadao | 2013-05-03 21:14
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