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1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
by 大阪モダン
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『阪急美術』

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 1941(昭和15)年4月5日発行『阪急美術』第31号です。

 月刊美術雑誌『阪急美術』は、美術品のコレクターでもあった小林一三(1873-1957)が、美術品蒐集家や趣味人の層を広げるために昭和12年に創刊したもので、前回とりあげたように、阪急百貨店は民藝運動をバックアップしており、この号の表紙装釘はまだまだ売れない作家だった頃の棟方志功が手がけていて、題字は岸本水府となっています。

 そして、この号には船木道忠の陶器展の案内が載っています。
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 船木道忠(1900-1963)は、松江藩の御用窯であった布志名焼の窯元の家に生れました。
 布志名焼は、大名茶人の松平不昧公の好みを反映した茶器類を焼いていましたが、明治末頃には衰退してしまいます。
 そこで、昭和に入ると、柳宗悦や河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチらの民藝運動にいちはやく共鳴して、民藝陶器として復活するのですが、私がおもしろいと思ったのは、船木道忠がバーナード・リーチと共にスリップウエアと言われる英国では廃れていた伝統的技法を再現させたことです。
 ここには、民藝運動が古くからある伝統的な手仕事に注目する一方で、ワールドワイドに展開するモダニズムの様相も見せていると思えるからです。

 前回、森口多里の「民俗工藝小感」の記述を紹介しましたが、この文章が載っていた『民俗と藝術』(昭和17年刊)の序文に次のようにあって、興味をそそられます。
 <大正十二年の関東大震災の惨状をあとにして故国を去つて、~(略)~私は昭和三年の五月に帰朝して始めて知つて驚きもし喜びもしたのは、民族芸術、民藝、商業美術、この三つの熟語が新しく生れ、或ひは新しく一般化し、そしてこの三つの分野でそれぞれ情熱的に活動してゐる一群の人々の現はれてゐたことであつた。>

 1920~30年代というと、科学技術の進歩による機械化や交通機関の発達、あるいはモボ・モガの出現等といった側面だけでとらえがちですが、「民藝運動」もモダニズムの時代に始まったことにも注目してみる必要があるように思われます。

 実際に、民藝となった布志名焼では、日本の家庭生活が洋風化していく中で、コーヒー碗や紅茶碗を始め、ピッチャーやエッグベーカーなどを作っています。

 『阪急美術』編集長の山内金三郎(1886-1966)は、阪急百貨店内にあった古書店「梅田書房」のオーナーとしても活躍したのですが、この「梅田書房」にいた廣岡利一が独立して開業したのが、美術古書籍及び美術工芸品を扱う「りーち」(現:株式会社リーチアート)で、やはり、山内金三郎の意思を受け継いでいるようです。

 下図は「りーち」の「古民窯展」の案内です。
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 この案内に載っているような品々は、私が店に行った時には、ほとんどが売約済みとなっており(売れ残っていたところで私が買える値段ではないのだが…)、なんとか、私が買ったものが下の写真の布志名焼のピッチャーでした。
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 現在でも、わが家の玄関で花瓶として使っています。
by suzu02tadao | 2014-02-22 14:35
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