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1920~30年代を中心に、あれこれと・・・
by 大阪モダン
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それでも私は行く

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 先斗町と書いて、ぽんと町と読むことは、京都に遊んだ人なら誰でも知っていよう。
 というフレーズで始まる織田作之助『それでも私は行く』では、その後に「鴨川小唄」が登場していました・・・

「君の家」の君勇は稽古に出掛けようとして、
「……通い馴れたる細路地を……」
 と、昔、はやったが今はもう時代おくれになってしまっている鴨川小唄の一節を、ふと口ずさみながら、屋形の玄関をガラリとあけて出た途端、
「あら――」
 と、立ちすくんだ。
 路地の奥から出て来た、まだうら若い美貌の学生の姿を見つけたのだ。
 帽子の白線は三本、桜の中に三の字のはいった徽章、先斗町の「桔梗家」から吉田の三高へ通っている梶鶴雄といえば、この界隈で誰ひとり知らぬ者はない。


 この後、「東華菜館」の前まで来た梶鶴雄は、サイコロの目で次の行動を決めて、四条河原町の方へ歩いて行くところから物語は進んでいきます・・・

 『それでも私は行く』は、1946(昭和21)年4月25日~7月25日、京都日日新聞夕刊に連載された小説で、織田作之助が亡くなる一年前、32歳の時の作品です。
 この作品、「可能性の文学」の試みの一つで、決して完成度の高いものではありませんが、オダサクが青春時代を過ごした京都を舞台に、しかも主人公の梶鶴雄に自らの青春の影を仮託し、彼自身にとって懐かしい思い出の場所を描いているため、戦後間もない京都の風俗、町の雰囲気などが、いきいきとした会話とともにリアルに表現されていて、発表当時は大変に好評だったというのもうなずけます。
 また、当時実在した地名や店、建物が出てくるのですが、けっこう今でも同じ場所に同じ店などがちゃんと残っていたりしています。

 鶴雄は三条通りの「三島亭」の横を寺町通りへ折れて行った。
「三島亭」は古い牛肉店で、戦争前は三高の学生たちがよくこの店でコンパを開いて、
「紅燃ゆる丘の花……」
 という校歌やデカンショ節をうたいながら、牛飲馬食した。当時は会費は一円か二円で済んだという。想えば昔なつかしい青春の豪華な夢であるが、しかし、鶴雄が学校へはいった時はもうコンパなぞ開こうと思っても開けず、「三島亭」のコンパも、鶴雄にとってはもはや想像も出来ない古めかしい伝説であった。

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◇「都をどり」1930(昭和5)年パンフレットより
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 ここのところ、神戸、大阪、京都と立て続けに古書市があって、懐がさびしかったにもかかわらず、「それでも私は行く」と、この作品に出てくる小説家の“小田策之助”(もちろんオダサク自身のことです)のように、下手な駄洒落を言いながら、下鴨にやってきた私は、やはり、作品に出てくる葵橋にも寄ってみたのでした。
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 葵橋から見た北山も風情があります。
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 さて、ここからは糺の森です・・・
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 ふと、見上げると…テントに落ち葉の影絵が・・・
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 下鴨といえば、森とテントと裸電球…ですね。
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by suzu02tadao | 2014-08-24 13:00
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